クルルのおじさん 料理を楽しむ

台所俳句

小川軽舟さん著『俳句と暮らす』という本があります。中央新書、2016年12月25日発行。本屋さんで立ち読みをしていてパラパラと頁を捲ると、第一章の最初の頁に,

●レタス買えば毎朝レタスわが四月 軽舟

という句があるのが目に入りました。「おお、これは僕と感性が近しい方に違いない!」この句を見て即買いました。この方は俳人ですが、同時に単身生活のサラリーマンです(であった。過去形かも知れません)。1961年(昭和36年)生まれですから、僕よりも一回りほどお若い方。俳句雑誌「鷹」で藤田湘子に師事。湘子の逝去に伴い「鷹」の主催を引き継がれたそうです。

「俳句は日々の生活から離れた趣味の世界としてあるものではない。日々の生活とともにあって(中略)その大切な思い出を共有することができる仕組みである」という考え方をされています。それで本の題名も『俳句と暮らす』とされた由。読者にも「俳句と暮らす」生活を提案されています。

宣伝の帯には「平凡な日常をかけがえのない記憶として残すための俳句入門」と書かれてますが、筆者は「記憶を残すため」以上のものを俳句に対して持たれていると評価したいです。

 

第一章は「飯を作る」。単身生活、自炊=料理と僕が興味を持っているテーマですのでそれこそ一気に読みました。僕の感じていること、また、言いたいことと一致していることが多かったので嬉しくなります。それをサラッっと文章になさっている。さすがにプロの俳人。表現が適格だと思います。第一章だけでなく、それ以降の各章も大変に面白かった。僕の言いたいことをすっと心に入ってくる言葉で書いてくれているような気がするくらい。思わず「そうなんや、それを僕はいいたかったんや」と膝を打って感心しました。

 軽舟さんは「自然な流れ」で自炊の生活に入って行かれた由。「私は料理を趣味とする者ではない。『男の料理』という言葉が今一つ苦手である。私の料理は自分の好きなモノを食べるためのもの」と。そして「その生活を新鮮に感じることができるのが、俳句のおかげ」「台所に立つようになり、季節との出会いが更に新鮮に感じられる」とのことです。羨ましいほどに素晴らしい感性を持たれているのでしょう。

また「面倒が高じて自炊が嫌になってしまわない」工夫をされています。「食材に興味を持つ、買い過ぎない、洗い物を増やさない」。掲題句はその精神に沿ったものと。材料は買い過ぎはしないが「覚悟を決めてまるまる一個買うのが王道だ」とおっしゃってます。若干の流儀の違いはあるものの考え方を共有できる。これは同志だと感じました。俳句の感性、言葉の感性には羨ましさを感じますが、単身おじさんの俳句と自炊の生活に拍手を送りたいと思います。

 

俳句の世界に「台所俳句」という言葉があるそうです。高浜虚子が女性の「雑詠(ざつえい)」を募ろうと工夫した。当時、女性は只々家の中にいて家事に専念するのが当然という時代ですから、女性に雑詠させようというのは「開明的な発想であったもの」だそうです。「ホトトギス」に「台所雑詠」の欄を設けた。大正5年です。「具体的な題が例示されている。例えば、台所、鍋、七りん、俎板、水瓶・・・灰神楽、煮こぼれ、居眠り、下働き、お三」と題を見るだけでも時代が感じられます。主婦が台所仕事に一日のかなりの時間を費やしていた時代。台所仕事=女性・主婦の一日という構図ですから「台所俳句とは女性が日常そのものを詠む、ということであった」。時代の流れを俳句で紹介されています。台所仕事が大変な大正の時代から年号が変わり昭和になると、

●秋雨の瓦斯が飛びつく燐寸かな 中村汀女 (昭和10年作)

「苦労して薪や炭を焚かなくても簡単に煮炊きの火が得られるガスの便利さとなった」。これが更に平成になると、

●朝ざくら家族の数の卵割り 片山由美子

「もはや女性が台所に押し込められていた時代とは全く違う。『台所俳句』というレッテルから自由になった時代の句に」なっていると俳句を通じて台所の歴史を解説されています。確かに台所仕事が主婦のムチャクチャな負担であった時代は遠い昔になっていることが俳句から感じ取れます。

 

