クルルのおじさん 料理を楽しむ

学園生活、その2.

平兵衛酢の花が咲いていました。昨年3月、名古屋の隠れ家のベランダで苗木を大きな鉢に植えたものです。早いモノで1年強が経過しました。花は初めて見ました。意外と可憐な花でした。神奈川の自宅では庭に直植えしましたが、そちらの方が育ちが悪いように感じます。(『平兵衛酢の苗木』(2018年3月31日付け)を参照ください。)

 

 

5月22日(水)、鯱城学園での共通講座の第二回目です。今回のお題は、「人・物・事、出会い重ねて健康寿命」、まさにこの学園の設立の趣旨そのもののようなテーマです。 中京大学名誉教授の小林義雄さんの講義です。ちなみに、このタイトルは全国生活習慣病予防協会が募集したスローガンの最優秀の入選作品だとか。

 

 

ご存じの通り僕は故日野原重明先生の大フアンです。日野原さんは、75歳以上の高齢者を”新老人”と呼ぶことを提唱して元気に自立しよう!とエールを送ったり、新老人のモットーは「愛し・愛されること、創めること、耐えること」と言い切ったり、そもそも、成人病を「生活習慣病」と言い換えたのも日野原さんでありました。お医者さんとしての知識と経験から「人は心と体と(そして)魂の三つで出来ている」と考えておられたと理解しております。

 

日野原さんのことはこのブログで何回も書いてますが、●2017年7月31日付け「日野原先生のこと」、これは逝去された時のものです。●2017年12月31日付け「感謝;スピリットを揺さぶってくれる方々へ」、そして、●2018年9月30日「日野原先生のこと、その2;讃歌」を参照してもらえれば嬉しいです。

 

 

という訳で、今回のお題については講義をお聞きする直前までは、頭のなかで勝手に、今までに読んだ日野原さん本の内容と比較しようとしている、日野原さんと比較して評価をしてやろうという意地悪な気分になっておりました。”講師の方のお手並み拝見”と構えている嫌味な聴講生ですね。ところが、講義が始まる前には、”嫌味な聴講生ではこの学園に入れてもらった意味が無い、もっと素直に拝聴しなければ”と考えるようになっていました。”少しは自分も成長したのか”と思いましたが、さにあらず。これは近くの席におられる年配の方の聴講の姿勢に感化されたものでした。年配の同期生の方。多分、僕よりも一回り以上の年長さん。園芸の専門講座でもそうですが、熱心に質問もされるし、元気な声で挨拶もされる。見ていて清々しい気分を感じさせて頂ける方です。年長の同期生から自然に教えられる、ということもこの学園の良いところだと思います。ちなみに、共通講座は鯱城大ホールで行われていますが、座席は各専門講座の固まりごとに席のブロックが指定されています。共通講座を聞きながらも、専門講座メンバーどうしが自然に交流出来るように設計されている訳です。

 

 

結論的に言えば、内容の濃い、面白くてよく纏まった講義でした。僕自身の備忘録として概要を記載します。

●講義はソクラテスの言葉から始まりました。曰く、

「夢・希望が無くて生きていることは、生きているとは言えない」

「人と触れ合わず、人と協力する素晴らしさを知らなければ、生きているとは言えない」

「人はただ生きるのでは、『善く生きる』ことが重要である」等々の言葉を引用され『出会い、触れ合いを大切にしよう』と強調されました。

●その上で、健康長寿を支える三つの要素は

①知的好奇心を旺盛に

②コミュニケーション=相手を思いやる気持ちを大切に

③運動=自分の脚で健康を勝ち取る

ことであると。この先生の専門はスポーツ科学、米国留学を基に「ストレッチ」の重要性を日本に普及された第一人者の由です。ご自分の専門分野からの経験を踏まえ「体の健康と同等ないしはそれ以上に頭=”脳”の健康が重要である」ことを力説されていました。介護が必要になった原因として従来は脳血管疾患が一番であったのが、最近では、認知症がトップになっていると。厚労省が3年ごとに行う「国民生活基礎調査平成28年度)」で認知症が18%でトップ、脳血管疾患(16.5%)を抜いたそうです。上記の①②③は、健康寿命を支える=『脳を活性化させる』!大切な三要素であるとのことです。

●長寿の里、沖縄県大宜味村(オオギミ、と読みます)の紹介をされていました。長寿日本一宣言をしている村。「老いては子に甘えるな」。村民・高齢者の意識として、”生きている限りは現役”、畑仕事は当たり前。一人暮らしの方が多いそうですが、決して孤独で無い。行事・ボランティア活動への参加が極めて高いそうです。

 

盛況のうちに講義は終了しましたが、最後まで日野原先生のことについては触れられませんでした。やや、残念でした。

 

 

前述の通り、日野原先生は「人は心と体と魂!の三つで出来ている」と言われていましたが、ちょうど、この前後に読んでいた本にこの言葉が出てきました。河合隼雄さんの「こころの最終講義」。新潮文庫、2013年(平成25年)7月三刷。もともとは1993年岩波書店刊行の「物語と人間の科学」(講演集)を改題、編集された本です。

河合さんが実際に心理療法に携わりクライアントさんとの対話の中での出来事を通じて、心、体、魂について述べている件がありました。面白いので抜粋して記載しておきます。

「人間を(見る時に)心と体に分割して見るのではない。これは心の問題だから、体の問題だからなどと言わずに、心も体も全体として人間を見ていこうとする場合に『魂』という言葉が大変に強力である。」

「人間は心と体だけでできているものではなくて、人間を全体として、”私も知らない私として”、存在させているものがある。それを魂と考えたらどうか。」

 

河合隼雄さんも、僕のブログにはよく登場して頂いてますが、改めて調べてみましたら2007年(平成19年)7月に逝去されていました。79歳でした。もう12年も経過するのですね。もっと、最近までご活躍されていたように感じておりました。沢山の著書を残されていますから、本の力ですね。改めてご冥福をお祈りします。

 

 

2回目のお弁当。前回同様、ご飯は2段重ねノリベン(ご飯→千切り焼き海苔→ご飯→焼き海苔)、4種ハーブ入りのソーセージ炒め、卵焼き(卵2個に千切り海苔を加えて。形が整わず、残念。)、絹さや。おかずは、カボチャ・豚肉炒め(黒砂糖、しょうゆ、お酒で味付け。黒砂糖を入れ過ぎた、反省。)、ミニトマトスナップエンドウ南高梅(=平成29年6月漬け込み=四国の親分に戴いたものです)。

自己評価:まずまず。見かけは今一歩ながら美味しかった。2019年5月29日、料理と撮影。

結構、「お弁当作り」というのも面白いモノですね。まだ、要領が悪くて時間がかかりますが、その分、早起きするようになっています。左のおかず入れは、神奈川の自宅にあった(かつてカミさんが子供用に使っていた)モノを拝借。

 

 

 

学園生活

体験農園”アグリパーク南陽”。僕たちの畑の手前に水田があり、この日は、近隣の地域の集まりで親子・家族の体験田植えをされていました。都会の子供達は田植えをしたことがほとんど無いでしょうから、きっと、記憶に残る体験になるのでしょうね。週末に、水やりに行った時の風景です。2019年(令和元年)5月12日、撮影。

註:写真を見る限り子供たちが余りいませんが、あぜ道には泥んこになった沢山の子供たちがいました。田植えよりも、この反対側にある水田でプラスチック板を利用した簡易ボートで水遊びをしていた子のほうが多かったのかな。

 

 

大型連休明けの5月8日・水曜日、鯱城学園の共通講座の第一回が行われました。お題は『木曽三川・今昔ーー”弧愁の岸”を行くーー』。郷土史家、林 孝之介という方のお話でした。今年度の初めての共通講座、そして、新しい年度=「令和」になって初めての講座ということで、司会の方も、講師の方も”大変に記念すべき講座になった”ことを強調されており、聞いている方も何やら緊張するような雰囲気でありました。

