クルルのおじさん 料理を楽しむ

ベガーチキン

ジョホールに駐在している時に、カミさんの両親が遊びに来てくれました。1994年8月のことです。孫たちの顔を見るためというのが一番の目的でしたが、それと同じくらいに、親父さんが”思い出の場所を訪問してみたい”という気持ちが強かったようです。『肉骨茶』でチョット書きましたが、親父さんは傷痍軍人です。戦争中、この地域での戦闘で重傷を負いました。お酒大好きおじいちゃんで僕たちが結婚してからは男二人で良くお酒を一緒に飲みましたが、お酒を飲んだ時でも戦争の話、特に、自分が重傷を負った話をすることはありませんでした。僕がジョホール駐在になるという話を聞いた時に初めて「自分が負傷したのはジョホールバツパハというところだよ」と言い出しました。

バツパハでの戦闘で右手首に銃弾が貫通する重傷を負いました。まだ、太平洋戦争の初期の頃であったのが幸いしたのではないかと推察しています。最悪は手首切断も止む無しと言う状態であったそうですが、それなりの治療を受けることが出来て、とにかく、生きて日本に帰ることが出来た。その後のリハビリは想像を超えるほどに大変であったそうです。死線を彷徨うような体験をした方はやはり何かが違うのでしょう。戦後、苦労して池袋にお店を構え、爾来、家族を養い、地域社会・業界にも大変な貢献をされました。立派なおじいちゃんです。2007年9月に89歳で亡くなりました。

池袋でお店を立ち上げた時の面白い話があります。戦後の混乱期。ヤクザ、愚連隊の類の連中が煩かったそうです。ある時、何人かが立ち上げたばかりのお店に来て嫌がらせをしてきた。頭にきたおじいちゃんが玄関に出て気合を入れて「お前ら、うるさい。出ていけ、ここは俺の店だ、嫌がらせはやめろ。俺はxxケイジ(彼の本名です)だ。」と大声で怒鳴ったところ、おじいちゃんの余りの剣幕の激しさと「刑事だ」と聞き間違えてすごすごと退散したとか。おじいちゃんは身長は175㎝くらい、眼光鋭い偉丈夫で、確かにテレビの刑事役でもすれば似合いそうな風貌ですから、そりゃあヤクザさんも恐れをなして退散したのであろうと。

 

バツパハというのは聞いたことが無かった地名でしたが、勤務先の会社でお世話になっている運送業者の社長さんがこの町出身の方でした。ソウさん。僕より2歳ほど年上です。中国系マレー人で、彼の親父さんの時代にマレーシアに移り住み事業を起こされた。ソウさんはイギリスにも留学経験があるエリートのインテリですが、偉そうな素振りは一切見せない。明るい、朗らかな、いい人。駐在の期間中、仕事でも私生活でも大変に楽しいお付き合いをさせて頂きました。

「うちのカミさんの両親が遊びに来る、カクカクシカジカ」と説明すると「昔、日本軍が攻めて来たときに町の郊外で川を挟んで激戦があったという場所がある。負傷を負われたのはそこかも知れない。自宅の近くであるから、ご両親を連れて遊びにおいで。」と誘ってくれました。

 バツパハ、英語のスペルは Batu Pahat  と書きます。ジョホールバルの家から120㎞くらい。愛車トローパに全員乗り込んで出発しました。この四駆は、後部の荷物を置くスペースを撥ね上げると簡易な椅子席に変わるように出来ていて、定員は7人乗り。まだ小さかった子供たちにはこの椅子席に座ってもらいました。道中、おじいちゃんから負傷を負った時の話を子供たちにも話してもらいました。おじいちゃんも少しづつ記憶が蘇るような気配でした。

 

町でソウさんと合流して早速郊外の川の近くに行きました。いかにも古そうな、しかし頑丈そうな土台の上に橋が架かっている。回りは灌木と畑。結構、見晴らしは良い。川の土手はあるものの身を隠すようなものは何も無し。ここで激烈な戦いがあったんだ。おじいちゃんは無口になってあちこち見渡していました。ポツリ「あまり、よく、分からないね」と。思い出したくなかったのかも知れません。

町に戻り、ソウさんが贔屓にしている中華料理のお店に行きました。これは立派な中国の料理屋さん。ビールを飲んで一息ついている時、ソウさんが一人のおじいさんを連れてきました。ソウさんのお父さん。彼も戦争中は大変に苦労をされたとか。親戚には犠牲になった方もいらっしゃる、またご本人も植民地時代には財産を没収されるなど嫌な経験をされている。この方がまた、大変に厳つい、怖い顔をされている。当時、シンガポールの大統領はリーカンユーさんでした。今でもお元気で、今では穏やかな好々爺然とした顔つきですが、当時はむちゃくちゃ迫力のある鋭い目つきをされていました。ソウさんの親父さんもその筋の顔です。ソウさんご夫妻と親父さん、うちの家族と両親で大きなテーブルを囲んで会食です。親父さんどうしは隣どうしに座ってもらいましたが、言葉の問題以上に、お互いに、話をしようとする気配が無い。≪これはヤバいかも知れない。お互いに昔の嫌なことを思い出して、喧嘩にならないかしら≫。ソウさんも心なしか心配そうな表情をしております。戦争の辛酸を知りつくしている強面のおじいちゃんどうし、一触即発の危機か。

お酒の力は有難いもので美味しいビールと紹興酒を飲むに連れ、お二人の表情も和み、言葉は通じないまま会話をしてくれるようになりました。最後の方では、うちのおじいちゃんの右手首の傷跡をソウさんのおじいちゃんが手を取って撫でてくれていました。涙は出てなかったと思いますが、”お互い苦労してきたねえ”、とあたかも戦友を称えているような。予想以上に内容の充実したバツパハ旅行でした。

 

 ジョホールバルの郊外に、ベガーチキンの店があります。バツパハから戻り落ち着いてから、おじいちゃん、おばあちゃんを連れて行きました。一羽丸ごとの鶏に香辛料を詰め込んで何かの大きな葉っぱで全体を包んだものをさらに泥、粘土で覆う。火で高温にしてある砂場の土の中に丸ごと埋め込んで蒸し焼きにする。

出来上がったモノはスコップで掘り出して手押し車に積んで運んできます。熱いから。粘土、泥はカチンカチンの状態。それをハンマーでガシャーッと叩き割って鶏を取り出します。まだアツアツ、ホカホカの状態。お皿に取り分けてくれます。お箸で簡単に崩せるほどのトロトロになっています。特有の芳ばしい香りがありますが、優しい味です。これがメイン料理。

副菜の一つに焼き魚が出てきます。一見、日本の秋刀魚みたい、皮に焦げ目がついている。これを箸で捌こうとすると感触が違う。最初は≪なんやこれは≫と思います。包丁を出してもらい、1-2㎝にキレイにカット。中身は蒲鉾状態になっています。蒲鉾を焼き魚に見えるように焦げた魚の皮のようなものまで付け成型して出してくる。お醤油のような出汁で頂きます。味はマアマア、こんなもんか、という感じ。

ベガーチキン(直訳すれば、乞食鶏です)というのは、昔むかし、貧乏な人達が料理する時に何も道具が無かったので、たき火をしていた土の中に鶏を入れて焼き芋風に焼いてみた、というのが起源とか。おじいちゃん、おばあちゃんには、見た目も面白く、鶏も柔らかく、味も優しかったので好評であったようです。また、孫たちが料理を説明するのが嬉しかったのでしょう。食事の最後に、おじいちゃんがしんみりした声で「バツパハに連れて行ってもらって良かったよ。いろいろなことを思い出したよ。」と言ってくれました。

