クルルのおじさん 料理を楽しむ

台所俳句

小川軽舟さん著『俳句と暮らす』という本があります。中央新書、2016年12月25日発行。本屋さんで立ち読みをしていてパラパラと頁を捲ると、第一章の最初の頁に,

●レタス買えば毎朝レタスわが四月 軽舟

という句があるのが目に入りました。「おお、これは僕と感性が近しい方に違いない!」この句を見て即買いました。この方は俳人ですが、同時に単身生活のサラリーマンです(であった。過去形かも知れません)。1961年(昭和36年)生まれですから、僕よりも一回りほどお若い方。俳句雑誌「鷹」で藤田湘子に師事。湘子の逝去に伴い「鷹」の主催を引き継がれたそうです。

「俳句は日々の生活から離れた趣味の世界としてあるものではない。日々の生活とともにあって(中略)その大切な思い出を共有することができる仕組みである」という考え方をされています。それで本の題名も『俳句と暮らす』とされた由。読者にも「俳句と暮らす」生活を提案されています。

宣伝の帯には「平凡な日常をかけがえのない記憶として残すための俳句入門」と書かれてますが、筆者は「記憶を残すため」以上のものを俳句に対して持たれていると評価したいです。

 

第一章は「飯を作る」。単身生活、自炊=料理と僕が興味を持っているテーマですのでそれこそ一気に読みました。僕の感じていること、また、言いたいことと一致していることが多かったので嬉しくなります。それをサラッっと文章になさっている。さすがにプロの俳人。表現が適格だと思います。第一章だけでなく、それ以降の各章も大変に面白かった。僕の言いたいことをすっと心に入ってくる言葉で書いてくれているような気がするくらい。思わず「そうなんや、それを僕はいいたかったんや」と膝を打って感心しました。

 軽舟さんは「自然な流れ」で自炊の生活に入って行かれた由。「私は料理を趣味とする者ではない。『男の料理』という言葉が今一つ苦手である。私の料理は自分の好きなモノを食べるためのもの」と。そして「その生活を新鮮に感じることができるのが、俳句のおかげ」「台所に立つようになり、季節との出会いが更に新鮮に感じられる」とのことです。羨ましいほどに素晴らしい感性を持たれているのでしょう。

また「面倒が高じて自炊が嫌になってしまわない」工夫をされています。「食材に興味を持つ、買い過ぎない、洗い物を増やさない」。掲題句はその精神に沿ったものと。材料は買い過ぎはしないが「覚悟を決めてまるまる一個買うのが王道だ」とおっしゃってます。若干の流儀の違いはあるものの考え方を共有できる。これは同志だと感じました。俳句の感性、言葉の感性には羨ましさを感じますが、単身おじさんの俳句と自炊の生活に拍手を送りたいと思います。

 

俳句の世界に「台所俳句」という言葉があるそうです。高浜虚子が女性の「雑詠(ざつえい)」を募ろうと工夫した。当時、女性は只々家の中にいて家事に専念するのが当然という時代ですから、女性に雑詠させようというのは「開明的な発想であったもの」だそうです。「ホトトギス」に「台所雑詠」の欄を設けた。大正5年です。「具体的な題が例示されている。例えば、台所、鍋、七りん、俎板、水瓶・・・灰神楽、煮こぼれ、居眠り、下働き、お三」と題を見るだけでも時代が感じられます。主婦が台所仕事に一日のかなりの時間を費やしていた時代。台所仕事=女性・主婦の一日という構図ですから「台所俳句とは女性が日常そのものを詠む、ということであった」。時代の流れを俳句で紹介されています。台所仕事が大変な大正の時代から年号が変わり昭和になると、

●秋雨の瓦斯が飛びつく燐寸かな 中村汀女 (昭和10年作)

「苦労して薪や炭を焚かなくても簡単に煮炊きの火が得られるガスの便利さとなった」。これが更に平成になると、

●朝ざくら家族の数の卵割り 片山由美子

「もはや女性が台所に押し込められていた時代とは全く違う。『台所俳句』というレッテルから自由になった時代の句に」なっていると俳句を通じて台所の歴史を解説されています。確かに台所仕事が主婦のムチャクチャな負担であった時代は遠い昔になっていることが俳句から感じ取れます。

 

一方、「『男子厨房に入らず』という戒めの時代は変わった」。ダンチュウが普通の日常になっていますが、筆者によると、それにも拘らず男性による台所俳句の成果は意外と乏しいらしいです。台所を重要な生活の場と認識されている筆者は、そのことを残念に思っています。僕はこの本で「台所俳句」という言い方を初めて知ったくらいですが、料理を楽しみたいクルルおじさんとしては、確かに、元気が出るような、ほんわか気分をもらえるような台所俳句に出会えれば楽しそうに思います。面白いと思った句は、

●オムレツが上手に焼けて落ち葉かな 時彦

筆者が「男の台所俳句の先輩として私淑する」のが草間時彦。「俳句の取り合わせ(配合)で広がりと奥行きのある情景」を評価しています。

●春めくや水切り籠に皿二枚 軽舟

筆者の句。皿二枚ですから、久しぶりに奥様が来られた時と読めばいいのですかね。夫婦の間合いについても中々適格なコメントがあります。後述します。

 

ところで、2016年は日本の「エンゲル係数」が29年ぶりの高水準になりそうとのことです。食品価格の値上げが一服したあともエンゲル係数は上昇している。人口構成の変化、ライフスタイルの変化が背景だという解説です。高齢者の増加、食のレジャー化で「食の外部化」が進んでいると(2017年1月26日、日経)。消費支出に占める飲食費の割合は増加しているが、素材を買ってきて台所で料理することは相対的に減っているということのようです。台所俳句の観点から言えば、台所に立つ機会そのものが減少している訳ですから、ますます成果を期待するのは難しくなっているのかも知れません。大きな括りで言えば、食の俳句、食べ物の俳句というのは存在してますから、その中の「台所俳句」というのも是非ガンばって欲しいモノです。

 このまま書いていくと際限が無くなりますので、以下、印象に残る句と筆者の感性が感じられるところを抜粋します。

 

第三章は「妻に会う」。「単身赴任者にとっては妻とは『会う』もの」。奥さんが「鞄に一泊着替えを詰めてやってくる。(台所に立ち)何度も台所道具や調味料の場所を聞いてくる」「相手と過ごすのがいやなわけではあるまい。ただ、一日中一緒にいるのはちょっとしんどい。自分の知らない時間を過ごした夫に、あるいは妻に会うのが新鮮でたのしいのだ」。奥さんとの間合いをこう書けるのは凄いなあ、と感心します。

第四章「散歩をする」。いい表現がありました。「前に進み続ける時間がある一方で、四季をめぐり循環する時間がある。」これは良い言葉ですねえ。「俳句が季語を必要とする理由。俳句は、その時間の交わりに生まれる詩だから」と。

第五章「酒を飲む」。師匠である藤田湘子の句、

●君達の頭脳明晰ビアホール 湘子

先生が弟子たちとビアホールで楽しく飲んでいて詠んだ句だそうです。関西風にチョットいじくって遊び解釈をすると、「お前らはビアホールでビール飲んでる時だけは頭脳明晰やなあ。ようこんなアホの弟子ばっか集まったもんや」と楽しく嘆いているような。川柳ですかね。茶化してどうもすみません。蛇足の注釈、湘子先生は男性ですから、念のため。

そして本の最後の方には、味わい深い句が出てきます。

●死ぬときは箸置くように草の花 小川軽舟

 