講義は、10:00から11:30までの一時間半。鯱城ホールが7-8割方はいっぱいでしたから出席している学園生約500名を相手に、一時間半、立ちっぱなしでの講義です。講師の方は僕たちと同じくらいのお年(昭和20年生まれとのことでした)ですから、体力・気力ともに充実された方だと感心しました。この学園の本年第一回の講師に相応しい方ですね。

 

 

お話の内容も興味深いもので、途中、睡魔に誘われることも無く、最後まで楽しく聴講することが出来ました。徳川幕府木曽三川の治水工事を薩摩藩に下命したことは以前から耳にしておりましたが、今回の講義では、そもそも、この地域の地形の説明から洪水・治水の歴史をお話され、なるほどと納得させられました。ブラタモリ的なレクチャーです。

 

濃尾平野は東高西低の地形をしているそうです。知りませんでした。木曽三川は、東側から木曽川長良川揖斐川の順ですが、一番東側の木曽川の水位は、一番西側の揖斐川の水位よりも2.4m高いそうです。この三川は多くの支流を持ち、それらが互いに連なっている。木曽川が流域面積、延長流路ともに最大。通常、降雨は西から東に移動することが多いこともあり、三川の出水は、まず揖斐川に起こり、次いで、長良川、最後に木曽川になる由。豪雨の時の言葉として「四刻八刻十二刻」というのが残っているそうです。豪雨が続けば四刻=8時間で揖斐川が氾濫する。八刻=16時間で長良川が、十二刻=24時間では木曽川も氾濫すると。「しとき・はっとき・じゅうにとき」と読むそうです。木曽川の水は洪水となれば、長良川に、更には、揖斐川に流れていく訳ですから、揖斐川=美濃の低平地は洪水の最初から最後まで、その脅威にさらされていたそうです。

 

1609年(慶長14年)の「御囲堤(おかこいづつみ)」の治水工事は家康の命によるもので、この時には、木曽川の東側に堤防を築いたと。関ヶ原の余韻が残っている時代で、とにかく尾張徳川側の農耕地を安定させる、そして徳川幕府として「西」に対する防衛線を強化することを狙ったそうです。そのため、この堤防により、それ以降の豪雨・洪水の時には、美濃側の被害はかえって増大したと。トランプ大統領の「アメリカ・ファースト」を醜いと笑っている訳にいかなくなりますね。

 

薩摩藩に「濃尾川普請御手伝」が下命されたのは、1753年(宝暦3年)の時だそうです。外様大名であり大変な勢力・影響力を持っている薩摩藩=「南海の潜龍」の牙を抜く=弱体化を狙ったものとか。薩摩では「対決か恭順か」の激論があったそうですが、薩摩藩士の本文は「島津家の安泰」であると、薩摩藩士947人が美濃に向かい、87人が犠牲になった。総責任者=担当家老の平田靱負(ゆきえ)は、すべての工事を終了し一隊が薩摩に帰任するその日に、犠牲者に対する責任を取って一人割腹したそうです。明治になり「宝暦治水之碑」が建立され、1938年(昭和13年)には「治水神社」が建立、平田靱負が祀られている由。神社には薩摩の家紋(ご存じ「丸に十」)の旗が立てられていると。

ちなみに副題の「ーー”弧愁の岸”を行くーー」というのは、杉本苑子さん著「弧愁の岸」を引用されたもの。1962年(昭和37年)の直木賞受賞作品です。

 

 

 

2019年5月12日、日曜日に、ブラっと畑に水やりに行きました。隠れ家から地下鉄とバスを乗り継いで一時間半ほど。名古屋市の東部からほぼ西の外れへの移動となります。バスの時間を勘違いしてかなり長い待ち時間となりました。バスは一時間に一本しか動いておりません。前回記載の通り、班のなかでは役割分担を決めて、水やり当番も決まっています。当面は二日に一回、当番が水やりを続ける。この日は、当番では無かったのですが、早い機会にこの農園・畑への行きかた、畑での作業手順を確認しておきたかったので(前回、植え付けをした時には、午前中に共通講座があり、その後、学園近くから専用の市バスでクラスの皆さんと一緒に行きました)。

 

一人で行ってみると、分かっていないことが沢山あることを再認識させられて面白い経験になります。この日も、バスを降りてから畑に行く道がしばらくは分かりませんでした。ウロウロしながら歩いていると、冒頭の田植えの場所に出ることが出来て、エイやあーっと直進したら運よく畑に辿り着けました。

班でやれば簡単な作業でも一人でやると何と大変なことか。二つのバケツに水を汲み、自分の班の畝のところに運んでいきます。それから、柄杓で水やり。三っつの畝に水をやるのに、何回往復したことか。”お百姓さんのお仕事はやはり大変なことだ”と、これだけのことで大袈裟に考えてしまいます。一応終了して、バケツを倉庫に片づける時に、ふと見れば、ホースが置いてありました。”授業の時の先生はバケツを使うしか方法は無いと言っていたが、ちゃんとホースがあるやないか!。これ使えば、もっと楽できるやん”と思って、疲れた体に鞭を入れ、重たいホースの束を倉庫の外に持ち出し、水溜めタンクの蛇口につなごうとしたのですが「径」が合いません。それ以上、僕の頭では対応する方法が思い浮かばなかったので、残念ながらあきらめました。

 

帰路は最寄りの地下鉄の駅まで歩きました。帰りのバスの時間をチェックするのを忘れており、バス乗り場まで行ってから待ち時間が長すぎることになるのは嫌だったので。最寄りの駅と言っても、グーグルマップで検索する限り徒歩で50分ほどかかりそうな距離です。”まあ、この辺りは今まで散策する機会が全く無かった地域やから、ちょうどエエ機会やおまへんか”と自分を騙して前向きな思考を心掛けました。

途中、南陽大橋という大きな橋を渡りました。西側が新川、東側が庄内川、二つの川を跨いで架かっています。”木曽三川”の講義を聞いた後だったので、この辺りも昔は洪水に悩まされていたのかしらと思いました。もっとも、こちらは名古屋市内を流れている川ですから、洪水懸念よりも都市の物流・水運に機能している川であったのかもしれません。地下鉄の駅は、荒子川公園駅荒子観音寺に行くときの駅かと思いましたが、そうではありませんでした。同じ荒子ですが、荒子観音寺の最寄りの駅は荒子駅。この沿線です。荒子観音寺は、円空仏で有名なところ。一度は行ってみようと思いながら、まだ行ったことがありません。調べたら、毎月第二土曜日の13:00-16:00のみ一般公開されている由。次回、水やりを土曜日にやることにして、その帰りに見学に行ってみようと思っています。

 

  

 2019年5月19日、お弁当を初めて自分で作りました。この日は、鯱城学園のクラス別のオリエンテーション。自己紹介、今後の日程・行事の確認、学園・クラスの役割を決定、クラスの記念写真の撮影。今までの数回は、近くの食堂等々でお昼を食べていましたが、ふと、お弁当作りをしてみようと思い立ちました。やはり学園生活にはお弁当が似合う!?。

第一回目のお弁当。「鶏そぼろ、炒り卵の海苔弁」。海苔は食べやすく千切ってからご飯の間に二重に敷き詰めて(ご飯+のり+ご飯+のり)、その上に鶏そぼろと炒り卵のっけ。きゅうり&竹輪とトマトを別途タッパーに。上出来でした。

 

 

