クルルのおじさん 料理を楽しむ

学園生活

体験農園”アグリパーク南陽”。僕たちの畑の手前に水田があり、この日は、近隣の地域の集まりで親子・家族の体験田植えをされていました。都会の子供達は田植えをしたことがほとんど無いでしょうから、きっと、記憶に残る体験になるのでしょうね。週末に、水やりに行った時の風景です。2019年(令和元年)5月12日、撮影。

註:写真を見る限り子供たちが余りいませんが、あぜ道には泥んこになった沢山の子供たちがいました。田植えよりも、この反対側にある水田でプラスチック板を利用した簡易ボートで水遊びをしていた子のほうが多かったのかな。

 

 

大型連休明けの5月8日・水曜日、鯱城学園の共通講座の第一回が行われました。お題は『木曽三川・今昔ーー”弧愁の岸”を行くーー』。郷土史家、林 孝之介という方のお話でした。今年度の初めての共通講座、そして、新しい年度=「令和」になって初めての講座ということで、司会の方も、講師の方も”大変に記念すべき講座になった”ことを強調されており、聞いている方も何やら緊張するような雰囲気でありました。

講義は、10:00から11:30までの一時間半。鯱城ホールが7-8割方はいっぱいでしたから出席している学園生約500名を相手に、一時間半、立ちっぱなしでの講義です。講師の方は僕たちと同じくらいのお年(昭和20年生まれとのことでした)ですから、体力・気力ともに充実された方だと感心しました。この学園の本年第一回の講師に相応しい方ですね。

 

 

お話の内容も興味深いもので、途中、睡魔に誘われることも無く、最後まで楽しく聴講することが出来ました。徳川幕府木曽三川の治水工事を薩摩藩に下命したことは以前から耳にしておりましたが、今回の講義では、そもそも、この地域の地形の説明から洪水・治水の歴史をお話され、なるほどと納得させられました。ブラタモリ的なレクチャーです。

 

濃尾平野は東高西低の地形をしているそうです。知りませんでした。木曽三川は、東側から木曽川長良川揖斐川の順ですが、一番東側の木曽川の水位は、一番西側の揖斐川の水位よりも2.4m高いそうです。この三川は多くの支流を持ち、それらが互いに連なっている。木曽川が流域面積、延長流路ともに最大。通常、降雨は西から東に移動することが多いこともあり、三川の出水は、まず揖斐川に起こり、次いで、長良川、最後に木曽川になる由。豪雨の時の言葉として「四刻八刻十二刻」というのが残っているそうです。豪雨が続けば四刻=8時間で揖斐川が氾濫する。八刻=16時間で長良川が、十二刻=24時間では木曽川も氾濫すると。「しとき・はっとき・じゅうにとき」と読むそうです。木曽川の水は洪水となれば、長良川に、更には、揖斐川に流れていく訳ですから、揖斐川=美濃の低平地は洪水の最初から最後まで、その脅威にさらされていたそうです。

 

1609年(慶長14年)の「御囲堤(おかこいづつみ)」の治水工事は家康の命によるもので、この時には、木曽川の東側に堤防を築いたと。関ヶ原の余韻が残っている時代で、とにかく尾張徳川側の農耕地を安定させる、そして徳川幕府として「西」に対する防衛線を強化することを狙ったそうです。そのため、この堤防により、それ以降の豪雨・洪水の時には、美濃側の被害はかえって増大したと。トランプ大統領の「アメリカ・ファースト」を醜いと笑っている訳にいかなくなりますね。

 

薩摩藩に「濃尾川普請御手伝」が下命されたのは、1753年(宝暦3年)の時だそうです。外様大名であり大変な勢力・影響力を持っている薩摩藩=「南海の潜龍」の牙を抜く=弱体化を狙ったものとか。薩摩では「対決か恭順か」の激論があったそうですが、薩摩藩士の本文は「島津家の安泰」であると、薩摩藩士947人が美濃に向かい、87人が犠牲になった。総責任者=担当家老の平田靱負(ゆきえ)は、すべての工事を終了し一隊が薩摩に帰任するその日に、犠牲者に対する責任を取って一人割腹したそうです。明治になり「宝暦治水之碑」が建立され、1938年(昭和13年)には「治水神社」が建立、平田靱負が祀られている由。神社には薩摩の家紋(ご存じ「丸に十」)の旗が立てられていると。

ちなみに副題の「ーー”弧愁の岸”を行くーー」というのは、杉本苑子さん著「弧愁の岸」を引用されたもの。1962年(昭和37年)の直木賞受賞作品です。

 

 

 

2019年5月12日、日曜日に、ブラっと畑に水やりに行きました。隠れ家から地下鉄とバスを乗り継いで一時間半ほど。名古屋市の東部からほぼ西の外れへの移動となります。バスの時間を勘違いしてかなり長い待ち時間となりました。バスは一時間に一本しか動いておりません。前回記載の通り、班のなかでは役割分担を決めて、水やり当番も決まっています。当面は二日に一回、当番が水やりを続ける。この日は、当番では無かったのですが、早い機会にこの農園・畑への行きかた、畑での作業手順を確認しておきたかったので(前回、植え付けをした時には、午前中に共通講座があり、その後、学園近くから専用の市バスでクラスの皆さんと一緒に行きました)。

 

一人で行ってみると、分かっていないことが沢山あることを再認識させられて面白い経験になります。この日も、バスを降りてから畑に行く道がしばらくは分かりませんでした。ウロウロしながら歩いていると、冒頭の田植えの場所に出ることが出来て、エイやあーっと直進したら運よく畑に辿り着けました。