俳句を詠んでみたいと感じたのは、吉田拓郎の「浴衣のきみは ススキのカンザシ 熱燗徳利の首つまんで (中略) ひとつ俳句でもひねって」を聴いた時かも知れません。あの怒鳴り狂って歌っていたた拓郎がこんな唄を歌うなんて。拓郎の影響力は凄かったのかも。いまの拓郎さんに「台所俳句」の唄を作ってもらうのも面白そうですね。僕もボケ防止を兼ねて乏しい才能を掘り起こして台所俳句に挑戦してみようかしら。もっとも、『ごちそう様が聞きたくてvs単身おじさんの朝ごはん』で書きましたが、自分が食べたいものを食べるための料理だけでは、気の利いた・面白味のある俳句は生れてこないのかも知れませんねえ。独りよがりというのはやはり面白くない。料理を楽しむ=台所を楽しむ「台所を詠む」ということになるとやはりその対象が必要なのかも知れません。ニンゲンは一人では生きていけないもののように思います。

 

 

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 お気に入りのお皿と小鉢、宮崎県一ッ葉焼。反対側(裏から)見ても同じ模様が見えます。

 

 

3・11

2011年3月11日には千葉にいました。碧南・名古屋から出張で、会社の仲間と一緒に千葉港にある食品会社さんの工場を訪問しておりました。昼過ぎに工場に入り、会議室でお互いの挨拶を済ませ会議に入ろうとした時でした。地震。それもかなり大きな地震。いったん収まったと思った後も何回か大きな揺れが続きました。テレビのニュースで震源地は三陸海岸沖と知りました。来客用のヘルメットの配布を受け、屋外の避難場所に移動。その会社の社長さん自らが陣頭指揮され、ハンデイマイクを駆使して落ち着いて指示されるのを見ていました。工場の煙突も大きく揺らぎ、倉庫の壁の一部は崩落。千葉港の反対側の工場では大きな爆発音が聞こえました。我々も自分たちの工場のことが気になり手分けをして連絡を入れようとしていましたが、なかなか通じません。しばらくしてから、碧南の工場ではかなりの揺れはあったものの全て無事であることを確認出来ました。留守部隊が冷静に決められた通りの適切な対応をしているとの報告を受け一安心しました。日向の工場も無事でした。

避難場所での人員点呼、安全の確認をしてから、揺れが収まったので会議室に戻りテレビのスイッチを入れました。津波を目の当たりにしました。川が逆流している。田んぼ・畑を濁流が覆いつくしている。道路にいる車が飲み込まれたような。信じられないとしか言いようがない中継映像でした。時の経つのを忘れずっとテレビに釘付けになっていました。

千葉駅近くのホテルを予約していましたが、駅周辺でも一部は液状化が見受けられました。ホテルのロビーは解放されており、帰宅困難な方々が多数体を休めていました。エレベーターは休止状態。10数階の客室まで階段を上りました。翌日は、とにかく、名古屋に戻ろうと(留守宅の無事は確認出来ておりましたので)必死でした。交通機関は大混乱しておりましたが、なんとか無事に戻ることが出来ました。

 

東日本大震災の被害状況は、警視庁のまとめで、死者 15,893人。行方不明 2,553人。震災関連死 3,523人。避難 123,168人。仮設住宅での暮らしを余儀無くされている被災者は、1月末時点で岩手・宮城・福島の三県で約3万5千人。阪神大震災では5年で解消したが、いまだ解消の見通しは立っていないとのことです(日経、2017年3月11日)。地震津波、更には、原発事故まで加わってしまい、未曾有の災害となりました。あれからもう6年です。

 

地震発生の翌日、会社の仲間にはメールを発信しました。被災地、被災者の方々を真摯に思いやる気持ちを大切にして行動したい。春の社内行事の自粛・取り止め、義援金の取り扱いの仕方等々、離れていても何か出来ることがあるはずだと焦りを感じました。当たり前の日常がどれほど大切なことか痛いほど感じさせられました。

今、改めて振り返ってみると、結局は、必要最低限のことしかやっていなかったのでないかと忸怩たる思いが残ります。

 

福島第一原発(1F=イチエフと呼ぶそうです)が及ぼす影響は広範囲に亘っています。今でもそれが続いている。原発避難者(特に自主避難者)への支援の在り方、避難者へのイジメ、避難者のストレスへの対応。溶けた核燃料=デブリの実態把握が廃炉作業の第一歩とのことですが、サソリ型ロボットでも近づくことが出来ていないという現実。一方では、7,000人の作業員の方が暖かいランチを食べられるようになったのは、ようやく一昨年の3月からとか。昨年3月には休憩所にコンビニがオープン、甘いシュークリームが一番人気とのことです。そして、昨年から甲状腺ガンが増える時期に入り、検査の在り方、報道の在り方が改めて問われています。因果関係に関する専門家・研究者の意見に相違が見られる。立場の違いが意見の違いに繋がっているのか。それが被災者の方の不安・ストレスを更に高めてしまう。以上は中日新聞からの抜粋です。同紙は、「福島に寄り添う。忘れない。『何が本当のことなのか』を見極めて報道していく。」と社説に記載されています。

当時の政権の対応ぶりに対する絶望的な思いが今でも尾を引いているのか、行政への期待と失望。それでも行政に頼るしかないという歯がゆさ。もともと復興には時間がかかるものでしょうが、行政の怠慢がそれを助長させないように、行政の適切な対応で一日でも早い復興に繋がるように。マスコミ・メデイアの取り扱いのあり方は大変に重要だと痛感します。

 

この5年間で被害の大きかった宮城、岩手、福島の3県では総額7兆円の公共事業費が投入されたそうです。インフラ復旧が進み、遅れている高台移転や災害公営住宅の整備も本格化している。奇跡の一本松の海側には高さ12.5m、全長約2㎞の防潮堤がほぼ完成したとの写真記事も出ています(2017年3月11日、日経)。「記憶を風化されてはいけない」との注釈のような記載もありますが、資金を投入して復興が進んでいると言われると、なにやら政府広報の記事のような気がしてしまいます。

 

一方では、嬉しくて涙が出る、感動する話が沢山あります。こちらまでもが元気をもらえるような。『絆』が2011年の「今年の漢字」でしたが、この年の漢字の選考は本当に良い言葉を選んだと思います。

 

舘野 泉さん。ヘルシンキ在住のピアニスト。ヘルシンキでのリサイタル中に脳溢血で倒れられた。後遺症で今でも右半身に麻痺が残るが、大変な頑張りで67歳で左手のピアニストとして再出発された方です。この方は、震災以前から南相馬市民文化会館の名誉館長をされています。肩書だけの名誉館長ではありません。実際に現地に足を運ばれピアノ演奏活動を通じて被災者の方々にたくさんの生きる勇気を与えておられます。震災後の8月には、復興支援を目的としたチャリテイーコンサートをヘルシンキで開催。当初は、舘野さんの第二の故郷であるヘルシンキで演奏活動50周年記念イベントをやる予定であったもの。舘野さんの主旨に賛同した主催者、演奏者がボランティアでコンサートに協力、義援金をこの南相馬市民文化会館の復興に寄付されています。(舘野泉さんの本:『命の響き』・・左手のピアニスト、生きる勇気をくれる23の言葉。集英社。)

 