 

ずっと後になってですが、おじいちゃんを偲ぶ会の時、一族・親戚の方が大勢集まってくれた時に、おばあちゃんから頼まれて、この時の話を紹介しました。おばあちゃんも「この時の旅行をおじいちゃんは大変に喜んでいました」と話しました。うちの子供たちも一人ひとり立ち上がって「ホントにいいおじいちゃんでした」と泣きながら挨拶してくれました。孫に慕われるおじいちゃんというのはなかなかにカッコ良いと思います。 

 

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 これ全てお菓子の材料から製作されたものです。4月25日、撮影。2017菓子博・三重、「お菓子の匠工芸館」にて。呼び物の一つであった「全国お菓子夢の市」は入場するのに待ち時間が1時間以上。入場者はお土産に買い物するのを楽しみにしているのにこれだけ待たせるのはいかがなものかと。興行的にも残念なことですね。菓子博は5月14日に閉幕。入場者総数は、目標の60万人に一歩届かずの58万人であったとのことです。

 

蛇足の補足、本文中「おじいちゃん」「親父さん」が入り乱れていますが、僕のカミさんのお父さんのことです。日経の俳句欄に心情的に分かる句が載ってました。

 

〇蕨餅いまだに妻をかあさんと  野田 哲士さん (4月29日、日経俳壇)

 

 

フィッシュヘッドカレー

マレーシアに駐在して家族が来てくれるまでの単身期間中に、マレー半島を自分の車で一周しました。中国正月の休みの前、仲間と一緒に件の店でバクテを食べている時に、休みをどう過ごすかが話題になりました。今までにも駐在員のなかで何人かの人はこの休みを利用してマレー半島一周の旅をしたとのこと。「なるほど、それは良いアイデアだ。しかし、一人で車を運転してマレー半島を一周する、というのは不安がある。チョット怖いなあ」と言ったところ同席していた方が「僕で良ければ同行させてください」と言ってくれました。この方は、在シンガポールの駐在員で、あと数か月で帰国が決まっていました。駐在の最後の思い出にマレー半島巡りをやってみたかったので、僕が行くのであれば絶好の機会だから同行すると言ってくれたものです。

こういう話はトントン拍子に進むもので、バクテを食べている間に、ザックリした計画を決めました。計画と言っても、大雑把な日程を打ち合わせしただけ、あとは、運転しながら適当に考えようということを決めただけです。当時、僕はいすゞのトローパーというジープ(四輪駆動)に乗っていました。日本ではビッグホーンという名前です。四駆の中では人気車種の一つであったかと思います。もちろん、オートマテイックではなくマニュアル車です。僕たちの世代は、車の運転は間違いなくマニュアル車で覚えました。マニュアル車の運転が得意という訳ではありません。マレーシアでは日本車(セダン)の価格が大変に割高で、日本で買える値段の2-3倍はしていたと思います。四駆というのは、実務用の車種という認識がされており、税金が割安。日本に比べて、値段は高いことは高いですが、セダンに比べて相対的にはまだマシでありました。そもそも、試乗した時に四駆の力強さを実感して、マレーシアで運転するには、これくらい逞しい車が良さそうだと思ったのがトローパーを選んだ最大の理由でありました。久しぶりのマニュアル車の運転で、慣れるまでには結構苦労させられました。

 

旅行のテーマは、単純に、半島一周することなのですが、その中で①マレー半島の北東に昔の合弁事業の工場跡地があるので、そこを訪問すること。②各地で、バクテとフィッシュヘッドカレーを食べ比べること、にしました。

出発の前夜は生憎と大雨が降っていました。出発して1-2時間も経たないうちに、道路が洪水状態になっている個所に出くわしました。いったん停車。大型のローリーは何の問題も無く通過して行きます。中型のバスも恐る恐るではありますが、これも無事に通過。それを見ていた乗用車が後に続きました。途中で動けなくなりました。エンスト。回りにいた見物人に助けてもらってロープをつないだり、押したり引いたりしてもらって、漸く、脱出。

”オレのトローパーはあの乗用車よりも車高は有る、さっきの中型バスくらいは高いのでは、まあ、最悪でも見物人(多分、近くの村人)が助けてくれそうだから、挑戦しよう!”とエエ加減な判断で一歩一歩前進しました。結構、水の圧力は強いもので車ごと流されるような感覚がするくらい。しかし、四駆の力は大したもので、自力で渡り切ることが出来ました。見ていた村人からは拍手、拍手。初日から大変な冒険旅行となりました。

 

村と村、町と町の間は、ほとんど畑かジャングルです。畑は専らパームヤシの農園が広がっています。我々の会社・工場の原料となる作物です。なだらかな丘状に見渡す限りパームヤシの農園が広がっているのは壮観です。想像を逞しくすれば、映画のジュラシックパークの舞台にいるようで、次のカーブを回ったら大きな恐竜が出てきても不思議ではないような景色です。

その通り、運転中に恐竜が出てきました。イグアナ。道路を横断している。頭から尻尾の先まで2mはあると思います。車の気配を感じてからは動きが速くなりました。多分、一族の中には、肉食恐竜ならぬ大型ローリーの犠牲になったモノもかなりの数がいるのでしょう。マングローブの林のなかに消えていきました。他にも、カメ、サル、馬・ロバ、それから、ヘビ。カメは遅いですが、ヘビは速いです。空を飛ぶような勢いで、これも2-3mはありそうなヘビが道路を走り去って行きます。

マレーシアにはコブラがいます。なかでもキングコブラというのがいて、鎌首を持ち上げると人間の背丈以上になるほどとか。極稀にだそうですが、農園で働いている人が出くわすことがある。逃げようとしても人間の走る速さどころでは無いスピードで追いかけてくる。あっという間に追いつかれて噛まれればお終い。猛毒だそうです。働いている人はコブラ毒の血清を常時しているとか。くわばら、くわばら。僕はヘビ、トカゲの類は全くの不得意です。

(最近、公害問題とか動物保護とかの観点から熱帯雨林にある農園についてイロイロと議論がされています。パームヤシ農園の名誉の為に念のために書いておきますが、適切に運営されている農園は、環境に優しいものです。そして、マレーシア経済に大変な貢献をしている産業です。農園のなかには労働者従業員のための住宅、病院、学校も完備されているほどです。)

 

夕方、どこかの町に入って、その夜の泊まる場所を確保するため、ゆっくりと車を走らせていましたら、警察官に車を停止させられました。信号無視でもやってしまったか、と不安に。英語を話せない方です。僕はマレー語は全く分かりません。何か車のことで文句を言っているような。車から降りて前面にいくと、何んと車のナンバープレートが付いていませんでした。後ろのプレートは付いていました。

”何故だ?、エッ、ああ、そうか。洪水のところを渡った時に水の力で剥がされたのか?それ以外には考えられない。水の力ってのは凄いんだ”。「それでお巡りさん、どないせいと言うんですか」と聞いたところ、何やら回りにいる人(=一般人、村人)に指示しています。この時には、回りには見物人が沢山集まって車を取り囲んでいました。村人が、木の板、針金等を持って来てくれました。随分と手際よく、ペンキかマジックインキのようなもので木の板に車のナンバー詳細を書き込み、板の穴に針金を通して車体に固定してくれました。これで一件落着、無罪放免。回りからはまた拍手と歓声。「いやあ、ホンマにお前らええ奴やなあ、感謝、感謝。何かお礼をしないと日本人の名前がスタルわ」。荷物をあたると日本ブランドのペット飲料と日本から持ってきたT-シャツがあったのでそれをプレゼント。デザインが面白かったのか、大うけでした。ついでに、ホテルも紹介してもらい、充実の初日を無事にベッドで寝ることが出来ました。