一方、「『男子厨房に入らず』という戒めの時代は変わった」。ダンチュウが普通の日常になっていますが、筆者によると、それにも拘らず男性による台所俳句の成果は意外と乏しいらしいです。台所を重要な生活の場と認識されている筆者は、そのことを残念に思っています。僕はこの本で「台所俳句」という言い方を初めて知ったくらいですが、料理を楽しみたいクルルおじさんとしては、確かに、元気が出るような、ほんわか気分をもらえるような台所俳句に出会えれば楽しそうに思います。面白いと思った句は、

●オムレツが上手に焼けて落ち葉かな 時彦

筆者が「男の台所俳句の先輩として私淑する」のが草間時彦。「俳句の取り合わせ(配合)で広がりと奥行きのある情景」を評価しています。

●春めくや水切り籠に皿二枚 軽舟

筆者の句。皿二枚ですから、久しぶりに奥様が来られた時と読めばいいのですかね。夫婦の間合いについても中々適格なコメントがあります。後述します。

 

ところで、2016年は日本の「エンゲル係数」が29年ぶりの高水準になりそうとのことです。食品価格の値上げが一服したあともエンゲル係数は上昇している。人口構成の変化、ライフスタイルの変化が背景だという解説です。高齢者の増加、食のレジャー化で「食の外部化」が進んでいると(2017年1月26日、日経)。消費支出に占める飲食費の割合は増加しているが、素材を買ってきて台所で料理することは相対的に減っているということのようです。台所俳句の観点から言えば、台所に立つ機会そのものが減少している訳ですから、ますます成果を期待するのは難しくなっているのかも知れません。大きな括りで言えば、食の俳句、食べ物の俳句というのは存在してますから、その中の「台所俳句」というのも是非ガンばって欲しいモノです。

 このまま書いていくと際限が無くなりますので、以下、印象に残る句と筆者の感性が感じられるところを抜粋します。

 

第三章は「妻に会う」。「単身赴任者にとっては妻とは『会う』もの」。奥さんが「鞄に一泊着替えを詰めてやってくる。(台所に立ち)何度も台所道具や調味料の場所を聞いてくる」「相手と過ごすのがいやなわけではあるまい。ただ、一日中一緒にいるのはちょっとしんどい。自分の知らない時間を過ごした夫に、あるいは妻に会うのが新鮮でたのしいのだ」。奥さんとの間合いをこう書けるのは凄いなあ、と感心します。

第四章「散歩をする」。いい表現がありました。「前に進み続ける時間がある一方で、四季をめぐり循環する時間がある。」これは良い言葉ですねえ。「俳句が季語を必要とする理由。俳句は、その時間の交わりに生まれる詩だから」と。

第五章「酒を飲む」。師匠である藤田湘子の句、

●君達の頭脳明晰ビアホール 湘子

先生が弟子たちとビアホールで楽しく飲んでいて詠んだ句だそうです。関西風にチョットいじくって遊び解釈をすると、「お前らはビアホールでビール飲んでる時だけは頭脳明晰やなあ。ようこんなアホの弟子ばっか集まったもんや」と楽しく嘆いているような。川柳ですかね。茶化してどうもすみません。蛇足の注釈、湘子先生は男性ですから、念のため。

そして本の最後の方には、味わい深い句が出てきます。

●死ぬときは箸置くように草の花 小川軽舟

 

俳句を詠んでみたいと感じたのは、吉田拓郎の「浴衣のきみは ススキのカンザシ 熱燗徳利の首つまんで (中略) ひとつ俳句でもひねって」を聴いた時かも知れません。あの怒鳴り狂って歌っていたた拓郎がこんな唄を歌うなんて。拓郎の影響力は凄かったのかも。いまの拓郎さんに「台所俳句」の唄を作ってもらうのも面白そうですね。僕もボケ防止を兼ねて乏しい才能を掘り起こして台所俳句に挑戦してみようかしら。もっとも、『ごちそう様が聞きたくてvs単身おじさんの朝ごはん』で書きましたが、自分が食べたいものを食べるための料理だけでは、気の利いた・面白味のある俳句は生れてこないのかも知れませんねえ。独りよがりというのはやはり面白くない。料理を楽しむ=台所を楽しむ「台所を詠む」ということになるとやはりその対象が必要なのかも知れません。ニンゲンは一人では生きていけないもののように思います。

 

 

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 お気に入りのお皿と小鉢、宮崎県一ッ葉焼。反対側(裏から)見ても同じ模様が見えます。