石巻市雄勝町に「雄勝ローズファクトリーガーデン」という庭園があります。ボランティア団体「雄勝花物語」の活動拠点となっているローズガーデンです。震災前、この場所は、この活動の代表理事をされている徳水さんの生まれ育った家があったところ。津波で周辺の家屋・建物も全て流され、徳水さんのお母さまを含め61名の方が犠牲になられた。徳水さんは震災から5か月過ぎた時にその土地に花壇をつくることを決意。「つながりの場所」を作りたかったと。「受け身で支援を受けていた時には前を向くことができなかった。このローズガーデンを作り始め、雄勝町の方々に喜んでもらえるようになって少しづつ元気になることができた」と記載されています。この活動には、日本だけでなく「9・11米国遺族会」、「together for 3.11 anniversary memorial (ニューヨークは忘れない!)」と世界中から励ましが届いています。被災者の心のケアに重点をおいた活動情報誌は地元(ご近所)出身の医学生のお嬢様が英訳されたものを小冊子にまとめられ感謝の気持ちを込めて関係者に配布されています。

 

僕の務めている会社では、震災後に非常食の備えを厚くしました。非常食にも賞味期限がありますから、その都度、買い直して更新備蓄します。期限切れの近いモノは無駄にするわけにはいきませんから、社内配布して各家庭で試食してもらいます。今日は、配布を受けた「大豆ひじきご飯」を頂きました。お湯か水を注ぐだけ。お湯の方が美味しいのでしょうが、それでは非常食の試食にならないから、水でやってみました。水だと60分かかりますが(お湯では15分)、十分に美味しく頂けました。日本の食品技術に感謝です。

 

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 『雄勝花物語』です。

『ごみと日本人』

『食品ロス』『食品ロス、続き』で食べ残し、賞味期限について記載しましたが、その後も新聞を見ていると、この問題に対する世間の関心が高いことを反映した記事がよく出てきてます。

「残さず食べよう!30・10運動」(サンマル・イチマルと読みます)といって長野県松本市が提唱されている運動があります。2011年5月から活動されているそうで、趣旨を記載したコースターを居酒屋、宴会場に配っているとか。「乾杯してからの30分と宴会が終了する最後の10分は席に着いてチャンと料理を食べて下さい。宴会での食べ残しを無くしましょう。」という取り組みです。福岡県、厚木市佐賀市宮崎市など多くの自治体でも推奨されていると。(1月9日の中部経済新聞より抜粋)

宴会の幹事・進行役さんがキーのようです。幹事さんが運動の趣旨を説明して号令をかける!、効果は予想以上に高いそうです。海外では「ドギー・バッグ」が当たり前ですが、日本の宴会料理は生モノが多く持ち帰りには不適切のことが食べ残しの多い原因の一つになっていますから、やはり、出されてものはチャンと食べる、食べられる量を注文するというのを徹底する必要があるのでしょう。少なくとも、締めのご飯をちゃんと頂いておけば、宴会が終わって更に二次会の後に「小腹が空いた、ラーメンを食べに」行く回数も減るでしょうから、間違いなく健康にはプラスですね。

賞味期限のほうでは、従来の「年・月・日」表示から、「年・月」表示への変更をする動きが出ています。食品最大手の味の素さんは本年二月から段階的に「年・月」表示に切り替え、2019年には賞味期限が1年以上の全商品に原則導入する方針と。食品他社も追随する動きで、業界全体で取り組めば「食品ロス」を2%削減することに繋がるとの見方があるとか。メーカー・流通にとってはコスト削減効果も期待されるでしょうから、是非、その方向に進むと良いなあと思います。(これは、1月25日の日経記事より抜粋)

食品ロスには直接結びつかないかも知れませんが、「ジビエ料理」に人気が出ているのも面白いと思います。獣害は増える傾向にありますが、捕獲した野生動物の処理方法がまだ十分に確立されていない。お肉も下処理が難しいこともあり食用に使われるのが限られていた。 イノシシ、シカ等は生活環境の変化への対応力が強く頭数はどんどん増えていく傾向にあるとのことで、獣害駆除を進める必要はあるものの費用がかかることから対応が十分ではない。それが、ようやく処理業者・加工販売業者・調理する方が工夫して「旨い!」という食べ物になりつつある。ジビエ料理のフアンも増えてきているそうです。駆除された動物も、「美味しい!」と言って食べてもらえて、日本国の食料自給力の向上に役立っていると思えばさぞかし満足するのではと。ニンゲン様の勝手な思いです。

 

『ごみと日本人===衛生・倹約・リサイクルからみる近代史』、稲村光郎著、ミネルヴァ書房、2015年6月第一刷発行。「ごみの歴史はリサイクルの歴史、ごみ問題は、日本の近代化・産業発展と表裏一体の関係、『もったいない』は戦時用語?」等々の見出しが面白くて発行後すぐに読みました。面白いエピソードがたくさん紹介されてます。

●近代日本は、1859年(安政6年)米国、英国等との通商条約により横浜等の港を開港したころから始まるそうですが、日本では捨て値同然であった木綿のボロが西欧向けの輸出商品になったそうです。何故か?。答えは西欧で当時活発になっていた洋紙製造の貴重な原料となったから。その後、明治になり国内でも洋紙生産が盛んとなり、それまでさして需要の無かったボロに新たな需要が生まれた。ボロの値段が高騰し、屑買いの元締めは大儲けしたそうです。これが「ボロ儲け」。

●明治後半、廃物利用=リサイクルをしようとのキャンペーンが活発に。国民への倹約を説いて、特に女子教育の場で勤勉と倹約を促したそうです。これに猛然と反論したのが与謝野晶子さん。「廃物利用という世間受けする名目の下、女子を駆って疲労させ、その向上心と活動力の自発を鈍らせ、いつまでも男子の便宜に供しようとしている」と廃物利用キャンペーンを猛烈に批判。「廃物から非実用なモノを時間をかけて作る=時間と労力の経済を考慮しておらず時代錯誤」であると筋の通った批判を展開されたとか。

●昭和に入ると戦時回収です。1937年(昭和12年)7月の日中戦争と伴に戦時回収がはじまった。当時のパンフレット「愛せよ資源 活かせよ廃品」。今でも出てきそうなキャッチコピーかも。更に、鉄くずの回収と統制経済の時代に。永井荷風さんは父親の形見のキセル口金=金製品を「むざむざ役人の手に渡して些少の銭を得るよりは」と隅田川にひそかに捨てた由。世の中、国家の施策におもねる風潮に我慢がならなかったと。1941年(昭和16年)12月、太平洋戦争に。「決戦だ!残らず出そう鉄と銅」。大政翼賛会の標語「『もったいない』を生活実践に」。1943年(昭和18年)、東京市では「食品むだなし運動」。標語を眺めるだけで詫びしく、寂しく、情けないような。半面、笑ってしまうのもありますよね。かくして回収された金属も「実際には十分利用されないままに敗戦を」迎えたそうです。僕の生まれるせいぜい5年から10年前の日本の姿です。筆者は「ごみの歴史は、いわば歴史の裏通り」として、ごみと衛生、ごみと貧困、そして国家の関与に意識して豊富なデータを積み上げて淡々と書かれています。

 

