クルルのおじさん 料理を楽しむ

ドリアン

マレーの物語, 三部作で完結と考えてましたが四回目になります。お付き合い下さい。

 

ジョホールバルでは一軒家の大きな家に住んでいました。現地では高級住宅地の一角にあります。門から玄関までちょっと登り坂になっています。家の前の道路の向こう側は海に面している。海の向こうはシンガポール。一階は、洒落た応接間に台所、食堂。それにアマさんの部屋(住み込みのお手伝いさんの部屋=倉庫部屋)、風呂、トイレ。二階には大小の部屋が三つ四つありました。アパートまたはマンションという選択もあったのですが、あまり設備が良いモノがなかった(我々が帰国する時期になると、新しい立派なマンションの建設ラッシュになっていました)。広い庭。現地ではどこにでも植えられているハイビスカスとブーゲンビリア。裏庭には、バナナの木もありました。丁度、長男がバスケットボールに興味を持っていた時だったので、庭にバスケットボールのリングを一つ作ってもらいました。日本の公園によく置いてあるワンオーワンが出来るイメージです。

 

家の庭の排水溝にはイグアナが住んでいました。ある朝、家でのんびりしている時に今から庭を見て発見。ビックリ仰天。子供たちも呼んで、皆で居間のガラス越しに見物。僕もこの種の動物は全くの不得意ですが、家族も同様に大嫌いでした。怖がっていましたが、物珍しさもあって長い時間見ていました。「イグアナはネズミを食べてくれる。ニンゲンは大きいからイグアナがニンゲンを恐れている。人間を襲うことは無いから安心しろ」と子供たちに説明しましたが真偽のほどは定かではありません。近所に日本人家族が住まれており、こちらは動物大好きのご家族。爬虫類系も好きで、家の居間をトカゲ、カメが散歩しているような。一度は、イグアナを鶏の肉でおびき寄せ捕獲して家のお風呂場でしばらく飼っていたとか。同じイグアナであったのかどうかは全く分かりません。

 

 ドリアンという果物があります。マレーシアでは果物の王様と呼ばれています。マレーの皆さんは、マレー半島が原産地とおっしゃってます。マレー系・中国系・インド系を問わず嫌いな人はいないのではないかと思います。

ジョホールバルの町では、道路沿いの露店とかリヤカーに乗せて良く売っていました。熟して食べごろになると自然に硬い殻が割れてくる。この頃になると特有の強烈な臭い(におい)がします。香りではなく、はっきり言えば臭い(くさい)。腐敗臭のような臭い。よくこんな臭いのものを食べるものだと思うくらい臭い。当時は、日本では出回っていなかったので食べたことはありませんでした。最初に食べる時には勇気がいります。まだ、家族が来る前に、駐在の先輩から「騙されたと思って食べてみろ」と勧められ食べさせてもらいました。

露店のおじさんに食べごろの美味しいものを選んでもらいます。その場で、彼が大きな包丁=ナタのようなもので殻を大きく割ってくれます。殻を割ると中には果肉が2個か3個入っている房が五つほど並んでいる。大胆に手掴みで食べるとクリーミーな美味しさ。濃厚な味。栄養満点と感じる食感。「これが本格的なドリアンの食べかたや」と先輩。臭いので家に持って帰る訳にはいかない。殻を割っていったん実を取り出してしまうと結構早く果肉の張りがなくなってくる。露店で割ってもらったものを手掴みで食べるのが通であると。初めて食べたドリアンが食べごろの美味しいものであれば、ほぼ、間違いなくドリアンのフアンになるそうです。

 

その後、家族が一緒になってから、ソウさんが自分の家の近くにあるドリアン農園でドリアン祭りをしてくれました。農園といってもドリアンと言うのは20mから30mにもなる大きな木です。この大木の枝に30㎝くらいの実がたくさーん頼りなくブラさがって生ります。熟すると自然に落ちてくる。実の外側は、固いトゲトゲ、イガイガの殻で被われていますから、もし、人が歩いている時に落ちてきたら大変なことになりそうですが、ヒトの頭の上には落ちてこない(と信じられています)。ドリアンが落ちてきてケガをしたという人はいないそうです。この日は、会社の現地の社員・家族も集まって、お互い気兼ねなく、あちこちに陣取ってドリアン祭り=ドリアン食べ放題。ドリアンだけでなく、それ以外の果物、簡単な軽食、飲み物も準備してくれていますが、やはり、ドリアンが一番人気。皆さんドリアンに挑戦しますが、これは濃厚なだけあって、3個か4個の果肉を食べればお腹がいっぱいになってしまう。丸ごと実全体に挑戦する若いのもいるのですが、ほぼ全員途中でギブアップ。お腹がいっぱいになってしまう。