 

ほぼ予定通り、三泊四日か四泊五日の、弥二さん喜多さん珍道中は無事に終了。トラブルは沢山ありましたが、事故は一切無くてなによりでした。結構ハードな工程でした。二人で交代しての運転ですが、約2000㎞走りました。テーマその①の工場跡地もチャンと探し出して訪問することが出来ました。ツワモノどもの夢の跡です。テーマその②は、結論から言いますと、マサイのバクテ、フィッシュヘッドカレーの勝ちでした。我々の訪問したところ、宿泊したところはマレーシアの田舎でしたから、マレー人の方のほうが圧倒的に多い。もちろん、中国系マレー人の方も住まれていて、中国系マレー料理の店もあるのですが、やはりお客さんの人数が少ないところは完成度が違う。マサイのバクテ、マサイのフィッシュヘッドカレーに勝るお店には出会うことは出来ませんでした。

 

マサイにはバクテ(『肉骨茶』を参照ください)のお店に加えて、フィッシュヘッドカレーの店もあるのです。これがまた絶品。結構大きなの魚の頭、オクラが入っています。香辛料が良く効いていてココナッツミルクで味付けされているスープカレーです。パサパサのご飯にトロっとかけて頂く。この店では野菜炒め、スペアリブを焼いたもの、げその唐揚げ等々、ビールにあうお皿も出してくれます。カレーをB級グルメと言うと名古屋の誰かさんに叱られるかもしれませんが、この店ごと日本のB級グルメ大会に出場すれば、入賞は間違いないのでは。ひょっとすると優勝も出来るのではと思うほどです。最も、気候・環境・景色の差は大きいですから、全く同じものを日本に持ち込んでも、マレーの地で食べて感激する味にはならないのですかね。

 

マレーシアの話にお付き合い頂きありがとうございます。もう少し続きます。次回は、いよいよ池袋のおじいちゃん=僕のカミさんのお父上の話を書きたいと思っています。

 

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留守宅の永良部のユリと芝桜。ユリは50㎝くらい。つぼみが出来始めています。名古屋のマンションのユリが既に開化したのは、室内で育てたからなのでしょうね。5月の連休に撮影。

<おまけ>

連休中に、東京の恵比寿駅の近くのシンガポール料理店に行って来ました。『肉骨茶』を読んでくれた方が教えてくれました。有難いことです。シンガポールのローカル料理店、バクテもある。マスターは日本人の方。料理人としてシンガポールで働いていた時、ローカルフードのフアンになり、帰国後この店を開くことにしたとのことです。マレーシア、マサイではバクテ屋さんはバクテのみの専門店ですが、この店はさすがにシンガポール料理を取り揃えたメニュー。バクテに加え、鉄板豆腐、鶏飯、空芯菜等々を注文。ビールもタイガービールを頼みました。シンガポールのバクテは、もともと、マサイの味付けよりも上品な薄味です。久しぶりに懐かしの味と香りを楽しめました。美味しかったです。お店の佇まい・雰囲気もよかった。

メニューには、フィッシュヘッドカレーもありました。残念ながらこれは事前予約が必要とのこと。次回の楽しみとなりました。

お店の名前は「恵比寿新東記」。ホームページを見たら「シンガポール政府観光局第一号認定店」と書いてありました。由緒正しいローカルフードのお店なのですね。お薦めです。クルルのおじさんの紹介です、と言っても何の役にも立ちませんので。念のため。

 

 

 

 

 

肉骨茶

肉骨茶=BAK KUT TEH、「バクテ」と発音します。マレーシア、シンガポールにある中国系の方の庶民の料理です。専ら、朝ご飯、昼ご飯に食べる料理だと思います。夜のメインに出るようなものではない。食べる時は、何人分かを言って注文するとその人数分の大きさの土鍋にスープと具を入れてアツアツにした状態で出してくれます。別途、ご飯を一人ひとりにお椀に入れて出してくれますから、ご飯にスープと具をかけてスプーンとお箸で頂く。平易に言えば、ぶっかけスープご飯です。家庭で作って食べる料理という訳では無いと思います。中国系の方は、そもそも外食が多いですから、外食庶民料理と言ったところでしょう。日本の料理・店のイメージで言えば、お値段感覚も含めて、立ち食いのうどん屋さん・蕎麦屋さんか、はたまた、吉野家の牛丼というところかと(かの地では立ち食いではありません、念のため。また、チェーン店は無いと思います)。

 

初めて食べたのは、マレーシアのジョホール州にあるマサイという小さな街道の町にあるバクテ屋さんでした。出張で訪問した時に、現地に駐在されているグルメの先輩の方に案内して頂きました。ぶっかけスープご飯ですから、見た目は決して上品な料理ではありません。お店の佇まいも決してキレイではない。はっきり言えばキタナイ。僕は生意気盛りでしたから、”何でわざわざ東京から出張で着たモノをこんな店に連れてくるんやろ、他に美味しいレストラン無いのかいな”と訳が分からない状態でありました。

しかし、これが旨い。これは間違いなくこの場所でしか食べることが出来ない味だと納得しました。さすがに舌の肥えたグルメの大先輩。味が大変に洗練されています。薬膳料理のような上品な芳ばしい香がする。沢山の種類の香辛料が使われていると思いますが、鼻・舌に刺激を受けるような香り・味では無い。基本は醤油味です。現地のご飯はどちらかと言えばパサパサのお米ですから、そのご飯にスープを加えて食べると食感が丁度良くなる。文字通り骨付きの豚肉が入っていますが、よく煮込んであるので油分はほぼ落ちているし大変に柔らかい。豚は食べるというよりはスープの出汁用になっていて、野菜、湯葉が入ったスープを頂くという料理です。スープは茶色ですが、この先輩の説明では、お茶を使って煮込んでいる訳では無い。「茶」という漢字には「スープ」という意味があるのでは、という解釈をされていました。

 

昔むかし、中国の方がこちらの方に出稼ぎに来て、大変に貧乏で苦労されていた時に、安く手に入る食材を利用して美味しく栄養のあるものを食べようと工夫した結果、出来上がった料理だとか。ですから、この料理は中国系の方の料理ですが、大陸中国とか台湾には存在していない(はずです)。

二回目に食べたのは、自分自身が駐在になって赴任した初日でした。同じ町の同じバクテ屋さんに行きました。シンガポールからマレーシアには陸路でつながっています。コーズウエイと言います。マレーシア側に入ったところがジョホール州の州都であるジョホール・バル。ここからさらに海岸沿いに車で1時間弱走ったところにパシール・グダンという工業団地があり、僕が勤務することになった会社はこの一角にある食用油の製造工場でした。このバクテ屋さんがあるマサイという町は、ジョホール・バルとパシール・グダンのほぼ中間にある町。出張で初めて行ったときから数年はたっていましたが、同じ場所に同じ店があり繁盛していました。味も昔と変わらず。駐在初日に「マサイのバクテを食べたい」と駐在されている方にお願いした訳ですから、皆さん「ムムッ、こやつ出来る」と驚いたかも知れません。

初めて行った時は、東京からの出張でしたから、暑いながらもスーツにネクタイ姿でしたが、この二回目の時は、ノータイ・半そで・替えズボンという現地のスタイルで気楽に行きました。出来ることであれば、Tシャツ・半ズボン・草履で行くのが最高であると思います。