とにかくモノが足らなかった時代にはそれを補う工夫があったんでしょうね。今でも懐かしく思い出しますが、小さい時、近所のほとんどの子供達は膝のところにツギ当てをしてあるズボンを履いていました。セーターの肘のところなんかも。よそのお家に遊びに行って靴を脱いだら靴下にボカっと穴が空いていて恥ずかしい思いをしたり。これは工夫のしようがなかったかしら。鉛筆が短くなると、金属の補助機器があってそれに固定して握りやすくして最後の2-3㎝くらいまで使っていました。短くなった鉛筆を自慢して見せびらかしていたような。ペットボトルは、飲んだ後の処理が大変なモノになってます。ラベルを剥がしてペタンコにしてから専用のごみ袋に入れてごみ収集の場所に持っていく。かつての時代にこんな便利な容器があれば、水筒の代用はもちろんのこともっと貴重な使われ方が考えられたのではないかと思ってしまいます。モノが溢れかえるというのは、ニンゲンをアホにすることなのかもしれませんねえ。

 

と思いつつ、冷蔵庫を見たら「飽食の時代」そのものでした。当分、食材を買ってくるのを控え、在庫を美味しく頂く工夫を楽しまなければと。「『もったいない』を生活実践に」して「食品むだなし運動」を国家の命令ではなく自分の矜持として励みたいなあと思います。

 

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 名古屋、名城公園の彫刻の庭。向こうの建物は名古屋能楽堂。春、もう少し。2017年3月5日撮影。この日、能楽堂では「名古屋伝統文化を楽しむ会」後援の名古屋華舞台、能「巻絹」と狂言「大般若」が上演されました。日ごろお世話になっているドラゴン先生が招待してくれました。風邪気味で薬のせいもあり、僕は気持ち良く幽玄の世界を彷徨っていました。

  

カレーライス

つらつら思い出すと、僕が初めて料理の場に接したのは、小学生の時、夏休みの林間学校で作ったカレーライスでありました。林間学校というのは、都会の学校では自然に接する機会が少ないというので、夏休みにキャンプ場等々に行って、テント生活・オリエンテーリングキャンプファイヤーを体験させるものですが、当時の僕の小学校の林間学校とは、校庭でキャンプファイヤーの真似事をするのがメインイベント。宿泊は同じ小学校の講堂で、板の間に寝袋ならぬゴザ、布団等を敷き詰めて雑魚寝。シャワー・風呂は、もちろん無し。まだ昭和30年代半ばのことで一泊する費用負担が難しい家庭も多数あり、また、学校の予算も十分では無かった。そんな中で、先生方の苦心の企画であったかと思います。その林間学校での食事がカレーライスでした。飯盒でご飯を炊いて。大きな鍋でカレーを作って。先生が指導してくれますが、こういう場面では何かと器用に表に出てきてテキパキと対応する生徒がいるもので、その時も、仕切り役と仕切られ役がハッキリしていたように記憶します。僕も何かお手伝いをしなければと思いつつも、包丁もナイフも使ったこともない、そもそも調理をする場に全く接したことがない人生を送っていましたから、ただ、ボケっとみんなが作業しているのを眺めているだけでした。当時の僕は、おとなしくて目立たない生徒だったと思いますが、イジメられるタイプではなかったように思います。また、幸いなことに、その時代は陰湿なイジメは皆無でした。出しゃばりな子も引っ込み思案の子もそれなりに助け合って楽しくやっていたように思います。最後の段階で、漸くお皿にご飯を盛り付ける役が回って来ました。僕にすると、それすら初めての作業だったはずですから緊張しながら一生懸命にやったように思います。

みんなで作ったカレーライスは大変に美味しかった!というと美しいオチ・思い出になるのですが、残念ながら、そうでは無かった。粉っぽいカレーで、また、お肉がムチャクチャ硬かった。当時は、まだ、カレーのルーはそれほど出回ってなかったのか、多分、小麦粉をベースにカレー粉を加えたものでしょうが、小麦粉の量が多すぎたのか、上手く混ぜることが出来ていなかったのか。お肉はとにかく硬かった、嚙んでも噛んでも噛み切れない。”カレーライスはご馳走である”という思いだけで自分自身にこれは美味しいんだと言い聞かせて食べたような気がします。確かに、その頃は、クジラの肉の方が食卓、給食に出てくる機会も多く、食べやすく料理されていました。牛肉は残念ながら不味い部位しか食べる機会がなかったからでしょう。その後も、小学生の高学年になるまで「こんな不味い肉はない」と大嫌いだったこと記憶しています。

 

 話がそれますが、小学校の裏に神社がありました。お盆の時とか年に2回ほど、映画の上映をやっていました。街に映画館はありましたが、神社でやる無料の映写会は人気がありました。神社の境内にある大きな木の間にスクリーンを張って、チャンバラ映画を中心に上映。東映時代劇の全盛期であったかと思います。映画館で封切り上映されたあとのひとシーズン遅れのものであったかと思います。境内は大人も子供も沢山の観客で一杯に。前の方に子供たちが地面に座り、その後ろは全て立見席。片岡千恵蔵市川右太衛門などなどビッグスターが登場。勧善懲悪!バレバレのストーリー展開ですが、主人公が危機一髪の場面では観客から本気の声援が飛び交う。境内の観客が一体となって、大劇場にも匹敵する歓声が飛び交うもの凄い盛り上がり様でした。僕たちも終わってからの興奮冷めやらず、主人公になったつもりでチャンバラしながら家に帰ったものです。

数年前に母親が入院生活をしている時にお見舞いに立ち寄った際、時間つぶしに、小学校、神社の周辺を散策しました。小学校の校庭も、神社の境内も、それはそれは慎ましいスペースでした。小さく小さくしゃがみ込んで周りの景色を眺めてみたら、それなりに昔の大スクリーンと大観衆の歓声の気配を感じることが出来ました。半世紀以上経ってるんですねえ。

 

名古屋市中区にⅯホールというクラシック専用のコンサートホールがあります。オーナーのMさんは、1948年生れ。一代で日本一のカレーチェーンを築かれた方です。カレーチェーン事業からは勇退され、その後、2007年に私財を投じてこのコンサートホールを設立されました。面白いご縁があって交流するところとなり、会話のなかで僕が調子に乗って「うちの会社のレシピサイトにオーナーご自慢の料理レシピを掲載させて頂戴よ」とお願いしたらトントン拍子に話が進み、レシピ撮影会、兼、試食会をすることになりました。レシピの一つは勿論カレーライスなのですが、肝心のカレーに使うスパイスは「非公開」と。”なんやねん、それ。レシピを書くのに非公開はないやろ。編集者がNGだすで。”と思いつつも楽しく撮影会、試食会をしました。大したもので、お皿に盛り付けるご飯の量を手測りでグラム単位で制御できると。カレーの注ぎ方もさすがにプロの手口。見た目も中身も美味しいカレーを堪能させて頂きました。結局、レシピには「スパイスは非公開!」と堂々と記載して載せることに。編集者の居直りとしか思えない記載です。ご覧になった方は、よろしくご理解下さいますようこの場を借りて改めてお願い申し上げる次第です。Mオーナーはシャレの塊のような楽しい方で、カレー屋からコンサートホールオーナーへの転身を「カレー(華麗)なる転身」と呼んでみたり、「加齢臭はダメだがカレー臭はすばやしい」と言ってみたり、僕よりも2歳年上になるのですが、頭が素晴らしく柔軟で若々しい方であります。お土産にカレーハウスのレトルトカレーも頂いて、物心両面で心豊かになってお開きとなりました。2016年の夏のことです。

 