休憩時間に同じ班の畑仕事熟練の様子の生徒さんに”水やりにホースを使うこと”についてのご意見を聞いたところ、ホースと蛇口の「径」以外にもいろいろと問題があると。水タンクの圧力が十分にあるかどうかが最大の問題。「多分、水圧が十分では無い。だから、先生はバケツを使うしか方法は無い、と言っていたのであろう」と。また「柄杓を使うよりもジョウロを使って散水するほうが苗木に優しい。そして効率よく、かつ、疎らにならずに水やりが出来る」とのことでした。水やりにもイロイロな知恵が必要なのだと目から鱗がぼろぼろ状態でした。この方には、ご了解を頂いて我が班の班長さんになって頂きました。

 

前回、鯱城学園の生活がスタートした様子を記載しましたが、結構、反応・関心をたくさんいただきました。僕自身、始まったばかりですが、予想以上にこの学園は、運営の仕組みがよく出来ていると気に入っております。運営のインフラが良く整備されていると思います。 

良い点の一番は、学園の運営を可能な限り自主的にさせようとしているところ。そのための仕組みがしっかりと整備されているように思います。仕組みとしては、①全員参加の共通講座。②縦の繋がりの専門講座=クラス単位での自主的な取り組みを行う。また、③横の繋がりのクラブ活動=これも学園生は全員が何れかのクラブに参加することがマストです。そして、各クラブ単位で自主的な活動を行います。面白いのは、一旦、専門講座、および、クラブを選択すると二年間、原則として異動は不可としている点。クラス、クラブをフラフラ・コロコロと変わることなく、二年間、しっかりと交流を深めてください、という趣旨だそうです。ナント、秋にはクラス、クラブ別の文化祭、体育祭もあり。また、年に二回、個別の研究成果の発表する場も準備されているそうです。

更には、④場所の繋がりというか、自分の住んでいる各地域・区ごとの括りで集まり、また、⑤時系列jの繋がりで、OB/OG会との繋がりを持つように設計されています。学園生が全体・縦・横・場所・時系列の繋がりで相互に懇親を深めながら学園生活を楽しんで過ごせるように、また、目出度く卒業の暁には、地域・区を核にして後輩との接点を持ち続け、地域貢献に繋がるように、社会参加が出来るような仕組みが構築されています。鯱城学園の開学は、1986年(昭和61年)4月。僕たちが第34期生ですから、運営のノウハウ、仕組みが上手く機能するようにブラシュアップされていると感じます。この仕組みを構築された名古屋市の職員・関係者の方々は、エライ!。拍手です。

 

「令和」の時代、スタート

久しぶりに碧南の会社を訪問しました。社友会=OB/OG会に出席。現役の役員・管理職も加わり楽しい時間を過ごしました。有難いことです。会社正門へのアプローチ横の花壇に植えられている”クルル・マーク”が例年以上に鮮やかに満開の状態でした。「クルルのおじさん」の原点です。嬉しくて涙が出そうになりました。2019年(令和元年)5月10日、撮影。

 

 

 

 「令和」の時代がスタートしました。4月30日に天皇陛下が退位され上皇に。5月1日00:00をもって「令和」の時代となり、皇太子さまが同日、新天皇に即位されました。テレビ等での街の様子では、”今年は、年末年始が2回あるようだ”とか、”年越しそば、ならぬ、元号越しそばが大賑わい”とか、「令和」を刻印した記念の和菓子、キャンディーがたくさん準備されていたり、深夜の新元号カウントダウンも派手に行われていました。10連休の影響もあり、歓迎ムード・お祭り騒ぎの中での新しい元号への移行となったと嬉しく思っています。

 

 

上皇様の天皇としての最後のご挨拶も簡潔かつ分かり易いもので「支えてくれた国民に感謝」という言葉を素直に受け止めることが出来ました。上皇様、上皇后様は、5月1日以降は、すべての公務から退かれるとのことです。明治以来では初めて、天皇上皇のお二人が存在することになるので「二重権威」を避けるための配慮がされているとのことです。ややこしい話は別にして、特に、上皇后美智子様には、一国民・一フアンとして、ゆっくりと骨休みをして頂きたいと思います。

 

 

日経新聞5月1日の記事に「令和」の解説が紹介されていました。新元号の考案者とされる中西進さん(大阪女子大名誉教授)が、「令和」の「令」は「うるわしい」という概念であると解説しています。「善」と並び美しさの最上級の言葉であると。「これと「和」を組み合わせることで、ぼんやりとした平和でなく、”うるわしい平和”を築こうという合言葉になる」とのことです。出典の万葉集の「梅花の宴の序文」は、太宰府長官の大伴旅人の作とのことで、当時、左遷され太宰府にいた旅人の「権力者にあらがいはしないが屈服もしないという気概が見て取れる」「不如意のときの見事な生き方を示している」とのことです。「令和」とともに太宰府は大変な人気で連日たくさんの方が訪れているそうです。

 

 

これ以前の4月26日の記事には、改元と新元号「令和」の意味についての海外での報道ぶりが掲載されていました。そもそも西暦とは別に元号を用いるのは日本だけだそうです。外務省が、新元号が決まった4月1日に世界各国に対して通知した文章では、元号にあたる英語は「Era(時代)」が使われているそうです。新元号の漢字の意味までは伝えなかったので、海外メディアの中で素早く報道した英BBCは「令=命令=order、それと、和=平和=peace、または、和=調和=harmony」と解説したと。

これは初めて聞いたときの僕の印象と同じでした。普通の日本語の解釈をする人の一般的な受け止め方として決しておかしくないと思います。令=うるわしい、というのはもう少しよく考えて、”そうか、令息、令嬢の令のことか”、と辿り着けばその意味が理解できるのでしょう。

政府筋は、海外での受け止められ方として「命令」という意味が強調されるのは宜しくない、という観点から、追加の説明として「令和の意味はbeautiful harmony=美しい調和」と発信した由。一定の日本語能力を持つ海外の記者さんも、この「令和」の意味は最初に耳にした時には分かり難かったでしょうね。発表から1か月、ようやく馴染んできたかと思っています。

 

 

 5月1日の即位の日は、当然ですが、新天皇、新皇后にスポットライトが当てられていました。特に、新皇后の雅子さまの表情が明るく晴れやかであったこと。車の窓から満面の笑みで手を振られていたのが大変に印象的でした。無理をして作っている表情では無かったと思います。順調に健康を回復されている証しで何よりのことだと思います。

天皇は、1960年2月23日生まれ。59歳。僕よりも10歳(学年では9歳)年下。若いといってよいのか、エエお年というべきなのか。記録が残っている8世紀後半以降の天皇では、歴代2番目の高齢即位とのことです。ちなみに平成天皇がそれまでの2番目の高齢即位=55歳での即位であった由。8世紀以降であれば、平均寿命も大きく変化しているでしょうから、これくらいの年齢での即位は全く違和感無し、問題なしと思います。

  

 

5月1日、10:30からの 「剣璽等継承の儀」には、成年・男性の皇族のみが参列。前回=平成の時と同様とのことで、女性皇族は参列されていませんでした。皇位継承の証である神器等を引き継ぐ場に女性皇族が出席すれば「女性・女系天皇の容認に転じたととられかねない」との見方があるからだそうです。成年ではない秋篠宮さまのご長男=悠仁さまは参列していなかったので、皇位継承の資格者の数の少なさが逆に浮き彫りにされたように感じました。継承の有資格者は三人のみ。平たく言えば、おじさん=常陸宮様、弟=秋篠宮様、甥っ子=悠仁さまの三人だけ。これ程少ないのは皇室典範天皇の地位は男系男子が継ぐと定められているからです。

  

 