 

この会社には約4年間勤務しました。最初の数か月は単身。その後は家族が来てくれて一緒に生活をしました。家族として初めての海外生活です。家族には新学期に間に合うように来てもらいました。丁度、長男が中学一年生、長女は小学2年生、次女がピカピカの小学1年生になる時でした。三人ともにシンガポールにある日本人学校に入学。

 

長男の入学式の時のことです。シンガポール日本人学校の中学校では制服が無いというのは理解していましたが、どんな服装で行くのか全くイメージが無く、僕の前任者の奥様に聞いてもらいました。予想通り「日本と違って中学には制服は無いから、自由な格好でよいですよ。」ということだったので、カミさんにその旨伝え、普段通りの恰好で行かせました。赤道直下の暑いところですから、半そでのポロシャツに半ズボン。

海外での新生活ということもあり、入学式にはカミさんと一緒に参加しました。生徒入場。あらまあ、ほとんどの生徒は白いワイシャツに黒い長ズボン。カミさんは予想していた通りと言うような顔をしていましたが、僕が普段通り!と言い張ったのでそれに合わせてくれた結果でありました。入場してくる長男と目が合ってしまいました。「なんで僕はこんな格好しているの、勘弁してよ」みたいなアイコンタクトしてきましたが、図太いのか余り気にしている様子でも無く、堂々としていたので一安心。

日本にいる時、彼が小学生の時には、あまり(ほとんど)学校の行事に参加しておりませんでした。久しぶりに同級生と一緒にいる長男を見て、「おお、結構、身長も高い、なかなかカッコいいじゃないか。それにしても場違いなガキっぽい服装やなあ。あはは、ゴメン。」てな感じでありました。ちなみに相談に乗って頂いた奥さまが説明されたのは「制服はないから入学式らしい服装であれば何の規制もないですよ」という意味でした。ダンナさんがそれを通訳して、そして、先入観を持っている僕が聞くと「気楽な普段通りの服装でよいのだ」ということになってしまったという訳です。

 

 

先日の長男の結婚披露宴の時に、ふと、この時の情景と肉骨茶の味を思い出しました。一人で思い出し笑いをしていたかも知れません。何故、肉骨茶も一緒に思い出したのか、自分でも面白く思います。振り返ればあっという間の25年です。

 

 

この会社での四年間は、仕事の上でも大変に充実した期間でしたが、家族生活でも大変に有意義な期間でした。海外駐在の期間は、概して、家族の絆が強くなると言いますが、僕の場合、日本ではほとんど家にいることが無かったような状態でしたから、特にそうだったと思います。また、我々が現地の生活に落ち着いてからは、それぞれの親も孫の顔を見に遊びに来てくれました。特にカミさんの親父さんは、戦争中に近衛騎兵に所属しており、この地域で重傷を負いました。文字通り九死に一生を得た。右手首に銃弾が貫通して酷くえぐられ、とても生きて日本に帰ることなど考えられなかったそうです。駐在期間中に、親父さんが死線を彷徨った場所を本人と一緒に家族みんなで訪問することが出来ました。これは大変に思い出深いことですので、別途、改めて書きたいと思っています。

  

マレーシアは、ムスリムの国です。最近では、ムスリムと言えばイスラム国のムチャクチャな動きでテロの巣窟のイメージが固まってますが、本来のムスリムの国・人々は大変に穏やかなものです。特にマレーシアがそうかも知れません。マレーシアでは、マレー人が人口の約60%を占めており、このほとんどがムスリムです。中国系マレー人が30%、インド系マレー人が7-8%のはずです。ムスリムではいろいろな戒律があり、食べ物に対しても厳しい制約があります。ハラールと呼ばれるものがそうです。ムスリムの戒律に合致するものはハラール(適合)食品と言われます。厳しい制約対象の一つが豚です。イスラムの方には豚は忌避されています。極端に言えば見るのも嫌だ、触るのもとんでもない、食べることなど考えられない。

バクテは、説明した通りで、豚ベースの料理です。街のあちこちに「肉骨茶」の看板が出ている。マレーの方は漢字は読めないと思いますが、中身は分かっているはず。少数民族(中国系の方)が大きな顔をして、ムスリムで禁じられている料理の店を堂々と営業している。それをメジャーなモスリムの方々が傍らで穏やかに見ている訳ですから、こんな寛大な国民・宗教は無いのではと思います。

 

バクテ料理では、「バクテの素」というのも売られています。バクテ・スープの素といったところです。バクテを好きになった日本の方が帰国の時に買って帰る。日本に戻ってあの味が懐かしくなって「バクテの素」で料理して食べてみる。残念ながら、似て非なるものしか出来ないそうです。これはやはり現地に足を運んで味わうべき料理だから、止む無しだろうと思っていましたら、最近、長男が「東京にデイープなマレー・シンガポール料理店が出来ており、あの現地の味を出していると評判である」と言って来ました。日本・東京で、マレーとは異なる気候・風土・環境の壁を超えて、果たして、あの味を出せているものかしら。やや複雑な心境ですが、やはり一度トライしてみようかと思っています。

 

  

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沖永良部島のユリの花が咲きました。背丈のみヒョロヒョロと高く伸びて、果たして花が咲くのかと心配していました。随分と早咲きです。4月26日、撮影。

名古屋の不思議

昨年の6月末から、通勤には地下鉄・名鉄を使っています。朝がやや早いこともあり、首都圏のような通勤地獄はありません。ちょっと車両の中側に入れば、ゆっくりと新聞を読めますし、名鉄は通勤ラッシュとは逆の方向に乗るので、ほぼ100%座って行くことが出来ます。

名古屋の地下鉄のエスカレーターに乗る度に不思議に思うことがあります。かなり大きな張り紙が出ています。一文字づつ「走」「ら」「な」「い」「で」「下」「さ」「い」「、」「歩」「か」「な」「い」「で」「下」「さ」「い」「。」と書いてあります。駅は忘れましたが、「急ぐ人は階段を」、「健康のためには階段を」と言う張り紙もありました。最初は(嫌味で無く)何を言いたいのか全く理解出来ませんでした。一文字づつ書いてあるので、そもそも何と書いてあるのかも瞬時には読めなかったし。

しばらくしてから、もっと小さな張り紙に「危険ですから云々」とあるのを発見。なるほど、危険だからじっとしておれ、という意味だったのかと理解が出来ました。でも、東京、大阪等々で、こんな大きなモノに一文字づつ「走・ら・な・い・で」「歩・か・な・い・で」と書いてある表示を目にした記憶が無いように思い、その後、あちこちで駅のエスカレーターに乗るたびに注意書きを見るようになりましたが、せいぜい「危険ですから立ち止まってご利用下さい」とか「危険ですから動かないで」とかの記載でした。

 

僕は大阪生まれ大阪育ち。大阪はエスカレーターは右側に立つ、というので有名です。東京に移った時、みんなが左側に立っていたので驚いたことがありましたが、その時に初めて、全国的には右側に立つのは大阪だけで他の地域では左側に立っていることを知りました。

大阪の右立ちは、1970年の万博の時にルール化したというのが専らの説です。欧米の主要国ではエスカレーターでは右に立っているということに合わせたそうです。どうせなら日本全国で「エスカレーターは右立ち」キャンペーンをやればよかったと思います。首都圏の賛同を得られなかったのか、そもそも相談しなかったのか。その前の東京オリンピックの時には議論しなかったのですかね。万博キッカケ説以外には、阪急梅田駅に「動く歩道」というのが出来た時に、そのアナウンスで「歩かない方は右側にお立ち下さい」と言ったのがキッカケになり、動かない人は右側に立つということになったとのことです。