いつも通り、缶ビールを開けて一口飲み始めたところ、現地の皆さんが「ドリアンを食べる時にはビールを一緒に飲むのは止めた方が良い=危険である=死ぬ時もあるという話を聞いたことがある」と言います。僕はモノを食べる時には(アルコールを)飲むのが習慣になってる人種でしたから「そんなことはあり得ないだろう」ともう一口飲みました。が、そんな話を聞いてしまったからか、いつも程のペースでは飲むことが出来ません。濃厚な果物で、食べた後の膨張感が強くお腹がパンパンに膨れるので、ビールには合わない果物だと思います(まあ、ビールに合う果物というのもあまり聞いたことが無いですかね)。ちなみに、ドリアンはホテルへの持ち込み、飛行機の機内への持ち込みは固く禁止されています。僕の家族は、ドリアンも美味しく食べていましたが、ライチとか、ランプ―タンとか、マンゴスチン(これは果物の女王と言われてます)とかの方が好きだったかも知れません。

  

駐在して三年目になるチョット前に、イロイロ事情がありシンガポールに引越しをしました。会社は変わっていませんから、僕は毎日ちょっと早く起きて、シンガポールから国境を越えてマレーシアに、ジョホールバルを通り越してパシールグダンにある工場に通勤です。愛車トローパーは大活躍、よく走ってくれました。両方の国のイミグレを通る時にはパスポートにスタンプを押しますから、増刷してもパスポートは2-3か月に一度は更新する必要がありました。その内に、確かシンガポール側であったと思いますが証明書を見せればスタンプ不要と便利になりました。

子供たちは学校が近くなり喜んでいました。それまでは、放課後シンガポールの友達とは一緒に遊ぶことが出来ませんでしたが、遊ぶことも出来るようになりました。また、みんなが通っている塾にも通えるようになりました。友達の数も増えたのではないかと思います。

 

通勤途上は、もっぱら、車のラジオの英語ニュースを聞いていました。ラジオはつけっ放しの状態。発音が分かりやすいアナウンサーとそうでもない方と。また、ローカルなニュースが多いようで聞いていてもよく分からないことが多かったです。ある日、アナウンサーが興奮気味に話しています。

ガーガー、コーベ、ジャパン、アスクウエイク、デザスタラス、ガーガー、と繰り返し。「ちょっと待て、もうちょっと落ち着いて喋ってくれ、神戸、地震、なんやてえ」これは大変だ、神戸に地震だ、それも大きな地震のようだ。会社に着いてから、すぐに情報収集しましたがよく分かりません。手分けして日本の本社、個人の留守家族と連絡を取るようにしました。関西方面は一切電話が通じませんでした。

 

阪神淡路大地震、1995年1月17日、日本時間5:46。会社との間は早い時間に連絡が取れましたが、本社側も大混乱の状態。イロイロなルートを駆使して駐在員の留守家族の安否を確認しようと焦りました。関西方面に住んでいた方が多かったのですが、なかなか連絡がつきませんでした。僕の母親も大阪で一人暮らしでした。シンガポールのカミさんが池袋の実家に連絡を取って、そこから電話をしてもらいましたが、なんとか無事であることの確認が出来たのは午後になってからであったと思います。僕の家族・親戚では、兄の嫁さんの実家が神戸市須磨区でしたからモロに被害を受けましたが、幸いなことに皆さんの無事が確認出来ました。駐在員の留守家族・親戚でも最悪の事態だけは無かったことが確認出来たのは夕方になっていました。その日は定時に仕事を切り上げて早めに家に帰りました。

シンガポールの家のテレビ、新聞で見る地震の状況は想像以上でした。僕は大学が神戸だったこともあり、知っている場所が映されていましたが、全く、声も出ませんでした。

 

 シンガポールに移ってからは、家族でドリアンを食べる機会は無くなったように記憶します。ジョホールのように道路沿いで売っている景色も無かったように思います。シンガポールでは二年ほど生活しました。僕は二年間ほど国境を越えた通勤をしたことになります。ほぼ四年間の駐在を無事に終えて1996年の秋に帰国しました。

 

f:id:hayakira-kururu:20170524103746j:plain

 きょうの料理、2007年4月号=50周年記念号。それから10年、2017年4月号=60周年。同じく、きょうの料理ビギナーズの創刊号と10周年記念号。僕の料理歴そのものです。