天皇の地位の継承のことを考えていたら、うちの家のお墓のことが頭に浮かびました。お墓の継承。僕の母親の親=僕のおじいちゃんは長男ではありませんでした。当時の慣習では、その一族のお墓は長男が継承し、長男以外の男子は新しくお墓を建てるのが当たり前であった訳です(女子は結婚して婚家のお墓に入れてもらうのが筋であった)。おじいちゃんはその慣習に従い立派な墓を作りました。子供は女子二人であったため、長女(=僕の母親)には婿養子縁組をして家を継がせました。自分が建てた墓を継がせる、家系を大切にするというのが大きな理由であったかと思います。その後、イロイロあり、母親はお墓を改葬。おじいちゃん・おばあちゃんの遺骨も移しました。現在のお墓は神戸の六甲山の一角にある霊園にあります。神戸は百万ドルの夜景と称されていますが、まさにそれはそれは素晴らしい見晴らしの良い場所です。(ちなみに、改葬の手続きは僕が手伝いましたが、これは大変な作業です。二度とやりたくないと思っています。)

 

 

嬉しいことに=故人も喜んでくれていると思えて嬉しいのですが、僕の家族も、兄貴の家族も機会を捉えては墓参りに行っております。改葬した時、母親は”みんなが墓参りに来て近況を語りかけてほしい”と願っていましたが、今のところその願いは叶えられている状態。幸いに兄の子供は男子が二人、さらに、その子供=兄の孫が4人いて、そのうち3人が男子。兄が天皇とすれば、天皇の地位の継承方式を採用しても、僕の継承順位は6番目になりましょうか。当分の間は、墓参りを含め、お墓の継承も問題なさそうな布陣となっています。

 

もっとも、お墓の継承=祭祀財産の相続は、祭祀継承者というらしいですが、法律上の決まりは無いとのこと。慣習として長男が引き継ぐが、①使用権者の遺言・意向、②一族・地域の慣習、③家裁の調停で決めることが出来る。祭祀財産というモノの性質上、複数で分割するものではなく一人に引き継がれるものとされています。

そして、その墓には使用権者と管理者の同意があれば、誰でも入れてもらえるとのこと。僕は次男ですから、昔の流儀であれば自分でお墓を建てることになるのですが、新しく自分のお墓を建てようなどとは全く思っていません。母親が希望していたように一緒のお墓に入れてもらうか、しかるべき時までに周りに迷惑をかけないように決めておきたいと思っています。

天皇の地位の継承ほどの制約は無いですから気楽で結構であると思います。家族のみんながやりやすいようにしていくのが良いのでしょうねえ。まあ、年に一度くらいは、故人を偲び、先人に思いを馳せる時間を持つということは良いことではないかしら、と思っています。少なくとも、大きな負担をかけるものではないでしょう。

 

 

改めて思えば、この二日間は、皇室が話題の中心でありました。生前退位による改元というのは滅多にないことですから、たまには皇室の事をチョットは真面目に考えてみるにはちょうど良い機会であったと感じております。僕の年のせいかも知れません。日本国の有り様を皇室をベースにしてあれやこれや考えてみるのも決して悪くはなかろうと思っています。昭和から平成を経て、その間の天皇ご自身の努力もあって”国民の象徴”という言葉もすっかりと馴染んだように思います。皇室はこれからも継続されるべき存在だと思います。継続することを前提に、その為の問題点をクリアーに、ルール作りの議論をオープンにして。少なくとも、女性天皇は認めるべきではないかしら。真摯な立場での議論であれば国民の理解は得られるだろうと思うのですが。

 

 

 鯱城学園・園芸学科。「令和」とともにいよいよ専門講座がスタートしました。園芸学科講座の実質、初日です。初日から畑での実習。ピーマン、トウガラシ、しし唐、ナス(2種)を一畝に。かぼちゃ、とうもろこしをそれぞれ一畝に、それぞれの苗木を植えました。写真は2年生が育てている場所。僕たち一年生はこの写真の奥にあるまだ何も植わっていない畑を使います。ここは体験農園”アグリパーク南陽”というところです。名古屋市港区西茶屋、イオン名古屋茶屋の南にあります。撮影、2019年(令和元年)5月8日。

 

 

園芸学科のなかでは”班”単位の活動になります。僕たちの班は9名。一人当たり約0.9mx1.8mの畝を合計7-8畝を使って農園野菜を育てることになります。班全体では、0.9mx17mx7-8畝となり予想以上に広い面積!という印象です。初日に第1畝、第5畝、第7畝に植え付けをしました。写真は第1畝にピーマン、とうがらし、しし唐を植えたところ。班で協力しながら水遣り等々を行うことになります。果たして秋には??。同じく、2019年(令和元年)5月8日、撮影。

 

平成最後の日々に「梅原猛」を想う

高尾山山頂から富士山がキレイに見えました。何回も登山している方の話でも”これ程キレイに見えるのは滅多にない”とのこと。ラッキーでした。昨年、1月以来の高尾山です(2018年1月29日付けの『高尾山』をご参照下さい)。今回はカミさんと二人で行きました。前日そして結果的には翌日も季節外れの寒さと雨であったので、思い切って行ってよかったです。下山はケーブルカーでのんびりと。低い山ですが、このケーブルカーの勾配は日本で一番急な傾斜角度だそうです。2019年4月28日、撮影。

 

 

昨年12月末に『平成最後の・・・』(2018年12月31日付け)を記載しましたが、アッという間に4月末、退位の儀式の日を迎えています。 昭和から平成になった時は昭和天皇がお亡くなりになった時ですから、追悼の気分が極めて強く、その前後は派手なことは控えようとの気配が濃厚であったと思い出します。今回は、所謂、生前退位ということでお元気ななかでの退位、そして即位ですから、お祝い気分での改元という感じですね。テレビの番組でも「ゆく時代くる時代」等々、お祭りムードでの放送が予定されているようです。

 

皇位継承儀式で中心となるのは「三種の神器」のうち剣と璽(じ=勾玉)を受け継ぐ儀式だそうです。「剣璽等継承の儀」です。5月1日の10:30から行われます。因みに、三種の神器とは、

鏡=八咫鏡(やたのかがみ)・・・本体の安置場所は「伊勢神宮」、

剣=草薙剣(くさなぎのつるぎ)・・・同じく「熱田神宮」、

璽=八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)・・・同じく「皇居・御所」、

の三つです。”璽”と”八尺瓊勾玉”というのは読めませんでした。 

 

天皇の政治関与等の観点から政治・思想的にはイロイロな議論があったようですが、僕はゆっくりと時間をかけて時代の代替わりの時を迎えるというのもなかなか良いモノだなあと感じています。おまけに(今の僕には余り関係ありませんが)10連休で世の中も少しはのんびりしているようですし。お陰様で、今まで積んであった本を読む時間を心に余裕を持って楽しむことが出来ました。

 

 

 梅原猛さんは今年1月12日に亡くなられました。”93歳、大往生だった”そうです。ユリイカから追悼の臨時増刊号が出されていました。懐かしくなって買いました。しばらく積んだままになっていたのを取り出して読みました。

 

今までに読んだ梅原さんの本の中では「歓喜する円空」が一番印象的でした。名古屋に移ってからのことだったと思います。あの素朴な円空仏、それも数え切れないほど沢山の彫刻群。岐阜城に登った帰りに”これは民家ではないか”と思うような博物館・展示館にぎっしりと並べられているのを見て驚いたものです。それまで円空さんというのは認識があまり無かっただけに大変に新鮮な気持ちで接することが出来たように思いました。

日向で仕事をしている時には、宮崎空港の書店で「天皇家の”ふるさと”日向を行く」を見つけて興味深く読みました。高千穂の天孫降臨の地に足を運んだばかりの時だったので、これも大変に臨場感があり感動したことを覚えています。(この本は、平成から令和に代替わりする時、もう一度、目を通して見ようかと思っています。)哲学者というよりも実際に現地に足を運んでモノを見て日本の歴史を掘り下げた方という受け止め方をしておりました。