「野菜いっぱい畑のカレー」というのが僕の気にいっているカレーライスのレシピでした。植松良枝さんという方のレシピ。「野菜をたくさん食べたいなア、と思うときにカレーを作る」というコメント。ご自分で野菜を育ててそれで料理を作ることを実践されてます。2008年から2009年にかけてこのレシピにハマっていました。野菜を沢山食べられる料理がカレーライスであるという考え方が偉く新鮮でした。とにかく野菜をいれる。夏野菜のカレーであれば、ゴーヤー、かぼちゃ、トマト、たまねぎ、ピーマン、オクラ、さやいんげん、なす、ししとうがらし。とにかく沢山の新鮮な野菜。野菜の味を生かすのには出汁で煮るのがポイントとか。ご飯は玄米ご飯を使います。僕の料理メモ帳を見ると最初はこのレシピ通りに作っていましたが、ちょっと慣れてしまうと自分なりのアレンジをしたくなる(要は手を抜くことを覚えてしまう)。何回目かには定番のジャガイモ、ニンジンが中心になっていたり、出汁の代わりに洋風スープの素を入れてみたり、カレー粉の代わりにルーを使ったり。また、クミンシードとかバジルとかを勝手に投入して粋がっていました。ちなみに(ご存知の通り、僕はお酒・ビール、アルコール大好き人間ですが)カレーライスには美味しい冷たいお水が似合うと思っています。

 

Mさんからもらったレトルトカレーをどうやって食べるのがよいのかを思い悩んでいたとき、以前、図書館で読んだ料理の本のなかにヒントになるレシピがあったことを朧げに思い出しました。見つけ出すことが出来るかどうか、挑戦するために同じ図書館に行きました。ビンゴ!。

 

「手間はかけたくない、冷蔵庫の中の残り野菜を早く使いたい・・・カレーは便利だ。玉ねぎ、セロリ、にんにく、しょうが、残り肉を炒める。ニンジン、じゃがいも、ピーマン、ナス、リンゴ、を適当な大きさに切り、さっと炒め、水をひたひたに注ぐ。スープの素を一個いれる。野菜がやわらかくなるまで煮る。缶詰またはレトルトカレーを加える。味は、塩、こしょう、または、カレー粉で補う。さらに、ケチャップ、ウスターソースなどを加える。・・・これで、濃厚・複雑な味の自分だけのカレーが出来る。」「おいしく食べて元気に老いる」吉沢久子、高見澤たか子、大和書房、2001年9月第一刷より抜粋です。

 

 

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2017年2月23日撮影。久しぶりのカレーライス。「ジャガイモごろごろカレー」。作り方のコンセプトは「おいしく食べて・・・」の通り。レトルトカレーに市販のルーも加えました。クミンシード、バジル、ローズマリーを投入。更に更に・・・後は「非公開」です。確かに濃厚・複雑な味。美味しく出来ましたよ。

 

●もっとカレーに親しくなりたい方へのお薦め参考文献。「インド・カレー伝」、リジー・コリンガム著。400年にわたる異文化の衝突がカレーを生んだ。カレーの成り立ちからインド食文化史。河出書房、2016年3月初版発行。

 

●植松良枝さんの野菜いっぱい畑のカレー「夏野菜と玄米のカレー」は、「食彩浪漫」2008年8月号に掲載されています。

 

●おまけ;「カレーライスの唄」、阿川弘之著。阿川さんは、「アガワとダンフミ」のアガワ=阿川佐和子さんのお父上。1920年生れ、海軍軍人で復員後に志賀直哉に師事し小説家に。代表作に海軍提督三部作がある通り戦争文学を数多く執筆。また、食通・鉄道好きでも有名。この「カレーライスの唄」、原作は1961年(昭和36年)2月から新聞連載されたもの。昨年2016年4月に、ちくま文庫が改めて復刻版・第一刷を発行。本屋さんで偶然に目に留まったので思わず買ってしまいました。文庫で550頁の長編、青春純愛・カレー屋起業奮闘記です。これだけでストーリーが分かってしまうくらいの単純明快な小説ですが、阿川さんの語り口と昭和の良き時代(小説の主人公は、僕よりも10から15歳ほど年上の世代です)が醸し出されており、爽やかに一気に読めました。食通、阿川弘之が何故わざわざカレーライス屋に舞台を設定したのか、時代背景を考えてみるのも面白いカモです。

 

 

 

日本酒

今年の冬はよく日本酒を飲んでいます。外で食事する時、和食の場合には「とりあえずビール」の後、ほぼ間違いなく「やっぱり日本酒」を注文します。恰好つけてわざわざ「ぬるめの燗」と頼む時もあります。家で一人で食べる時も日本酒を燗して飲むことが多くなりました。湯豆腐をする機会を増やしました。要領が分かれば簡単に出来るので大変に重宝してます。豆腐一丁を一人で美味しく食べてしまいます。食事は風呂上りにしますから、食事の準備をしつつ、まず缶ビールを一本飲む。その後、湯豆腐を食べる時に日本酒をやや熱めの燗にして頂きます。湯豆腐はちゃんと作っているつもりです。専用の鍋もあり。腰のしっかりした絹豆腐を買ってきて、鍋に昆布を敷いて。ぐい飲みに刻んだしょうがとネギを入れ出汁醤油を加え、湯豆腐の鍋の真ん中に置いて熱くして。豆腐がフラフラしたところをハフハフ言いながら食べます。一人手酌で日本酒を飲んで、やや寂しいのもオツなものかと。

 

大学を卒業して社会人になった時、勤務地は東京、日本橋本町にありました。JR神田駅から歩いて10分ほど。以前書いた通り関西系の総合商社です。ムチャクチャ残業が多かった。最近は過労死云々が大変な問題になっていますが、当時はひと月に100時間くらい残業している連中が僕も含めゴロゴロいました。逞しい時代であったと思います。神田周辺には飲み屋さんが沢山ありました。地元出身、土地勘のある連中が安くて旨い一杯飲み屋をすぐに探し出して、ほぼ連日飲んでいました。残業が終わってからですから、飲みだすのが夜の9時、10時。とりあえずビールから始まり、後は、やっぱり日本酒です。当時は二級酒ながら人気の高い旨い酒があった時代です。終電の時間があっという間に来ます。短時間に集中して飲んで食って。会社・上司の悪口は当たり前、酒の肴です。でも根は真面目なのか?お酒が回っても結構マトモな話をしていたように思います。定番のツマミは、納豆豆腐でした。今これを書いていて懐かしく思い出しました。豆腐をさいの目に切った上に納豆をかけその上に卵の黄身を置いてネギ・削り節をかけたもの。出汁醤油のような特性のタレで食べたように思います。僕は関西・大阪ですが、納豆はどういう訳か大好きでした。ビールにも日本酒にも合うと思っています。

会社の寮は三鷹市にありました。一緒に飲んでいる連中のほとんどが三鷹の寮住まい、一人の先輩は三鷹がご自宅の方。一人は神田近くに自宅があり。みんなからNTちゃんとちゃん付けで呼ばれている人気者、僕とは同期の桜です。神田駅で一応解散するのですが、三鷹に帰るほぼ全員が「三鷹で飲み直すぞお。NTちゃんも一緒に行こうぜ。」と誘います。気のいい酒の大好きな彼は酔いも手伝い、しぶしぶながらも喜んで三鷹に付いてきます。三鷹の駅近くの、これも常連になっているおでん屋さんに行って楽しく気勢を揚げます。お開きになるのは深夜から早朝。翌朝は「もう二度と日本酒なんか飲むものか、頭が痛い」と言いながら遅刻もせずに、みんな何が何でも出勤したものです。若くて元気があったんですねえ。NTちゃんは「なんで俺が三鷹に泊まってるんだよう」といつも反省しておりました。当時の二日酔いは本当に酷くて、頭の中で釣鐘がゴーンゴーン、キーンキーンと鳴り響いているようでした。このメンバーの頭の中では午前中はいつも除夜の鐘が鳴っていたと思います。