班でやれば簡単な作業でも一人でやると何と大変なことか。二つのバケツに水を汲み、自分の班の畝のところに運んでいきます。それから、柄杓で水やり。三っつの畝に水をやるのに、何回往復したことか。”お百姓さんのお仕事はやはり大変なことだ”と、これだけのことで大袈裟に考えてしまいます。一応終了して、バケツを倉庫に片づける時に、ふと見れば、ホースが置いてありました。”授業の時の先生はバケツを使うしか方法は無いと言っていたが、ちゃんとホースがあるやないか!。これ使えば、もっと楽できるやん”と思って、疲れた体に鞭を入れ、重たいホースの束を倉庫の外に持ち出し、水溜めタンクの蛇口につなごうとしたのですが「径」が合いません。それ以上、僕の頭では対応する方法が思い浮かばなかったので、残念ながらあきらめました。

 

帰路は最寄りの地下鉄の駅まで歩きました。帰りのバスの時間をチェックするのを忘れており、バス乗り場まで行ってから待ち時間が長すぎることになるのは嫌だったので。最寄りの駅と言っても、グーグルマップで検索する限り徒歩で50分ほどかかりそうな距離です。”まあ、この辺りは今まで散策する機会が全く無かった地域やから、ちょうどエエ機会やおまへんか”と自分を騙して前向きな思考を心掛けました。

途中、南陽大橋という大きな橋を渡りました。西側が新川、東側が庄内川、二つの川を跨いで架かっています。”木曽三川”の講義を聞いた後だったので、この辺りも昔は洪水に悩まされていたのかしらと思いました。もっとも、こちらは名古屋市内を流れている川ですから、洪水懸念よりも都市の物流・水運に機能している川であったのかもしれません。地下鉄の駅は、荒子川公園駅荒子観音寺に行くときの駅かと思いましたが、そうではありませんでした。同じ荒子ですが、荒子観音寺の最寄りの駅は荒子駅。この沿線です。荒子観音寺は、円空仏で有名なところ。一度は行ってみようと思いながら、まだ行ったことがありません。調べたら、毎月第二土曜日の13:00-16:00のみ一般公開されている由。次回、水やりを土曜日にやることにして、その帰りに見学に行ってみようと思っています。

 

  

 2019年5月19日、お弁当を初めて自分で作りました。この日は、鯱城学園のクラス別のオリエンテーション。自己紹介、今後の日程・行事の確認、学園・クラスの役割を決定、クラスの記念写真の撮影。今までの数回は、近くの食堂等々でお昼を食べていましたが、ふと、お弁当作りをしてみようと思い立ちました。やはり学園生活にはお弁当が似合う!?。

第一回目のお弁当。「鶏そぼろ、炒り卵の海苔弁」。海苔は食べやすく千切ってからご飯の間に二重に敷き詰めて(ご飯+のり+ご飯+のり)、その上に鶏そぼろと炒り卵のっけ。きゅうり&竹輪とトマトを別途タッパーに。上出来でした。

 

 

休憩時間に同じ班の畑仕事熟練の様子の生徒さんに”水やりにホースを使うこと”についてのご意見を聞いたところ、ホースと蛇口の「径」以外にもいろいろと問題があると。水タンクの圧力が十分にあるかどうかが最大の問題。「多分、水圧が十分では無い。だから、先生はバケツを使うしか方法は無い、と言っていたのであろう」と。また「柄杓を使うよりもジョウロを使って散水するほうが苗木に優しい。そして効率よく、かつ、疎らにならずに水やりが出来る」とのことでした。水やりにもイロイロな知恵が必要なのだと目から鱗がぼろぼろ状態でした。この方には、ご了解を頂いて我が班の班長さんになって頂きました。

 

前回、鯱城学園の生活がスタートした様子を記載しましたが、結構、反応・関心をたくさんいただきました。僕自身、始まったばかりですが、予想以上にこの学園は、運営の仕組みがよく出来ていると気に入っております。運営のインフラが良く整備されていると思います。 

良い点の一番は、学園の運営を可能な限り自主的にさせようとしているところ。そのための仕組みがしっかりと整備されているように思います。仕組みとしては、①全員参加の共通講座。②縦の繋がりの専門講座=クラス単位での自主的な取り組みを行う。また、③横の繋がりのクラブ活動=これも学園生は全員が何れかのクラブに参加することがマストです。そして、各クラブ単位で自主的な活動を行います。面白いのは、一旦、専門講座、および、クラブを選択すると二年間、原則として異動は不可としている点。クラス、クラブをフラフラ・コロコロと変わることなく、二年間、しっかりと交流を深めてください、という趣旨だそうです。ナント、秋にはクラス、クラブ別の文化祭、体育祭もあり。また、年に二回、個別の研究成果の発表する場も準備されているそうです。

更には、④場所の繋がりというか、自分の住んでいる各地域・区ごとの括りで集まり、また、⑤時系列jの繋がりで、OB/OG会との繋がりを持つように設計されています。学園生が全体・縦・横・場所・時系列の繋がりで相互に懇親を深めながら学園生活を楽しんで過ごせるように、また、目出度く卒業の暁には、地域・区を核にして後輩との接点を持ち続け、地域貢献に繋がるように、社会参加が出来るような仕組みが構築されています。鯱城学園の開学は、1986年(昭和61年)4月。僕たちが第34期生ですから、運営のノウハウ、仕組みが上手く機能するようにブラシュアップされていると感じます。この仕組みを構築された名古屋市の職員・関係者の方々は、エライ!。拍手です。