 

 

この特別号には息子さんが追悼の文を寄せられています。お父上=梅原猛さんは婚外児であったことを淡々と記載されています。事情があり実父の兄=本家にひきとられたそうですが、本家は愛知県知多郡内海町の名士であったことを初めて知りました。「孤独の深さ」を幼少の時から感じて育ち、中学生の時には養父から出生の真実を知らされたそうです。”「そうだと思っていたことがそうではなかった」という少年の深い傷。出産後すぐに帰らぬ人となった実母は「真理」の探究にたえず参照すべき(そして)知りえない原像として心の奥に鎮座することになったであろう”こと等々。

猛烈な勢いで本を書かれたそうです。その集中力はすさまじかったと。孤独に自閉しているどころか「人たらし」と評した人もいたほどだったと。また「泳げないのに飛び込んでいく人」と譬えた人もいたとか。息子さんの表現では「父は、そう、闇どころか、まったくポジテイブな人であった。・・。自己肯定感の強い、無邪気な人であった。」由。

上の写真はこの増刊号の表裏の表紙ですが、特に、裏表紙のお若い頃の笑い顔を見ているとまさしく息子さんの追悼の言葉を実感できるように思いました。

 

 

梅原さんは、歌舞伎、能にも大変に造詣が深い研究者です。「スーパー歌舞伎」「スーパー能」を創作したことも良く知られています。著書の中に「授業」シリーズというのがあって、その中の一つに「梅原猛の授業 能を観る」というタイトルの本があります。この本は以前に読んだ(見た)ことはあったと思うのですが、全く、記憶に残っておらず。ぶらりと古本屋さん巡りをしていたら、ビンゴ!置いてありました。おまけに、すぐ隣に「小林秀雄対話集 直観を磨くもの」という本もあったのでこれも一緒に買いました。

 

話が横道にそれますが、小林秀雄の「美しい”花”がある。”花”の美しさというようなものはない」という言葉は能「当麻(たえま)」に寄せられた批評文の一節だと思うのですが、それについてこの本のなかに何か書かれていないかなあと期待したのです。この批評文は高校の現代国語の解釈問題で結構使われていた文章であったと記憶するのですが、何やら分かるようでよく分からない。白洲正子さんの本にも記述があったと思います。分かりやすい解釈を求めたのですが、残念ながらこの本の中に記載はありませんでした。梅原猛さんの授業にも「当麻」は記載されていませんでした。改めて、現本を読み直してみようと思っています(「モーツアルト・無常という事」に収められているはず?)。

 

梅原さんの「能を観る」は大変に面白く読むことが出来ました。こんな授業を聞いたうえで、能の舞台を観ることが出来ればモットもっと能のフアンは増えるだろうと思いますね。

 

 

 増刊号のなかには、「奇人たちの遊興」と題して、梅原猛さんと白川静先生とのお付き合いのことをインタビュー記事にしたものの再録が掲載されていました。梅原さんが30歳くらいの時に知り合った由。有名な「道」という字の解釈(=異民族の生首を持って歩くという意味)を例にとり、白川さんが「漢字学」を通して新しい大きな世界観を開いたこと、フィールドワークを大切に、実証することの面白さを語られています。

自分ご自身のことについても「(酒も食事もテレビ(野球と相撲以外は)も特に楽しくない。本を読んで、考えて、そして、ものに書くというほどの楽しみはない」と語っています。僕たち凡人からするとやはり大変な人だったんですねえ。

 

 平成から令和に代替わりの日々に、日本的なモノ、天皇家、伝統・古典芸能に面白い見方を与えてくれた哲学者、梅原猛さんを偲びつつ、ややシンミリと読書を楽しんでおります。それにしても”京都”というところの面白いこと。梅原さんの「京都発見シリーズ」を読みながら、また、ブラリと散策したいものです。

 

おまけです。「上皇」の英語表記の記事が残っていました。『ボヘミアン:ラブソデイ』のアカデミー賞受賞の記事の上部に掲載されていました。日経新聞、多分、本年2月26日の記事だと思います。

 

 

交遊録・ご飯が美味しい

久しぶりに、ドラゴン先生と会食しました。ドラゴン先生は、このブログで何度も登場して頂いてますが、酒を愛し、本を愛し、植木・植物を愛し、料理を愛している方。職業柄、卒業が無い(立場上も卒業が出来ない)お仕事をされているので、まだ、バリバリの現役です。当然、お仕事も愛して(使命感を持って)やってらっしゃっているものと思っています。 嬉しいことにドラゴン先生は僕のブログの熱心な読者です。会食する時には、いつも”酒の肴”にして突っ込んでくれます。この日もいきなりグサッときました。

「庖丁を研ぐのは好きですよ、気持ちが良い、快感ですよ。慣れれば、誰でも簡単に出来ます。」

"ムムッ、あんた庖丁研ぎまでやらはるんでっか、恐れ入りました"、瞬時にして、このおっさんとの既に結構長いことになるお付き合いのことが思い出されました。

 

 

 そう言えば、「戦艦ヤマト」=中華鍋をプレゼントしてもらったのも飲み屋での会話が切っ掛けでありました。今から思えば、全くの料理初心者であった僕が偉そうにパラパラ・チャーハンの作り方を自慢げに話しした(教えてあげた)のが始まりであったと思います。その後すぐに、このオッサンは料理の腕前だけでなく本格中華鍋の扱い方=メンテの仕方を含む料理道具についても半端ない知識と技量をお持ちであることを痛感させられたのでありました。”世の中には何かにつけて造詣が深い方がいらっしゃるのやなあ、完敗、穴があったら入りたい”と恐れ入ったものです。

 

その後のお付き合いで、ドラゴン先生の知識と技量は、料理の分野だけでなく多岐に亘っていることが分かってきました。園芸についても然り。普段は仕事の関係で名古屋にお住まいですが、大垣市にある自宅の広大な敷地(これは僕の想像です。まだ、ご自宅にお邪魔したことはありません)の一角で野菜等の作物を育てたり、植木を楽しんでご自分で剪定をしたり、もちろん、平兵衛酢の苗木も育ててくれています。

 

 楽しく生活を送ることにかけて武芸百般、免許皆伝の腕前ではなかろうかと思っています。更に、この夜は、それらに加えて”庖丁研ぎ”までその守備範囲に入っていることが判明しました。 ”このおっさんは、ひょっとすると僕がこれから興味を持ってやってみようと思うことを、既に、全て自分のモノにしているのではなかろうか?!”、と畏敬の念すら覚えたのであります。

 

 

ドラゴン先生との会食の機会は、僕の卒業後の大きな楽しみの一つです。 僕が現役の時には仕事の話が中心でしたが、最近は、他愛ない話を楽しんでいます。

他愛無いことを真剣に議論する、真面目な話を他愛無くやる、くだらない話を真面目に考える。とにかく会話が楽しい。打てば響く、オモロイ時間を過ごせる。その代わり、オモロ無い話には容赦なくグサッと突っ込みが入ります。

男同士の親しい付き合いでは(でも?)、お互いを称えあいながらも、その実、意識の奥底では、自分の自慢話を相手に聞かせて悦に入ったり、たまには相手を言い負かして内心で快感を覚えたり、はたまた、自分を認めさせようとチョット見栄を張ったり、イロイロと楽しく、切磋琢磨して喜んでいるものです。偶には(滅多にありませんが)相手を慰めたり、心配したりもします。

 ドラゴン先生の方は、卒業後の僕に対して”ボケっと生きてんじゃあねえよっ”と刺激を与えてくれているようにも思います。その分、突っ込みが更にキツイくなっているのかも知れません。

