クルルのおじさん 料理を楽しむ

読書三昧;”頭休め”vs『ホモ・デウス』

次女の長男=僕の初孫、現在、4歳2か月。彼が世に出した記念すべき第一作です。タイトルは「自画像」。特徴をよく表現出来ていて驚きました。爺バカの典型で”末はピカソか!”と喜んでおります。それにしても、彼の世代が見ることになるであろう次の世紀は、どんな世の中になっているのでしょうねえ。2019年1月、次女撮影。

 

 

”読書の達人”のお友達から、五木寛之さんの「知の休日---退屈な時間をどう遊ぶか」という本を頂きました。集英社新書、1999年12月第一刷、2005年4月第11刷。ちょうど『ホモ・デウス』でお腹がいっぱいの時だったのでのんびりと読ませて頂きました。(『ホモ・デウス』は1月10日付けの『サピエンス全史』、1月20日付けの「ちょいと良い話、その2.」を参照ください。)

 

 

面白いもので、僕の気持ちを寛之さんがいきなり忖度してくれていました。「はじめに」の章で、寛之さんが読者からのコメントを紹介しています。「いつも面白く読ませてもらっている」「あなたの本は、”頭休め”にはもってこいの内容だ」。ご本人は”やや引っかかるところがないでもない。でも、よく考えるといいところをついている”と懐の深い受け止め方をしてらっしゃる。僕もちょうど”頭休め”の本を欲しておりました。本との出会いとは面白いモノだと思います。ちょうど良い時に巡り合うものです。

 

 

寛之さんの解説では、”頭休め”とは心身の緊張をゆるめること、しかし、ゆるめきってしまう=だらけることとは違う。要するに「緊張のしすぎは困る、といって、ゆるみきってしまうのは、もっとよくない」というものでした。同感です。

 

タイトルの「知の休日」の「知」という字には「ココロ」と振り仮名をふっても良いし、「アタマ」と読んでもよい、と。本の帯には「頭と心に心地よい刺激を与える、新しい緊張感のある休日の提案の本」と宣伝されていました。このところは、ご本人が、本文のなかでもっとうまく表現されてます。

曰く、

「この本で紹介するのは、読者のひとり一人が勝手に自分流のやり方を発見するためのサンプルにすぎない」。そして、高光大船さんの言葉、「人の手本にはなれんが、見本ぐらいにはなれる」を引用されております。

寛之さんの”頭休め”の工夫が一杯詰まった本で、本文構成は「xxと遊ぶ」という流れになっています。第二章以降、「体と遊ぶ」「アートと遊ぶ」「車と遊ぶ」「声と遊ぶ」「靴と遊ぶ」「夢と遊ぶ」「何とでも遊ぶ」と続きます。

もちろん、第一章は「本と遊ぶ」。

”一冊の本の中の一行が頭に残るのは、何気なく読んだ言葉が、錐をもむようにこちらの魂に突き刺さってくるときである”。

”声に出して読む。漱石や鴎外の作品などは、声に出して読めば、いままで感じられなかったことが体で感じられる”。

文筆家の方のこういう表現は凄いなあ、と感じます。寛之さんの頭休みの工夫は、”面白くやる、ワクワクしながらやることが基本”になっていることを理解することが出来ました。

 

 

散歩がてらに近所の図書館に行きました。1月29日に橋本治さんが死去されており、彼の大のフアンである ”読書の達人”のお友達から追悼のメールをもらいました。恥ずかしながら全く読んだことのない方でしたので、図書館で作品を探してみようかと。亡くなられて貸し出しが増えているのか余り沢山の蔵書はありませんでした。「巡礼」という小説と「大不況には本を読む」という新書本を借りました。寛之さんの棚を見ると「人生の目的」「こころ・と・からだ」というのがあったので、これもついでに借りました。寛之さんには”ついで”で申し訳ありません。

やや体調が悪かったので、外出を控えて、隠れ家でノンビリと”頭休め”を続けようかと。三日ほど読書三昧でした。

 