 

もし利用する人全員が動かないでエスカレーターに乗るのであれば、右・左の両方に立ち留まって利用するのが一番効率的かと思いますが、東京でも大阪でも、そして名古屋でも、実際に両側で立ち留まって利用しているエレベーターをまず見たことがない。大阪以外では、皆さん左立ちで右側は空いているまま。右側を動く人はあまり多くはいないのかもしれませんが、急ぐ人は追い越していく。立ち止まって利用している側も、急ぐ人がいれば右側を通過していくことを当然だと思っている。もちろん、動いて通過する人を注意する人なんていない。天の邪鬼の僕は、こんな醜い看板をかけてまで「動かないで」というのであれば、一度、右立ちをしてやろうかと思ったのですが、もし、誰かに追い立てられて「おっさん、邪魔や、どけ。ボケっと立ってんと、はよ左に寄らんかい」なんて言われたら、すごすごと「スミマセン」と謝ってその人を避けてしまうだろう。その時に「バカ者、エスカレーターでは動かないのが真っ当な乗り方である。左右両側に立って乗ることを知らないのか、たわけ!」と言い返す気分にはならないだろうと思い、いまだに、右側でじっと立つことが出来ていません。

モノ知りの友達にこのことを話したところ、エスカレーターで以前、事故があった。それで安全な乗り方を徹底しようという動きがあって、その一環としてこのような注意書きが増えたのであろうとのことでした。エスカレーターの安全基準というのは、ステップに立ち止まって利用するのが前提になっている由。ステップに巻き込まれる、挟まれる事故が多いそうです。昨年の7月からは「みんなで手すりにつかまろう!」キャンペーンも実施されているとか。

公共の場所での事故、その場所を管理している役所の責任、ついつい過剰な対応ぶりにつながるのかしらとも思います。もちろん、事故の当事者だけでなく、周辺にいる、特に赤ちゃん・子供連れ、お年寄りが、もらい事故に巻き込まれないように注意することは必要ですから、事故を起こさない、事故に巻き込まれない工夫は必要だと思います。それにしても名古屋の地下鉄は何故これほどまでに過剰なアピールをしているのやら。

 

階段を歩いていても怖い時があります。僕自身はまだ、もらい事故に遭ったことはありませんが、何回も怖い場面を目撃しました。大きなカバンを抱えて歩いている人、カバンが通行人に当たって危うく転がりそうになってしまう。急いでいる人、焦って階段を走り降りる。三段跳びくらいして、ものの見事に横転ひっくりかえった。幸い回りの人を巻き込むことなく、ご本人も元気に立ち上がりテレ笑いをしながら歩き去った。エスカレーターだけでなく、階段にも同じように「走」「ら」「な」「い」「で」「下」「さ」「い」と張り紙しないといけないことになります。

やはり、原理原則は自己責任だと思います。もらい事故を防ぐための工夫はもっとすれば良いと思います。ほとんどの大きな駅にはエレベーターが設置されていますから、特に、お子様連れ・お年寄りには「安全なエレベーターをご利用ください」キャンペーンをするとか。

僕の見る限り、右側を空けて乗っているケースが大変を占めており、急ぐ人は右側を動いている訳ですから、あの醜悪な張り紙の効果は無いのではと思います。何故名古屋だけあんな張り紙をしているのやら未だに理解が出来ません。スマートでないですよね。「魅力の無い街」の理由の一つになっているかもしれません。

  

名古屋市長選挙(4月23日投開票)です。名古屋では結構な話題になっています。選挙権を18歳以上に引き上げた改正公選法施行後、初めての政令指定都市での選挙だそうです。名古屋の18歳、19歳の皆さま、自分の一票の重みを感じることが出来るかもしれません。是非、投票してください。

市民税の減税継続vs給食無償化が両陣営のアピール点とか。また、名古屋城天守閣の木造復元構想の是非を問うというのも一つの焦点になっています。以前『名古屋の魅力』で書きました「魅力の無い街」をどう返上するかも大きなテーマであると。まあ、外野席的に言えば天下泰平で平和・平穏なテーマが多くて、これが今の名古屋を象徴しているのかなあと感じます。何んと言っても経済基盤が安定していることが何よりだということの現れでしょう。

僕の大好きな日向の宮崎県では、知名度アップがもっと切実な問題でありつづけてます。宮崎県の知名度アップに貢献したのは、そのまんま東さん=東国原知事であったのは異論のないところでしょう。宮崎県庁が観光名所となりました。登庁する時の知事と一緒に写真を撮ることがブームになった。さすがに業務に支障をきたす恐れがあるので、入り口に等身大の人形の看板を設置して記念撮影ポイントにしたら、これがまた大人気になったと。

 

「魅力の無い街・行きたくない街」をどう返上するかは、選挙とは関係なくその後も良く取り上げられています。江戸中期の尾張藩7代藩主、徳川宗春さんを名古屋のシンボルにしようというのもあるそうです。宗春が文化振興を積極地に進めたことが、からくり人形を発展させ、それが繊維、自動車産業につながったと。NHKの大河ドラマ化運動もある由(3月16日、日経記事)。 美味しいものを食べるのが大好きな僕としては、是非、名古屋メシをアピールすることでもっともっと地域の活性化と魅力度アップを図ってほしいなあと思います。愛知県は、ココ壱番屋カレーの発祥の地ですから、名古屋カレーなんてのも更なる名古屋メシに加えるとか。世界カレー祭りイン名古屋なんてのも楽しいですよね。

それから、付け足しで言うことではありませんが、是非、電柱・電線の無い街を目指してほしいものです。これは首都圏の都知事さんも結構な関心を示されているとか。名古屋市が率先して電柱・電線の見えない街NO.1をアピール出来れば、それだけでも魅力度向上には大変なポイントになるのは間違いないと思います。 

 

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4月15日、三重県藤原岳に。会社の仲間=平均年齢65歳超のおじさん達と。途中から雨。無理をしないで9合目の手前で折り返しました。フクジュソウを至近距離で見ることが出来ました。この写真は若手で唯一人参加してくれた美人チームリーダーの撮影です。お題は「雨の福寿草」。

 

●下山しての温泉とビールを楽しみに 孔瑠々

●一人分弁当持参の花見かな 孔瑠々

●デパ地下でたこ焼きを買いビールも買う 孔瑠々

 

〇百歳の母の完食山笑う 木村しづを (4/15、日経俳壇より)

 

 

 

『食べる力』

前回に続き面白かった本の紹介です。”面白い”というのは失礼な言い方かも知れませんが、大変に興味深く読みました。「食べることの大切さ」を真剣に語られています。

『食べる力』---口腔医療革命---塩田芳享さん著。文春文庫、2017年1月20日第一刷発行。著者は1957年生れの医療ジャーナリスト。

出張に行くときには何冊か本を持って行くようにしています。移動中は一人になる時が多いので専ら読書を楽しみたいと。会社にある図書文庫で本を借りたり、駅の本屋さんでブラブラ立ち読みして本を見つけたり。誰の紹介でも無く、それまで全く知らなかった良い本を本棚で見つけた時は、それだけで喜びを感じます。前回の『俳句と暮らす』に続き、”見つけて良かった、買って良かった、読んで良かった”と思える本に連続して出会えましたので、自分はまだ運・ツキがあるなあと思いました。

 