 

 

酒が回るほどに、庖丁談義は盛り上がってきました。

「よく研がれている庖丁はスパッと切れる。キレイに切れたものは繋ぐと元に戻る=見事にくっ付く。ケガする場合も然り、トンッと当たると、既に、指が切れている。そこは慌てずに、切り口を繋げば、すぐに元に戻る、治ってしまう」。

「ホンマかいな。おいおい、刺身の魚くん、”お前はもう死んでいる”と言われても、よく切れる包丁で切られていたら、繋いでもらったら再生するかもよ」。

おじさんの会話も他愛のないものです。

 

 

最近の最大の対立点は、ナント食事についてなのです。ドラゴン先生は、糖質制限の食生活を実践中です。それも、大学の教授だか病院の院長だか、その筋の権威の方の正式な食事療法・指導に基づいた本格的なもの。何事にも真剣に取り組む素直(ガンコ)な性格が功を奏してか、数か月ないし一年程度の食事療法で体重は着実に減少、イロイロな数値も如実に改善していると。”動くのも楽になった、階段の二段飛びなんて屁の河童。食事もお酒も旨い、言いことづくめ”とのこと。

 

 

対する僕は、偏った食事法は体に良い訳が無いと信じているほうです。

”バランスの良い食事をするのが肝要である。そもそも、関西粉モン食文化では、糖質制限などというのは、もはや、文化的な人間の食生活から逸脱している。何を隠そう、僕は、最近、ご飯が美味しい!。この美味しさを味わえることで僕は日本人に生まれて良かったと思うほど。そもそも何か特定のモノを制限というのは、ストレスを生む。ストレスを生じない食生活が大切、腹八分目、腹六分目に全体を抑えればよい。やはりバランスの良い食事、生活が一番大事である。”

これは、僕としては絶対に譲る訳にはいかない重要な事案ですので、激戦の末、この日もドローで終わりました。楽しく歓談をしてお開き、解散。お互い、千鳥足風の軽やかなステップで家路に就きました。

 

 

その時は、開示しませんでしたが、実は、体重がやや増加気味になっているのです。話しなかったのは、もちろん、更に突っ込まれるのを警戒したから。

最近、本当に御飯が美味しいのです。

相変わらず、食事の時にはアルコールを嗜んでますから、オカズ=酒のつまみは、僕の食生活にはマストです。それに加えて御飯が美味しいので、結果的には、体重がやや増加傾向になっているのでしょう。

念のためですが、僕の体重は、過去、数年かけて着実に減少。昨年は、漸く、BMI25以下をクリアーしました。お腹も気持ち凹んだ(はずです)。今年は、更にもう一段の減量をトライ中であったのですが、ここにきて、減少傾向に歯止めがかかっており、逆に反発・上昇の気配。昨対アップが続いているのですが、まだBMIは25以下をかろうじて維持しています。ここが踏ん張りどころと思っているのですが、人に言う割には、腹八分目を継続できるほど意思は強くないもので。スミマセン。

 

 

隠れ家での食事では、「炊き込みご飯」、「炊飯器でピラフ」、「納豆と温泉たまごノッケ丼」、「ご飯と納豆のり巻き」等々を楽しんでいます。新しいレパトリーは最近余りありません。料理をやり始めた当初は、”料理が出来た!”ということ自体を感激して食べていましたが、何回も繰り返すうちに既に料理を作ることそのものの喜びはなくなっており、原点に戻って、”美味しさを追求、チョットひと手間加えて、おおっ旨い!”と感じることを追求しています(書くと大袈裟ですが、実際には大したことはやっていません)。料理といえるかどうか疑問とは思いますが、相変わらず、納豆は大好きです。欠かせない食材の一つです。ドラゴン先生との話の成り行きもありイロイロと工夫してみました。

 

 

その1.久しぶりに『黄身のっけナットドーフ』。かつてのcha師匠のアドバイスを思い出し、ビジュアル重視を試みたのですが。レタスを千切って敷き、豆腐、オカカとシラス納豆を乗せ、その上から刻みネギ、更にその上に黄身のっけ。美味しかったです。ビールにも日本酒にも合います。お腹も結構満足出来ます。豆腐の水切りを良くやったのが良かったと思います。ネギは有次で切りました。図らずも、本日は糖質制限食になりました。2019年4月18日、撮影。

 

 

 

その2.居酒屋ヒデさんの「モッツァレラチーズ冷奴風」。モッツァレラチーズは手で千切ること、生クリームをかけて冷蔵庫で一晩、寝かせること。昆布おかかとネギをたっぷりとのっけて冷奴風に。へべすポン酢で頂きました。日本酒のつまみにグーです。2019年4月18日、撮影。

 

 

その3.僕の創作。『モッツァレラチーズ冷奴風のナットチーズ』 。単に、上の二皿を組み合わせただけですが、結構、美味しかったです。これに”黄身のっけ”しようかと思ったのですが、ビジュアルに不安があり、また、チーズとの相性がいかがなものかと見合わせました。2019年4月18日、撮影。

 

 

オマケ;

ネギを有次で切っているときに指を切ってしまいました。ホントにちょっとトンって当たっただけ。”あっ、やってしもた”と思いましたが、暫くの間、何もなし=血が出てこない。その後、血が滴り落ちてきました。心臓の位置よりも指を上にして血止め。まさかとは思うものの、真剣にその個所を押さえつけて繋いでみました。確かに、今までよりも出血が収まるのが早かったように思いました。気のせいでしょう。完治するのには当たり前の日数はかかったと思います。

 

先日、スーパーで刺身の柵を買ってきて、研いでもらった柳刃を使ってみました。スッとキレイに切れました。確かに、繋げば又くっ付くように思います。その後は、バゲットを3-5㎜程度の細幅にカットするのに使いました。これは形を崩さずに見事に切れました。ちょっと炙ってチーズを載せて食べると旨いです。ワインに絶対に合います。

お魚を捌く事、庖丁を研ぐ事は、まだ、やって(出来て)おりません。庖丁を研ぐ”快感”を体験していない状態が続いています。

 

   バゲットを 柳刃で切り 悦に入り             孔瑠々

 

 

 

 

 

4月からの生活、その2.

 蓬莱寺山の登り口。ここから延々と石畳の階段が続きます。1,400段強。行きはヨイヨイ、帰りは怖い。下山時は、膝がガクガクしておりました。急に気温が低下した日で、風が強かったこともあり山歩きしている間ずっと寒い位でした。2019年3月23日、撮影。

 

 

3月23日、土曜日に山歩きに行きました。奥三河にある蓬莱寺山。鳳来寺本堂、鳳来寺東照宮、等々見どころがたくさんある700m弱程度の山です。昔の会社の仲間と。ほぼ同年配の三人組です。そのうちの一人が少し前から、造園業者(植木屋さん)に再就職していました。趣味と実益を兼ねてのお仕事。僕と同じくゴルフとお酒大好き人間なので小遣い稼ぎには結構よい仕事の由。もともとはエンジニアさん。その経験を生かして仕事を探した方が、条件的には有利な仕事があったはずだと思うのですが、彼としては”全く新しい分野に挑戦してみたかった”と。もともと好きだった庭イジリに磨きをかける為、それ以前に約半年ほど植木・剪定の講習を受講した上で、勤め先を紹介してもらったそうです。アッパレな心構えだと思います。

 

彼は僕よりは少しは若いものの既に60代中後半。勤め先は、親方と息子の二人でやっている造園業者で、親方さんはたたき上げの職人さん。年寄りの新入りに対して、全く容赦なし。初日からかなりのハードワークを与えられた由。週に3-4日の勤務ながら、当初はぐったりと疲れ果て、帰宅後、食欲もない状態であったとか。

 