肝心の橋本治さんの本ですが、「巡礼」は頭休めには余りある重たいテーマでした。独特の節回しのようなものも感じられて面白かったですが、まだ、治さんの良さがピンと来ていないかも。やはり、次回は彼の代表作、面白そうな作品、「『三島由紀夫』とはなにものだったのか」とか「小林秀雄の恵み」を読んでみたいと思います。お友達の案内で内田樹さんのブログを覗いたら、あの樹さんが「橋本治さんへの追悼」記事を何回にも分けて載せていました。影響を受けた三人の中のお一人に挙げており、この三人ともが逝去されたことを残念に思っている旨を素直に記載されておりました。改めて橋本治さんのご冥福をお祈り致します。

 

 

それにしてもハラリさん、です。”頭休め”の読書三昧で、ココロ、アタマ、魂、ワクワク、感じること、気持ち、という言葉が出てくる度に『ホモ・デウス』に戻ってしまいます。言葉ではなく、本そのものが、グサッと突き刺さっているような。

 

『サピエンス全史』には、生物のチャンピオンになった人類が将来「自然選択の法則を打ち破り、生物学的に定められた限界を突破する」危うさが書かれていましたが、『ホモ・デウス』では、更に突っ込んで「人間は心と体をアップグレード、神のヒト=ホモ・デウスに自らをアップグレードする」「テクノロジーは人間の手に負えなくなる」可能性が書かれています。それも大変に具体的に、臨場感のあるタッチで。

 

「人間の頭脳には、知能と意識、がある。知能は問題解決に、意識は喜怒哀楽、感じること。人間は両方を補い合うが、AIは知能のみ。問題解決には最適であるが、意識=感情、主観は無い」という見方は変わってはいないと思いますが、AIとバイオ・生命科学の急速な進歩により、特に「生物学者が”生き物はアルゴリズムである”と結論付けた途端、生物と非生物の間の壁は取り崩され、コンピューター革命は機械的なものから、生物学的な大変動に変え」たとの見方です。

意識というものの解明はまだ十分には進んでいないとのことですが、「生き物はアルゴリズム」であり、「生命はデータ処理」であるというのが既に科学界の定説になっている由。「人間の心や意識は、脳のなかでニューロンが信号を発し、データを処理しているだけである」「意識や意思を持った”私”でさえ”虚構”なのだ」「AI=人口知能が急速に発展し、あなた自身よりもあなたについて詳しく知るようになる」云々。

 

僕が説明しようとすると三文SF小説としか思えないですが、ハラリさんの凄いところは、最先端技術の知識、事例説明がムチャ具体的で説得力があること。その最先端の技術が意味するところを歴史学者としての考察を通じて解きほぐしていくことが出来るところ。

 

 

改めて本を手に取ってみたら表紙の帯に、山際壽一さんの言葉が掲載されていました。『サピエンス全史』下巻には「進化と文明の歴史を幸福の視点から問い直す」、同じく『ホモ・デウス』下巻には「科学技術の終焉か?パンドラの箱が今開く」。人類学者、霊長類学者の観点から、是非、NHK「90分de名著」等で、解説・論表してもらったら面白そうだなあと思います。

 

まだ、ハラリさんを食べ過ぎて胃モタレ感が残っているような状態です。これは決して食あたりではないと思うのですがね。

 

 

 お題「冬を乗り越えようとしている鉢植え」。やや春の兆しが、と思いきや今週は大変な寒波到来です。皆さま、くれぐれもご自愛のほど。2019年2月8日撮影。

 

 

オマケ。じゃこ入りニラ玉炒め。じゃこをカリカリに炒めてからお酒で煮詰める。いったん取り出す。卵を半熟程度に、塩コショウして、これもいったん取り出す。ニラを炒めて豆板醤を加え、じゃこ、卵を戻し入れる。お酒のつまみです。冷えてもソコソコ美味しい。1月31日、料理と撮影。