飲み込む力が低下することで「食べられないお年寄り」が急増しているそうです。誤嚥を恐れる医療現場が安易に「禁食」させることで、口の機能が衰え、退院後も食べることが出来なくなってしまう。多くの取材を通して「食べることの大切さ」について説得力のある説明をされています。

説得力があると感じるのは「噛んで普通の食事ができることが何より元気の源」という切り口・問題の設定が的を得ている、素直に共感できるからだと思います。

 

『おばあちゃんとは呼ばせない』で書きましたが、この本でも、日本の超高齢社会の課題を指摘されています。この本に沿って若干のおさらいをすると平成27年(2015年)現在の高齢化率は26.7%。高齢者とは65歳以上の方のことです。

高齢になると高頻度で起こる症状の総称を「老年症候群」というそうです。その中で最も怖いのが「嚥下障害」。高齢者は、飲み込む力が低下するからです。嚥下障害が何故怖いのか、それは「窒息」と「誤嚥性肺炎」という命に係わる病気を引き起こす可能性があるから。多くの医師たちは患者さんに細心の注意を払う。それが過剰に安全性を強いるあまり「食べること」が犠牲にされることになってしまう。

医師から「食べてはいけない」と指導・診断される。「食べられなくなるとドンドン体力、免疫力、生命力が低下し、さらに合併症を生む。食べられない高齢者共通の負のスパイラルに陥る」と。

「多くの医師は自分の専門分野の治療を優先する。『食べること』が時として治療の邪魔になり、更には、危険なものにさえなる。医師が『食べさせない』選択をすることが当然に起こっている」

「そもそも、医師は『食べること』そのものを勉強していない。完全な専門外なのだ」

「口の中は、医科と歯科の狭間で見過ごされていた分野。口腔の機能を改善すればもっと食べられる人が増えるのにそれが見過ごされている」との指摘です。

 

厳しい指摘が多いですが、単に批判するのではなく、医者はなぜ「食べてはいけない」というようになってしまったのか、どうすれば改善できるのかを提示しようと努められています。副題に「口腔医療革命」とある通り、口腔の機能を改善させることにより自分で噛んで食べることが出来るようになる。口のリハビリで「食べる力」は蘇る。著者の一つの大きな主張です。そのためには、患者本人、それから家族が、食べたい、食べさせたいという強い思い、意思を持つことが大切だと。

 筆者はもともと映画の助監督、演出家。お母様が高齢のため、入れ歯が合わなくなってしまった。噛むことが不自由になり、噛んで食事することが出来なかった。それでも、あきらめないで、もがき苦しんだ。やっと良い先生と出会え、母親は自分で噛んで食べることが出来るようになった。その時の母親を見ていて、噛んで食べることが健康の基本!という当たり前のことを身に染みて感じたと。

 

「フレイル予防」という新しい介護予防があるそうです。「フレイル(虚弱)とは健康と要介護の中間点の意味で、早く気づいて努力すれば健康から要介護への一方通行ではなく、その逆もある。要介護から健康に戻れる。そのためには「身体」だけの予防でなく「社会性」「精神心理」を多面的に予防していくことが必要だ」と。

このフレイル予防は日本老年医学会の教授が中心になって取り組みをされています。面白いのは、元気な高齢者の方にそのフレイル予防の担い手になってもらうという発想。高齢者が高齢者に対してフレイルサポーターとなる。どこかで聞いた話だなあと思い調べてみたら、この学会は本年1月に、高齢者の定義を75歳上に引き上げるべきだ、元気な高齢者には担い手としての役割を果たしてもらおう、との提言を出された学会でありました。もう一度『おばあちゃんとは呼ばせない』を参照ください。さらに、「フレイル予防」では介護予防を”街ぐるみ”でやろうと、高齢者が社会参加できる街づくりを目指した活動を進められている由。

このブログで取り上げた自分の関心があるテーマが、イロイロな接点・広がりを持っていることを発見するとこれも楽しくなります。何かの輪が広がるような気がします。

 

全くのわたくし事ですが、4月初めの日曜日に息子の結婚披露宴がありました。良いお天気の日でした。家族・親戚の皆さんに集まってもらいました。実は新郎新婦ともにまだ学生です。医学生です。二人とも所謂文系の人間ですが、新郎は30歳を超えてから、新婦は20代後半になってから、それぞれ思うところがあり、医学を学びたい、お医者さんになりたいという強い気持ちから医学部受験に挑戦。この4月で新郎が5回生。新婦が4回生。大学で二人の出会いがありました。

僕は、最近特に涙もろく、長女、次女の結婚披露宴の時はボロボロと泣いていました。さすがに新郎の父親の立場では、カッコつけてしっかりしたフリをしなければと思っていたのですが、最後に新婦から母親に送るメッセージの時には涙が出てしまいました。その後に、親族代表で皆様へのお礼のあいさつをする訳ですからたまったものではありませんでした。

ご参加いただいた皆様へのお礼の挨拶になったのか、医学生の二人が無事に卒業するようにエールを送ったのか、スピーチの内容はともかくとして親としては大変に嬉しい一日でした。全くの親バカです。

 

その結婚披露宴の後で、この本を読みました。二人が無事に卒業出来た暁に、どんな分野に進もうとするのか全くの本人次第ですが、この本を読んで、改めて、患者さんに寄り添って、患者さんが幸せに生きる、それをサポートするお医者さんになってほしいなあ、と思いました。日野原先生のように志を高く持って、高齢になってからも元気に活躍して、自分の生き様を通してみんなを元気にすることが出来れば最高ですね。

  

美味しく食べる、元気に喋る、楽しく笑う。噛んで食べることが健康の基本!大切にしたいと思います。

 

オマケ。孔瑠々の台所俳句?です。ご笑納下さいませ。

●大盛りの納豆チャーハン春うらら

●正月にネギチャーハンを二人分 

七草の粥のつもりが雑炊に 

●煮え端が食べごろなりと講釈し 

●よく噛んで食べて笑って輪が広がりおり

 

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f:id:hayakira-kururu:20170405115447j:plain 東京、千鳥ヶ淵の桜。4月3日・月曜日撮影。この当たり前に平和な日本を大切にしたいです。

 

台所俳句

小川軽舟さん著『俳句と暮らす』という本があります。中央新書、2016年12月25日発行。本屋さんで立ち読みをしていてパラパラと頁を捲ると、第一章の最初の頁に,

●レタス買えば毎朝レタスわが四月 軽舟

という句があるのが目に入りました。「おお、これは僕と感性が近しい方に違いない!」この句を見て即買いました。この方は俳人ですが、同時に単身生活のサラリーマンです(であった。過去形かも知れません)。1961年(昭和36年)生まれですから、僕よりも一回りほどお若い方。俳句雑誌「鷹」で藤田湘子に師事。湘子の逝去に伴い「鷹」の主催を引き継がれたそうです。

「俳句は日々の生活から離れた趣味の世界としてあるものではない。日々の生活とともにあって(中略)その大切な思い出を共有することができる仕組みである」という考え方をされています。それで本の題名も『俳句と暮らす』とされた由。読者にも「俳句と暮らす」生活を提案されています。

宣伝の帯には「平凡な日常をかけがえのない記憶として残すための俳句入門」と書かれてますが、筆者は「記憶を残すため」以上のものを俳句に対して持たれていると評価したいです。

 