仕事姿の写真を見せてくれました。もともと彼は、見ようによってはその筋の人のようにも見える痩身、精悍な顔立ち、短髪=ほぼ坊主頭です。法被姿はもう何十年ンも植木屋さんをやっている剪定のプロのようにも見受けられました。その日は、立派な一本のヒバの木を任され、一日がかりで仕上げた由。仕立て方は、僕たち仲間が見る限りでは立派なもの。「大したもんや」と絶賛したところ、親方も褒めてくれたのであるが一本の木を仕上げるのに親方は1時間程度でやってしまう。”そんなボンボンみたいな仕事してたら金は貰えへんで”と(実際には三河弁で)扱き下ろされたとか。やはり職人さんの世界は厳しい。

 

最初の親方のシゴキ方がよかったのか、最近は、親方とのコンビにも慣れてきて、リズムよく仕事が出来るようになった。親方も”結構、スジがよさそうだ”と褒めてくれるとか。今では、家に帰って、カミさんと一緒に楽しく美味しく食事と晩酌を頂けるようになったそうです。そう言えば、山歩きしている足取りも軽快そのものでありました。 

 

 

 「仏法僧 仏法僧となく鳥の 声をまねつつ 飲める酒かも」若山牧水

鳳来寺山は”ブッポーソウ、ブッポーソウ”と鳴く(と言われる)コノハズクが棲息しているので有名です。山全体が国の名勝・天然記念物に指定されている由。牧水は、僕の大好きな日向市(昔の臼杵郡東郷町)出身で、お酒大好き歌人です。下山途中の道端に刻まれていました。同じく2019年3月23日、撮影。

 

 

 

孫育てでは全くの戦力外の僕は、4月から週二回ほど、ある会社の顧問としてお勤めを再開することにしました。4月1日、月曜日に初出勤。その会社の全社集会に顔を出しました。新年度を向かえて、会長さん、社長さんからの示達があり、昇格・昇進の辞令交付式、新入社員紹介と挨拶、その後に、受け入れ出向者の挨拶がありました。最後のオマケで、年寄り顧問(僕のことです)まで紹介していただき、更に挨拶する時間まで頂きました。”新入りの立場で挨拶するのは勝手が違うなあ”と思っているところに、ツッコミを入れるのが大好きな会長さんが、この日も、待っていたとばかりに適度な茶々を入れてくれたので、挨拶の前に、二人で掛け合い漫才をしているようになってしまいました。「少なくとも皆さんの仕事の邪魔をせずに、この会社がもっと良い会社になるよう尽力したい。明るく楽しく挨拶を交わせれば嬉しい」等々、結構、真面目に挨拶をしたと思っているのですが・・・?。

  

自分の席について、事務的な説明を受けてから会社の社員食堂で昼食。丁度、新元号の発表がされようとしている時でした。「令和」(レイワ)。発表される直前の雑談の中で、僕は大きい声で「少なくとも”和”という字は入ると思う」なんてことをお喋りしていたのですが、どんぴしゃりだったので、皆さん、びっくりしていました。僕のココロは、この会社の社名の一文字に「和」が入っているので、盛り上げようと思って「和」を紹介したものでした。全くの偶然、僕に霊感はありません。

久しぶりに会社の事務所で過ごす一日。9か月ぶりのことになりますが、長年の会社勤めが体に染みついているのか、ネクタイを締めての通勤を含めて、結構、心地よく楽しむことが出来た一日となりました。

 

 

 

そして、本日。4月10日は、鯱城学園の入学式です。こちらは、本当の新入生。文字通り、ピカピカの一年生。とは言うものの周りを見渡すと、僕は年少組であろうかと思うほど。故日野原さんもビックリされるでありましょう。元気なおじいさん、おばあさんがたくさんいらっしゃいました。3月の説明会の時に、僕が”年寄り大学”と言ったら、係の人から「xxさん、”年寄り大学”ではありません。そして”年寄り”という言葉はダメです。皆さん、元気に勉強したいと思っているのです」と注意されました。”なるほど、そりゃそうだろう。「おばあちゃんとは言わせない」に通じるところがありそうだ”と納得して反省しました。

 

正式な名称は「名古屋市高年大学鯱城学園」と言います。設立の趣旨は「高齢者の生きがいづくりと地域活動の核となる人材の養成を目的として」。今回が「第34回入学式」。学長は名古屋市長さんです。ご本人自らが式に出席され得意の名古屋弁を駆使して予定時間を上回っての学長挨拶をされました。今年は602名が入学したそうです。ご来賓の挨拶では「平成最後の入学式、令和最初の新入生」とエールを贈られていました。きっと、あちこちの入学式、入社式で使われているフレーズなのでしょうね。

 

 

入学式風景です。伏見ライフプラザビルの5階から9階までが学園施設。5階の鯱城ホール=600人以上収容出来る立派なホールでの入学式です。「入学者誓いのことば」を代表の方が述べられているところ。この学園の設立の趣旨を踏まえての立派なご挨拶でした。 後ろから頭を撮ってしまうとやはり”高年大学”という印象を強くしてしまいますね(新入生のみなさま方、失礼しました、スミマセン)。2019年4月10日、撮影。

 

 

僕の選んだ専門講座は、ナント、「園芸」なのです。僕は鉢植えの観葉植物を育てたり楽しんだりするのは好きなのですが、畑仕事の経験は皆無。野菜を育てたことも無し。庭の手入れもちゃんとやったことはありません。気が向いたときだけハサミを入れたりしますが、切ったら切りっぱなし、一番タチが悪い作業ぶりだったと反省しております。

 

この講座では、座学だけではなく学園が提携している専用の農園、畑で実習が出来るようになっていて、屋外での活動がメインになるようです。野菜作りもあれば、樹木の剪定ももちろん有り。そして、この講座では、チームで作業をするので、自分が都合悪く世話を出来ない時でもクラスメートがカバーしてくれる。チームで助け合って秋の収穫を向かえることが出来るとのことです。説明会で「自分で育て、自分で収穫した野菜を味わうことが出来ます。格別な味がしますよ」とのお話を聞き素直に胸を弾ませているところです。

 

樹木の剪定も授業に入っています。今から、二年で、どれだけの技を身に着けることが出来るものか。冒頭の造園業者に勤める彼とは、技量の差は歴然だろうなあ。あちらは給料もらって仕事するプロ、こちらは授業料払って勉強するアマ。これから二年間でその差は更に拡大するのでしょうね。二年の後、彼の足元くらいに追い付いていれば嬉しいのですがねえ。

 

オマケ;名古屋で一番旨い焼き鳥屋さん。錦三のやや外れにあります。細い路地の奥、カウンター席のみ。詰め込まれても10人チョットしか入れない広さ(狭さ)。親父さんの焼き加減はこれぞ職人ワザ、とにかく旨い。僕は、最近、職人ワザに関心が高いのです。この店の常連で、わざわざ知多半島の先から定期的に食べに来ている方にこの日もすっかりご馳走になってしまいました。感謝です。2019年4月10日、撮影。

 

庖丁を研ぐ

 おじさんに研いで頂いて、生まれ変わった庖丁です。小出刃と柳刃。本文をご参照ください。2019年3月26日、撮影。

 

 

このブログで庖丁のことは何回も書いていますが、2018年8月20日付けの『京都、送り火』で一大決心をして「有次」の庖丁を買ったことを記載しました。昔から親しくお付き合いしている方がそれを読んでくれて、”使っていない庖丁がある。立派なものだから使ってもらえるなら譲ってあげる”と本当に立派な庖丁を頂戴したのです。出刃、小出刃、柳刃(刺身)、薄刃(野菜)の四本セット。鞘がついていて銘が刻まれている由緒ありげな庖丁です。ただし、かなり長い間、手入れされていないのでサビが出ており、また、若干ながら刃こぼれがある状態でした。僕は自分で包丁を研ぐワザを持っていないので、使ってみたいと思いつつも、そのまま神奈川の自宅でお蔵入りとなっていました。