 

「お酒はぬるめの燗がいい、肴はあぶったイカでいい」・・・八代亜紀の「舟歌」です。これは酒飲みにはジーンとくる唄でした。あの当時、八代亜紀さんは全盛期であったと思いますが、今でもその時の舞台姿が一体となって甦ります。

僕のカミさんの親父さんも日本酒大好き人間でした。池袋にある親父さんの会社事務所で飲むときには、まずはスルメと日本酒でした。カンペットという優れものの機械があります。日本酒をいれてスイッチ押せばお燗をしてくれる。一度に2合以上、燗をつけることが出来たと思います。料理が出てくるまでに調子に乗って飲んでしまい、結局一升瓶が空になっていた時もあったかと。まだ結婚する前です。酔っぱらって寮に帰る電車の中で寝込んでしまい降りる駅を通り越し、更に終点でも目を覚まさず往復して最初の乗車駅に着いてから気が着くとか、随分と無茶な飲み方をしていたものです。よく事故・事件に合わなかったことだと思います。改めて日本国が安全なことに感謝しないと罰が当たりそうです。結婚してからカンペットは我が家でも買いました。先日、長女のダンナと家で飲んだ時に使いましたが、ちゃんと動いてくれていました。この時は一升は飲んでないと思いますが。それにしても日本国の家電製品が何んと長持ちすることか、素晴らしいことだと思います。

 

「お酒はぬるめの燗がいい」の「ぬるめの燗」を有名にしたのは 上原浩さんだと思います。1924年生れの酒造技術指導の第一人者。残念ながら2006年に逝去されてました。「酒は純米、燗ならなお良し」の名言を残されています。何年か前に本を読んだことがあったので、本棚を探してみたら見つけることが出来ました。

20歳の時から酒造技術者として酒一筋に生きた方。著書も多数、酒造関係者向けの専門技術書からお酒好きの一般消費者向けの啓蒙書まで。「日本酒とは純米酒である。日本酒とは本来コメと水だけでつくるべき酒である。醸造用アルコールを添加した酒、ましてや三倍増醸酒等は、日本酒と呼ぶべきで無い。」という固い信念をお持ちです。「アルコール添加というのは、戦中戦後の緊急避難策であった。米不足の時代、当時はこれ以外に日本酒の命脈を保つ方法があり得なかった」「ところがコメが余って困る時代になっても、コメの価格は高くアルコールは安いものだからアル添は定着、更に糖類等も添加する三倍醸造も一般化している」ことを痛烈に非難。今日の日本酒ブームの基を作った方のお一人だと思います。技術屋さんらしい説得力のあるコメントがあります。「アル添酒というのは、醸造酒である日本酒に蒸留酒である醸造用アルコールを添加するもの。醸造酒に蒸留酒を混ぜること自体に違和感があろう。本来、日本酒はコメと水だけでつくるもの。これ以上ないほど安全、健康的な食品である。それをアル添により劣悪な酒というイメージに貶めた。」これは正にその通りで、文字通り僕の頭の中でも、日本酒というのは飲みすぎると悪酔い、二日酔い・頭痛に繋がるという悪いイメージが定着しておりました。「アルコール添加の量を減らした『本醸造酒』の登場、更に、高精米と低温発酵を生かした『吟醸酒純米吟醸酒』も加わり、日本酒はようやく食文化の顔を取り戻し始めた。」これらの特定名称が法制化されたのは1990年(平成2年)、級別制度が廃止されたのは1992年(平成4年)のことだそうです。

さらに上原さんに言わせると、「純米酒を燗にすると、ますます味は映える。アル添酒の場合、燗にすると香味のバランスが崩れる。劣悪なモノはアルコール臭が浮いてくる。吟醸酒の場合でも、アル添により吟香を補強しているから、冷や酒なら良いが燗にすると全然ダメになることが少なくない。 」とのことです。更に極めつけは、「燗は、ぬるめの燗がいい」と。「酒は純米、燗ならなお良し」の名文句の誕生です。これは言葉・言い回しとしても良いフレーズだと思います。この名文句を知ったうえで、純米酒を燗して飲むと旨さがアップするような気がします。とは言え、誰でもいつでも純米酒が飲めるわけではありませんし、時には熱燗の方が旨く美味しく感じるときもある。また、最近流行りのコメの40%-50%も削って作る芸術的なお酒は確かに「冷や」で頂く方が旨いようにも思います。 その時々の状況に合わせて自分が美味しい・飲みたいと思う飲み方で楽しめば、今となれば=これだけしっかりした日本酒が定着した訳ですから上原さんも喜んでくれるだろうなあと思う次第。

三鷹まで付き合ってくれていたNTちゃんは、2015年年初に病気のため若くして他界されました。若い時から家族付き合いをしていましたが、最後の一年以上は一緒に酒を飲む機会すら作れませんでした。通夜の席で奥さんから「もう一度ミンナで一緒に飲みたかったねえ」と言われ涙が止まりませんでした。今夜の杯はNTちゃんに献じたいと思います。

 

湿っぽいのが嫌いであったNTちゃんなので敢えて蛇足を入れますが、日本酒の輸出は7年連続で過去最高水準を更新しているそうです。所謂「和食ブーム」に乗り、海外の日本食レストラン中心に取り扱いが増えていると。海外の日本食レストランは 2006年には 24,000店であったものが 2015年には 89,000店に急増しているとか。和食と日本酒の組み合わせ、いいですよね。もちろん、和食と焼酎の組み合わせもいいと思います。日本人に生まれて良かったと思う瞬間の一つです。

蛇足の蛇足ですが、米国人男性がsake作りに挑戦し米国東海岸メーン州で米国産のコシヒカリと地元の水で純米吟醸を仕立てたそうです。米国地酒の純米吟醸!。それがロンドンで開催されたsake品評会で日本の老舗の銘酒とともに金賞を受賞したと。楽しい話題でお酒を美味しく頂けそうです。飲みすぎには注意しましょう。 

 

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名古屋でお世話になっている居酒屋、英(はなぶさ)さんの入り口。いい顔してますよねえ。家庭料理でちょいと一杯が最高に旨い。筑前煮、おから、飛竜頭なんで絶品です。

 

家にあった上原 浩さんの本です。

●「純米酒を極める」、光文社・知恵の森文庫。2002年12月刊行を文庫化、2011年1月初版。

●「純米酒・匠の技と伝統」、角川ソフィア文庫。2002年ダイアモンド社刊行を改題。2015年3月初版。

 

 

おばあちゃんとは呼ばせない

日本老齢学会と日本老年医学会が新春1月5日に「高齢者の定義を『75歳以上』に引き上げるべきである」とする国への提言を発表しています。新聞各紙でも結構大きく報道され話題になっていました。公的機関が行う人口調査では「65歳以上」が高齢者と区分されていますが、「心身共に健康なこの年齢層の方が増えているため、65~74歳は社会の支え手として捉え直すべきだ」、高齢者ではなく「准高齢者」にしようとの趣旨だそうです。支えられる側から支える側に回る。電車に乗った時にも席を譲る側になるべきだということなのでしょう。「高齢者」は10歳引き上げて75~89歳とする。更に、平均寿命を超えた90歳以上を「超高齢者」と呼ぶのが妥当であるとの提言とか。

 