第一章は「飯を作る」。単身生活、自炊=料理と僕が興味を持っているテーマですのでそれこそ一気に読みました。僕の感じていること、また、言いたいことと一致していることが多かったので嬉しくなります。それをサラッっと文章になさっている。さすがにプロの俳人。表現が適格だと思います。第一章だけでなく、それ以降の各章も大変に面白かった。僕の言いたいことをすっと心に入ってくる言葉で書いてくれているような気がするくらい。思わず「そうなんや、それを僕はいいたかったんや」と膝を打って感心しました。

 軽舟さんは「自然な流れ」で自炊の生活に入って行かれた由。「私は料理を趣味とする者ではない。『男の料理』という言葉が今一つ苦手である。私の料理は自分の好きなモノを食べるためのもの」と。そして「その生活を新鮮に感じることができるのが、俳句のおかげ」「台所に立つようになり、季節との出会いが更に新鮮に感じられる」とのことです。羨ましいほどに素晴らしい感性を持たれているのでしょう。

また「面倒が高じて自炊が嫌になってしまわない」工夫をされています。「食材に興味を持つ、買い過ぎない、洗い物を増やさない」。掲題句はその精神に沿ったものと。材料は買い過ぎはしないが「覚悟を決めてまるまる一個買うのが王道だ」とおっしゃってます。若干の流儀の違いはあるものの考え方を共有できる。これは同志だと感じました。俳句の感性、言葉の感性には羨ましさを感じますが、単身おじさんの俳句と自炊の生活に拍手を送りたいと思います。

 

俳句の世界に「台所俳句」という言葉があるそうです。高浜虚子が女性の「雑詠(ざつえい)」を募ろうと工夫した。当時、女性は只々家の中にいて家事に専念するのが当然という時代ですから、女性に雑詠させようというのは「開明的な発想であったもの」だそうです。「ホトトギス」に「台所雑詠」の欄を設けた。大正5年です。「具体的な題が例示されている。例えば、台所、鍋、七りん、俎板、水瓶・・・灰神楽、煮こぼれ、居眠り、下働き、お三」と題を見るだけでも時代が感じられます。主婦が台所仕事に一日のかなりの時間を費やしていた時代。台所仕事=女性・主婦の一日という構図ですから「台所俳句とは女性が日常そのものを詠む、ということであった」。時代の流れを俳句で紹介されています。台所仕事が大変な大正の時代から年号が変わり昭和になると、

●秋雨の瓦斯が飛びつく燐寸かな 中村汀女 (昭和10年作)

「苦労して薪や炭を焚かなくても簡単に煮炊きの火が得られるガスの便利さとなった」。これが更に平成になると、

●朝ざくら家族の数の卵割り 片山由美子

「もはや女性が台所に押し込められていた時代とは全く違う。『台所俳句』というレッテルから自由になった時代の句に」なっていると俳句を通じて台所の歴史を解説されています。確かに台所仕事が主婦のムチャクチャな負担であった時代は遠い昔になっていることが俳句から感じ取れます。

 

一方、「『男子厨房に入らず』という戒めの時代は変わった」。ダンチュウが普通の日常になっていますが、筆者によると、それにも拘らず男性による台所俳句の成果は意外と乏しいらしいです。台所を重要な生活の場と認識されている筆者は、そのことを残念に思っています。僕はこの本で「台所俳句」という言い方を初めて知ったくらいですが、料理を楽しみたいクルルおじさんとしては、確かに、元気が出るような、ほんわか気分をもらえるような台所俳句に出会えれば楽しそうに思います。面白いと思った句は、

●オムレツが上手に焼けて落ち葉かな 時彦

筆者が「男の台所俳句の先輩として私淑する」のが草間時彦。「俳句の取り合わせ(配合)で広がりと奥行きのある情景」を評価しています。

●春めくや水切り籠に皿二枚 軽舟

筆者の句。皿二枚ですから、久しぶりに奥様が来られた時と読めばいいのですかね。夫婦の間合いについても中々適格なコメントがあります。後述します。

 

ところで、2016年は日本の「エンゲル係数」が29年ぶりの高水準になりそうとのことです。食品価格の値上げが一服したあともエンゲル係数は上昇している。人口構成の変化、ライフスタイルの変化が背景だという解説です。高齢者の増加、食のレジャー化で「食の外部化」が進んでいると(2017年1月26日、日経)。消費支出に占める飲食費の割合は増加しているが、素材を買ってきて台所で料理することは相対的に減っているということのようです。台所俳句の観点から言えば、台所に立つ機会そのものが減少している訳ですから、ますます成果を期待するのは難しくなっているのかも知れません。大きな括りで言えば、食の俳句、食べ物の俳句というのは存在してますから、その中の「台所俳句」というのも是非ガンばって欲しいモノです。

 このまま書いていくと際限が無くなりますので、以下、印象に残る句と筆者の感性が感じられるところを抜粋します。

 

第三章は「妻に会う」。「単身赴任者にとっては妻とは『会う』もの」。奥さんが「鞄に一泊着替えを詰めてやってくる。(台所に立ち)何度も台所道具や調味料の場所を聞いてくる」「相手と過ごすのがいやなわけではあるまい。ただ、一日中一緒にいるのはちょっとしんどい。自分の知らない時間を過ごした夫に、あるいは妻に会うのが新鮮でたのしいのだ」。奥さんとの間合いをこう書けるのは凄いなあ、と感心します。

第四章「散歩をする」。いい表現がありました。「前に進み続ける時間がある一方で、四季をめぐり循環する時間がある。」これは良い言葉ですねえ。「俳句が季語を必要とする理由。俳句は、その時間の交わりに生まれる詩だから」と。

第五章「酒を飲む」。師匠である藤田湘子の句、

●君達の頭脳明晰ビアホール 湘子

先生が弟子たちとビアホールで楽しく飲んでいて詠んだ句だそうです。関西風にチョットいじくって遊び解釈をすると、「お前らはビアホールでビール飲んでる時だけは頭脳明晰やなあ。ようこんなアホの弟子ばっか集まったもんや」と楽しく嘆いているような。川柳ですかね。茶化してどうもすみません。蛇足の注釈、湘子先生は男性ですから、念のため。

そして本の最後の方には、味わい深い句が出てきます。

●死ぬときは箸置くように草の花 小川軽舟

 

俳句を詠んでみたいと感じたのは、吉田拓郎の「浴衣のきみは ススキのカンザシ 熱燗徳利の首つまんで (中略) ひとつ俳句でもひねって」を聴いた時かも知れません。あの怒鳴り狂って歌っていたた拓郎がこんな唄を歌うなんて。拓郎の影響力は凄かったのかも。いまの拓郎さんに「台所俳句」の唄を作ってもらうのも面白そうですね。僕もボケ防止を兼ねて乏しい才能を掘り起こして台所俳句に挑戦してみようかしら。もっとも、『ごちそう様が聞きたくてvs単身おじさんの朝ごはん』で書きましたが、自分が食べたいものを食べるための料理だけでは、気の利いた・面白味のある俳句は生れてこないのかも知れませんねえ。独りよがりというのはやはり面白くない。料理を楽しむ=台所を楽しむ「台所を詠む」ということになるとやはりその対象が必要なのかも知れません。ニンゲンは一人では生きていけないもののように思います。

 

 

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 お気に入りのお皿と小鉢、宮崎県一ッ葉焼。反対側(裏から)見ても同じ模様が見えます。

 

 