 

 

名古屋の隠れ家から最寄りの駅に出る途中に昔ながらのタバコ屋さんがあるのですが、二ヵ月ほど前のある日、そのタバコ屋さんの駐車場(車は置いていなくて、鉢植えの植木、花をキレイに飾ってあるスペース)で庖丁を研いでいるオジサンがいるのを見かけました。タバコ屋のおじさんと世間話をしています。「有次」を買って以来、庖丁を研ぐことには関心を持っていましたので、立ち止まって研ぎの作業を見ながらオジサンたちの会話を聞いていました。月に一回ほどはこの場所に来て”庖丁研ぎ”をしているらしい。若干の心付け程度の料金は取っているようですが、ほぼボランテイア活動として庖丁研ぎをされているような印象を受けました。僕と同じような年回りの様子。急いでいる時ではなかったので僕も世間話に入れてもらいました。

 

 

本職は刃物屋さんではなくて、電器会社(電話会社だったかな?)に勤務されていた方でした。とにかく、昔から刃物・庖丁を研ぐことが大好きで、周りから変わった趣味を持っているヤツだと言われてきた由。退職後に縁があってこのタバコ屋さんと知り合い、この場所で庖丁研ぎをやるようになった。

「料理をするのが好きだから、庖丁を研ぐのが好きになったのですか?」とお聞きしたら「自分で庖丁を使って料理をするのが好きなわけでは無い」とのことでした。”確かに変わったオッサンや。よおやっとるなあ。”と思いましたら、

「最近、世間では庖丁を研ぐ人が少なくなってきている。自分が庖丁研ぎを引き受けると、近所、地域の方が大変に喜んでくれる。それが嬉しいから続けている」とのこと。近頃では、かなり遠方の方が話を聞きつけ、庖丁を持参して研ぎのお願いに来たりするようにもなっている由。確かに、横の棚を見ると結構な本数の庖丁が新聞紙に包んで置いてありました。

「皆さんが”(やって頂いて)助かります!”と喜んでくれるのが励みになります。自分の居場所がここにあるようにも感じられますねえ」と大変に素晴らしいコメントを頂きました。

 

 

3月の庖丁研ぎの日は、僕が隠れ家にいる日でありました。事前に自宅から庖丁を隠れ家に持って来ておいて、その当日には開始早々に四本の中から二本の包丁を持参して研ぎをお願いに行きました。幸い、他に人は居なかったので、おじさんの斜め横に座り込んで見学しつつ研ぎの勉強をさせてもらいました。約一時間、メモを取ったり、おじさんの許可を得てスマホで録画したり、真剣に家庭科実習の授業を受けたと言ったところです。

 

 

和庖丁は、右手で持って構えた時、上から見て右側が表です。表面は湾曲しています(知りませんでした)。その湾曲の度合いに応じて、おおよそ、1/3づつを均等に研いでいく。手前から先に押し出すように研ぐ。手前に引き戻す時は砥石に滑らせているだけ。特に初心者は押す時にだけ研ぐことを心掛けるべし。

このおじさんの流儀で、初めて研ぐ包丁は荒研ぎ(あらとぎ)に時間をかける。研ぐ人のクセがありバランスが悪くなっている庖丁が多いので、それらはその時点で修正しておく必要がある。また、錆が出ていたり、刃こぼれが酷い物も、荒研ぎを丁寧に行う必要がある(恥ずかしながら僕の持参した庖丁がその状態でしたので丁寧に解説してくれたように思います)。しばらく研いで”カエシ”が出てきたら裏を研ぐ。裏面はフラットです。砥石全体を使って。表と違って押すのではなく、手前に引いて研ぐ。裏はあまり長い時間、多くの回数を研ぐものではない。無駄に鋼を減らすことになってしまう。指先がセンサーである。また、研いでいる時の砥石と庖丁の抵抗の強弱をよく感じながら研ぐ。危険防止のための注意点等々も親切に説明してくれました。最も、当日、ご本人は不注意で指を切っており「これが悪い見本です。たまには猿も木から落ちます。トホホホ」とニコニコとコメントしていました。結構、剽軽なおじさんです。

「キレイに研げた時には、抵抗がスッーと無くなることを感じられるようになる。自分はこの時の達成感が堪らなくスキで、それで庖丁研ぎをやっているのかも知れない、云々」と。本業の職人さん以上に、職人さん気質を持たれた含蓄のある教えの言葉でありました。

  

 

荒仕上、仕上げをして頂き、あっという間に出来上がり。新聞紙を取り出し、試し切りです。スーッと切れるのに驚いたのですが、ご本人は「いやいや、これではお金を貰うレベルではないのです」と。もう一度、仕上げの研ぎをされました。改めて、新聞紙を取り出して試し切り。「音が違いますよ」と。確かに、最初の時は若干ザラザラと切れたような印象を受けたのですが、今回は、それこそ音も立てずに庖丁の重さだけでスーッと切れていく様な切れ方です。再度、驚き。”職人さんのプロのワザや!これは凄い!”。隠れ家に戻り、写真を撮りました。冒頭の写真です。

 

 

庖丁の鋼は、柔らかい程よく切れるそうです。その代わりチビルのも早いと。有次さんの話をナルホドと思い出しました。 

 庖丁を一本、研ぎ潰すぐらいの気持ちで研いでみればコツをつかむことは出来るそうです。砥石は、ホームセンターで売っているモノで、とりあえずは十分とのこと。最低、二本は必要。荒研ぎと仕上げと。出来れば、三本は持っておきたい。「ご自分でやってみて上手くいかなかった時には、ここに持ってくれば、キレイな状態に戻してあげるから、心配しないで練習してみてください」と誠に温かいお言葉。この日に持参しなかった残りの二本、出刃と薄刃を自分一人でトライしてみようという気持ちに”今は”なっているのですが、果たして出来るものかどうか・・・?。

 

 

「この包丁は良い庖丁ですよ」と最後に褒めてくれました。「吸い付くように切れるはずです。この柳刃を使えば美味しく刺身を引けます」とのこと。”吸いつくような切れ味”というのは、僕も有次で感じるところで合点がいくのですが、それは、専ら、肉・野菜を切っている時の感触なので、やはり刺身を引くというのは、庖丁もさることながら、腕前・技量の差が大きいのではなかろうか。相変わらず、魚は捌いたことが無い、全くの素人の料理大好きおじさんなので、不安が先に立ちます。

思い出して、初期のブログ、2017年6月11日付け『庖丁』を見直しましたら、ナント偉そうに、庖丁の持ち方、握り方を解説していました。いま読み直すと恥ずかしい限りです。また「有次と庖丁」の本の紹介をしていて、「割烹=割は庖丁で切る、烹 は煮る」ということだと自慢して記載していました。「魚を捌いて、刺身を引いて」は今でも、やったことがありません。今度こそ、トライしてみよう。 それにしても、何種類もの庖丁を用途別に持っているとは、改めて日本料理の奥深さと繊細さを感じております。

 

 

こんな事を記載していて、また一年経過しても、やはり、柳刃包丁バゲットを薄く切る時に使っているだけだったら僕は一体どうしたらよいでしょうねえ。

 

 

 神奈川の自宅の桃の花がほぼ満開です。お世話になっている先生が無事に赤ちゃんをご出産!。本当にキレイな女の子。最近では珍しいと思いますが「子」を付けられ「桃子」ちゃんと名付けられました。ついつい桃の花の写真をメール添付してお送りしてしまいました。2019年3月28日、撮影。