そもそも高齢者の定義については統一的な基準というものは無く、歴史的な慣習というのが正解のようです。日本をはじめ欧米先進国が65歳以上を高齢者としているのは、19世紀後半のドイツ帝国の宰相ビスマルクが65歳以上に年金支給したのが始まりらしいとか。1956年、国連が高齢者を65歳として以来、世界に広まったとか(この辺りは、2月4日付けの日経記事の受け売りです)。身近なところでは、公的年金の受給資格が65歳以上なので、これが「高齢者」の定義と認識されているかと思います。医療保険制度では65歳以上74歳までを前期高齢者、75歳以上を後期高齢者と区分しています。前期・後期の区分、特に「後期」のニュアンスの悪さから一時は大きな問題になっていました。自動車の運転の場合は70歳以上が高齢運転者で、身体機能に低下懸念があれば、もみじマーク(通称、枯葉マーク)の標識を付けるようにと。

僕はまだ自分が元気だと思っていますから「元気なヒトは頑張って世の中の為になって下さい」という単純な話と受け止めれば、この提言に何ら異論はありません。2016年9月の推計では、65歳以上は人口の約27%を占めていますが、75歳以上であれば約13%と半分になるそうです。支えられる人が三割近く占めるというのと、その半分の一割強であるというのは、随分と受けとめる印象が違ってくると思います。

ただし、新聞でも多くの指摘がありましたが、これは単に何歳からを高齢者と呼ぶのかという定義の話では収まらないかと懸念します。年金制度(受給資格の時期)、医療保険制度にも大きな影響が出て来るでしょうし、一方では、企業の定年制・雇用の延長、はたまた、年寄りが若者の仕事を奪うのかとの議論も出てきそうです。何歳であろうが元気な人は元気だし一括りには議論出来ないですから難しいことが多そうですね。

 

 「元気なヒトは頑張って世の中の為になって下さい」という趣旨の提言であれば、(昨年の9月22日付けの『台所』でちょっと記載しましたが)日野原先生の提案に勝るものはないと思います。たまたまですが地元中部の新聞で2月1日から「新老人の生き方もよう」という連載が開始されています。日野原先生が「新老人運動」を提案したのは、2000年6月だそうです。もう20年近く前になるわけです。この運動は、三つのモットー、すなわち、①愛し愛されること、②創める(はじめる)こと、③耐えること。それと、一つの使命「子供たちに平和と愛の大切さを伝えること」を柱にされています。行動目標として ①自立、②世界平和、③自分の健康情報の研究活用、③会員の交流、④自然に感謝、を掲げ現在の会員は約1万人で全国の支部でそれぞれの地域に根差した社会貢献活動を展開されているとのことです。素晴らしいとしか言いようがないです。ちなみに会員の年齢制限は無いとのこと。僕も今年で67歳になります。孫も二人います。元気なオジーチャンとしてこういう活動にも参加してみたいなあと思います。この会に入れば僕はきっと若手の会員!になるのでしょう。

 

前にも書きましたが、『日本のかなりのご家庭では家族の一番年下さんの目線で、家族を呼称することが多い。長男をつかまえて「オニイチャン」と言い、長女は「オネーチャン」となる。自分の親は「オジーチャン」、「オバーチャン」。我が家では、子供に恵まれて以降、ずっと、カミさんは「オカアサン」です。』(9月22日「台所」から抜粋)。僕の母親は、孫に囲まれて「おばあちゃん」と呼ばれるのを間違いなく喜んでいました。カミさんの亡くなった親父さんも同じでした。僕達の子供たちが初孫でしたから、まだまだ眼光鋭い怖い顔が孫から「おじいちゃん」と呼ばれると目じりが垂れ垂れでした。カミさんの母親は、今も健在。こちらも、みんなから「おばあちゃん」と呼ばれて抵抗無し。喜んでくれていると思います。

ところが、うちのカミさんから、過日、爆弾宣言がありました。我々にとっての初孫は、次女夫婦の長男で昨年12月に二歳の誕生日を迎えました。このお正月に会った時には、結構、言葉を発するようになっています。ついに、我々も「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼ばれる瞬間がくるのかしらと話をしている最中、カミさんから「おばあちゃんと呼ばれるのは嫌だ、自分は気持ちを若く保ってイロイロなことに取り組んだり、地域活動もやっている。おばあちゃんと呼ばれて自分が老け込むような気持になるのが嫌だ。おばあちゃんとは呼ばせない」と。なるほど、おっしゃることは筋が通っているように感じます。気の持ちようというのは大切ですから。それにしても、その時には、孫はオバアチャンを一体何んと呼ぶようになるのでしょうかね。

 

確かに言い方、呼び方というのは、大事なことなんでしょう。僕は孫からオジーチャンと呼ばれることには抵抗ないように思いますが、高齢者、特に後期高齢者なんて呼称は嫌ですねえ。日本語にピッタリくる言葉が無い時は英語で逃げるのが常套手段かと思いますが、新老人を英語で言えば、ニューオールド。訳が分からない言葉で面白いかもですね。ゴルフ他のスポーツでは、シニア、更に、グランド・シニアと言いますが、このシニアの語感は良さそうに思います 。シルバー、シルバー人材は「いぶし銀」からきたんですかね。僕はあまりピンと来ません。

日本語でも、相撲の世界での年寄り、親方という呼び方は良い響きがあると思います。江戸時代の老中、若年寄なんてのもオツなものかと。爺(じじ、じい)の語感もそれ程悪くないように感じます。ふと考えると、このブログのタイトルは「クルルのおじさん 料理を楽しむ」でした。本能的にカッコ付けて「おじいちゃん」を避けたのかも知れませんねえ。

 

漸く風邪からも(完全)回復、こってりしたものを食べたくなってきました。体重はサクタイ・マイナス4㎏をキープしています。これは維持したいなあ。メタボ系の僕は出来ればもう少し体重を減らしたいと思っているのですが、逆に、高齢者で必要な栄養を摂取できていない「低栄養」の人が増えてきているとか。2015年度の厚労省の調査では、65歳以上の高齢者の2割近くが低栄養傾向とされているそうです。「メタボ症候群にならないために小食がいいとの意識が強まりすぎた」と指摘されています。さらに、低栄養に陥りやすいのは、独居や夫婦だけの所帯とか。食べ過ぎも良くないが、小食すぎるのも問題ということのようです。何かにつけてバランスの良い生活、クルルの家訓『しっかり食べる、美味しく食べる、楽しく食べる』を心掛けたいものです。

 

雑炊と豆腐とスマシに明け暮れば今宵は恋しあつきステーキ   孔瑠々

 

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 えらぶのゆり。背丈が伸び過ぎかと心配。栄養のバランスが悪い?。2017年2月9日撮影。

 

 

名古屋の魅力

名古屋市が実施した「都市ブランド・イメージ」という調査があります。昨年11月に日経新聞が「ショック!『魅力最低都市』返上へ市が動く」の見出しで、かなりの紙面を割いて記事にしましたので記憶・印象に残っている方もいらっしゃると思います。この調査は、名古屋市観光文化交流局が行ったもので、調査期間は2016年6月1日から6月6日、国内主要8都市(札幌市、東京23区、横浜市名古屋市京都市大阪市、神戸市、福岡市)で在住5年以上の20-64歳の男女を対象に各都市それぞれ418人ずつの回答を得たもの。結果報告は2016年7月に公表されています。

 