3・11

2011年3月11日には千葉にいました。碧南・名古屋から出張で、会社の仲間と一緒に千葉港にある食品会社さんの工場を訪問しておりました。昼過ぎに工場に入り、会議室でお互いの挨拶を済ませ会議に入ろうとした時でした。地震。それもかなり大きな地震。いったん収まったと思った後も何回か大きな揺れが続きました。テレビのニュースで震源地は三陸海岸沖と知りました。来客用のヘルメットの配布を受け、屋外の避難場所に移動。その会社の社長さん自らが陣頭指揮され、ハンデイマイクを駆使して落ち着いて指示されるのを見ていました。工場の煙突も大きく揺らぎ、倉庫の壁の一部は崩落。千葉港の反対側の工場では大きな爆発音が聞こえました。我々も自分たちの工場のことが気になり手分けをして連絡を入れようとしていましたが、なかなか通じません。しばらくしてから、碧南の工場ではかなりの揺れはあったものの全て無事であることを確認出来ました。留守部隊が冷静に決められた通りの適切な対応をしているとの報告を受け一安心しました。日向の工場も無事でした。

避難場所での人員点呼、安全の確認をしてから、揺れが収まったので会議室に戻りテレビのスイッチを入れました。津波を目の当たりにしました。川が逆流している。田んぼ・畑を濁流が覆いつくしている。道路にいる車が飲み込まれたような。信じられないとしか言いようがない中継映像でした。時の経つのを忘れずっとテレビに釘付けになっていました。

千葉駅近くのホテルを予約していましたが、駅周辺でも一部は液状化が見受けられました。ホテルのロビーは解放されており、帰宅困難な方々が多数体を休めていました。エレベーターは休止状態。10数階の客室まで階段を上りました。翌日は、とにかく、名古屋に戻ろうと(留守宅の無事は確認出来ておりましたので)必死でした。交通機関は大混乱しておりましたが、なんとか無事に戻ることが出来ました。

 

東日本大震災の被害状況は、警視庁のまとめで、死者 15,893人。行方不明 2,553人。震災関連死 3,523人。避難 123,168人。仮設住宅での暮らしを余儀無くされている被災者は、1月末時点で岩手・宮城・福島の三県で約3万5千人。阪神大震災では5年で解消したが、いまだ解消の見通しは立っていないとのことです(日経、2017年3月11日)。地震津波、更には、原発事故まで加わってしまい、未曾有の災害となりました。あれからもう6年です。

 

地震発生の翌日、会社の仲間にはメールを発信しました。被災地、被災者の方々を真摯に思いやる気持ちを大切にして行動したい。春の社内行事の自粛・取り止め、義援金の取り扱いの仕方等々、離れていても何か出来ることがあるはずだと焦りを感じました。当たり前の日常がどれほど大切なことか痛いほど感じさせられました。

今、改めて振り返ってみると、結局は、必要最低限のことしかやっていなかったのでないかと忸怩たる思いが残ります。

 

福島第一原発(1F=イチエフと呼ぶそうです)が及ぼす影響は広範囲に亘っています。今でもそれが続いている。原発避難者(特に自主避難者)への支援の在り方、避難者へのイジメ、避難者のストレスへの対応。溶けた核燃料=デブリの実態把握が廃炉作業の第一歩とのことですが、サソリ型ロボットでも近づくことが出来ていないという現実。一方では、7,000人の作業員の方が暖かいランチを食べられるようになったのは、ようやく一昨年の3月からとか。昨年3月には休憩所にコンビニがオープン、甘いシュークリームが一番人気とのことです。そして、昨年から甲状腺ガンが増える時期に入り、検査の在り方、報道の在り方が改めて問われています。因果関係に関する専門家・研究者の意見に相違が見られる。立場の違いが意見の違いに繋がっているのか。それが被災者の方の不安・ストレスを更に高めてしまう。以上は中日新聞からの抜粋です。同紙は、「福島に寄り添う。忘れない。『何が本当のことなのか』を見極めて報道していく。」と社説に記載されています。

当時の政権の対応ぶりに対する絶望的な思いが今でも尾を引いているのか、行政への期待と失望。それでも行政に頼るしかないという歯がゆさ。もともと復興には時間がかかるものでしょうが、行政の怠慢がそれを助長させないように、行政の適切な対応で一日でも早い復興に繋がるように。マスコミ・メデイアの取り扱いのあり方は大変に重要だと痛感します。

 

この5年間で被害の大きかった宮城、岩手、福島の3県では総額7兆円の公共事業費が投入されたそうです。インフラ復旧が進み、遅れている高台移転や災害公営住宅の整備も本格化している。奇跡の一本松の海側には高さ12.5m、全長約2㎞の防潮堤がほぼ完成したとの写真記事も出ています(2017年3月11日、日経)。「記憶を風化されてはいけない」との注釈のような記載もありますが、資金を投入して復興が進んでいると言われると、なにやら政府広報の記事のような気がしてしまいます。

 

一方では、嬉しくて涙が出る、感動する話が沢山あります。こちらまでもが元気をもらえるような。『絆』が2011年の「今年の漢字」でしたが、この年の漢字の選考は本当に良い言葉を選んだと思います。

 

舘野 泉さん。ヘルシンキ在住のピアニスト。ヘルシンキでのリサイタル中に脳溢血で倒れられた。後遺症で今でも右半身に麻痺が残るが、大変な頑張りで67歳で左手のピアニストとして再出発された方です。この方は、震災以前から南相馬市民文化会館の名誉館長をされています。肩書だけの名誉館長ではありません。実際に現地に足を運ばれピアノ演奏活動を通じて被災者の方々にたくさんの生きる勇気を与えておられます。震災後の8月には、復興支援を目的としたチャリテイーコンサートをヘルシンキで開催。当初は、舘野さんの第二の故郷であるヘルシンキで演奏活動50周年記念イベントをやる予定であったもの。舘野さんの主旨に賛同した主催者、演奏者がボランティアでコンサートに協力、義援金をこの南相馬市民文化会館の復興に寄付されています。(舘野泉さんの本:『命の響き』・・左手のピアニスト、生きる勇気をくれる23の言葉。集英社。)

 

石巻市雄勝町に「雄勝ローズファクトリーガーデン」という庭園があります。ボランティア団体「雄勝花物語」の活動拠点となっているローズガーデンです。震災前、この場所は、この活動の代表理事をされている徳水さんの生まれ育った家があったところ。津波で周辺の家屋・建物も全て流され、徳水さんのお母さまを含め61名の方が犠牲になられた。徳水さんは震災から5か月過ぎた時にその土地に花壇をつくることを決意。「つながりの場所」を作りたかったと。「受け身で支援を受けていた時には前を向くことができなかった。このローズガーデンを作り始め、雄勝町の方々に喜んでもらえるようになって少しづつ元気になることができた」と記載されています。この活動には、日本だけでなく「9・11米国遺族会」、「together for 3.11 anniversary memorial (ニューヨークは忘れない!)」と世界中から励ましが届いています。被災者の心のケアに重点をおいた活動情報誌は地元(ご近所)出身の医学生のお嬢様が英訳されたものを小冊子にまとめられ感謝の気持ちを込めて関係者に配布されています。

 

僕の務めている会社では、震災後に非常食の備えを厚くしました。非常食にも賞味期限がありますから、その都度、買い直して更新備蓄します。期限切れの近いモノは無駄にするわけにはいきませんから、社内配布して各家庭で試食してもらいます。今日は、配布を受けた「大豆ひじきご飯」を頂きました。お湯か水を注ぐだけ。お湯の方が美味しいのでしょうが、それでは非常食の試食にならないから、水でやってみました。水だと60分かかりますが(お湯では15分)、十分に美味しく頂けました。日本の食品技術に感謝です。

 

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 『雄勝花物語』です。