名古屋市は、全国8都市のなかで最も市民推奨度が低く、魅力に欠ける街、都市イメージが確立されていない」というのが市政情報に掲載されている総括です。調査を担当して結果を総括された方にとってのショックが一番大きかったと推察します。僕は、大阪生まれの大阪育ちですので、この日経の記事を見た時に大阪との比較ではどうだったのか?興味を持っておりました。最近ようやく市政情報を覗きました。傷口に塩を塗るつもりは全くありませんが、最大のショックは(僕は関西・大阪人ですから言ってしまいますが)名古屋市からすると ”あの大阪市よりも魅力度の評価が下であった” ということじゃないですかね。調査手法・調査結果で面白いと感じたところを(大阪との比較も含めて)纏めてみま した。

シビックプライド=愛着を感じているか(愛着度)、誇りを感じているか(誇り度)、友人・知人に自分の住んでいる都市に買い物・遊びで訪れることを薦めるか(推奨度)という調査です。愛着度と誇り度は大阪が最低。特に、誇り度はダントツの最低です。これは大阪人であれば ”そうやろなあ” という感じです。抵抗が無い。推奨度は名古屋が最低。これもダントツの最低です。でも大阪は愛着度と誇り度が最低にもかかわらず、推奨度については名古屋の2倍以上のポイントがある。大阪人は「大阪なんかもうどうしようもないで、あかんわ」と言いながら、知り合いに対しては「結構おもろいとこ一杯あるで、はよ遊びにおいで」と言ってるような、いかにも大阪らしい回答かと思います。

●魅力度について=調査対象の8都市のなかで「最も魅力的に感じる」「最も魅力に欠ける」と思う都市を選ぶ調査です。何だかんだ言いながらも誰しも住んでいるところに愛着がありますから、自分の住んでいる都市を一番と回答するであろうと予想しました。結果はその通りで、愛着度、誇り度が最低である大阪を含め7つの都市では自分が住んでいる都市を「最も魅力的に感じる」と回答。しかし、これは驚きですが8都市のなかで名古屋だけが、自分の住んでいる名古屋よりも東京・京都の方を「最も魅力的に感じる」との回答。結果は、名古屋が「最も魅力的に感じる」で最下位、「最も魅力に欠ける」では最上位となっています。要するに魅力無し、魅力に欠けるまち、との評価です。ちなみに、大阪が両方ともに名古屋の次に付けています。名古屋の謙虚さ・遜る気持ちがこの結果に反映されたのでしょうね。

●訪問意向=それぞれの都市を買い物や遊びで訪問したいか?という「訪問意向」調査です。これも、名古屋市が最もポイントが少ない=ドンべ、大阪がその次。これは可哀そうなくらい差がついており、最下位の名古屋は1.4ポイント、次の大阪でさえ16.8ポイントと桁が違っている。他の都市は25ポイント以上、最上位の京都は37.6ポイント。名古屋を訪問する人がいるのが不思議と思うくらいの酷い結果です。

 ●都市のイメージ=「魅力的に感じる」理由を回答してもらい、一つの回答理由が概ね7割以上の支持がある場合、その都市のイメージが確立されているとの捉え方です。分かりやすいのは京都=「歴史がある」(のが魅力と感じる)が90%を超えています。京都は歴史があるという都市イメージが確立されていると評価するわけです。「食べ物が美味しい」=札幌、福岡。「都会的である」=東京。「おしゃれな店がある」=神戸。大阪の理由は変わってますが「活気がある」(なんのこっちゃと言いたくなりますが)。以上、それぞれ全てが7割以上の支持を得ています。名古屋の魅力がある一番の理由は「食べ物が美味しい」ですが、52.5%しか無い。僕も「名古屋めし」は大好きですが、確かに、札幌、福岡に比べるとB級グルメ的なイメージがあり、これを都市のイメージだと言うにはやや憚れる気持ちがあるかも知れないと思います。横浜「おしゃれな店がある」53.9%と合わせて、都市イメージが確立されていないと評価されています。

 

確かに、調査対象の都市名を見ると、相対評価ですから、この中で上位になるのは厳しいものがあろうかと思われますが、寄りにもよって、あの大阪より評価が低いという結果になってしまった。名古屋にとっては一大事という受け止め方です。大阪の場合は、こういう調査結果が出ても、多分、冗談・シャレの世界にしてしまう。愛着度、誇り度が最低であったことなど、喜んでウリにしてしまう。この調査結果は、名古屋以外ではあまり知られていないと思いますが、吉本の芸人が知ったら、間違いなくギャグネタにして笑い飛ばす対象にしていると思いますね。それが面白くて、また観光客・訪問客が増えたりして。

市政情報の総括の欄に「名古屋市は本調査結果を打開するために、市民の皆さまと一緒に名古屋の魅力を向上・発信するための戦略策定に取り組みます」と記載されていました。超真面目なコメント。この堅い真面目さが名古屋の良いところだと再認識しました。

 

そもそも何のために名古屋の魅力向上を図ろうとするのか説明が無いように思いますが、まあそれはチョット横に置いたままにして、一方では、名古屋は住みやすいとの評価は確立されています。同じく名古屋市が実施している調査で「住みやすい」(=住みやすい、どちらかというと住みやすい、の合計)は 90.9% と大変に高い評価結果となっています。この調査は名古屋市市民経済局が毎年一度行う市政世論調査で、住みやすさ、市政の評価・要望などについて、昨年度は7月28日から8月9日に実施、12月に結果公表されています。市内に居住する18歳以上を対象、有効回収は1070人の調査です。「魅力度、愛着・誇り・推奨度」vs「住みやすさ」の対照的なこと。これが名古屋なのかなと何か納得出来たような感じがしています。

 

 散歩しながらツラツラ考えると、名古屋・愛知・中京というのは、やはり、日本のど真ん中。質素・堅実・真面目、トヨタさんに代表される「ものづくり」、意外に知られていない食品・農業王国。これ以上明確なイメージは他の都市・地域には無いように思っています。

それにしても、家康さんは徳川幕府が安定してからも、どうして拠点を江戸から中京地域に戻さなかったのでしょうね。秀吉さんが大阪を拠点としたのは、当時の経済の中心であったこと、瀬戸内海から博多、朝鮮半島そして中国・東南アジアルートに繋がる重要性、京都との距離等々から理解出来そうな気もしますが(・・蛇足ですが、”大阪は日本一の境地(=重要な場所)である” と看破したのは信長さんだそうです。ブラタモリの受け売りです)。

江戸・東京と比較すれば京都との距離もまずまず、地理的には間違いなく日本のど真ん中、生まれ故郷にも近い名古屋城を拠点にしても良かったろうに。そうなっておれば、今頃、間違いなく名古屋は日本の政治・経済・文化の中心になっていたかと思います。ただし、今の東京のようにとは言いませんが、随分と住みにくくなっていたかも知れませんね。

  

犬も歩けば棒に当たる。以前から一度行ってみたいと思っていたお店に散歩の途中で全く偶然に出くわしました。自分でもビックリ、ビンゴ!、感動の出会い。

『スイートオブオレゴン』、チーズケーキの専門店。

風邪でやや鈍った体をシャキッとさせようと約3.5時間のウォーキング。カラダを動かせば何か良いことがあるもんですね。小さなチーズケーキを買って帰りました。もちろん、評判以上の美味しさでした。

 

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 更に、その後で、商店街で駄菓子屋さん、八百屋さんを見つけました。これも間違いなく「名古屋の魅力」と思います。昭和世代は安らぎを感じます。野菜を買い込んで、クックパッドの💛クルルのキッチンに「筑前煮」をツクレポしました。

 

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