クルルのおじさん 料理を楽しむ

円空さん

 

 

荒子観音寺の山門(仁王門)。向かって右に「阿」像、左に「吽」像が。共に3m以上の大作です。円空さん、1676(延宝4)年の作品です。円空さんの像のなかで最大のモノとか。2019年6月8日、撮影。

 

 

荒子観音寺の円空さんのところに行って来ました。毎月第2土曜日の13:00から16:00の間は一般公開されています。午前中に鯱城学園・園芸学科のアグリパーク南陽に水遣り登板で行った帰りに立ち寄りました。最も、前日が久しぶりの大雨でしたから、水遣りの必要はありませんでした。前回の農園実習は欠席しましたので、班の方が追加の作物の植え付けをしてくれたので、その様子を見に行きつつ(そもそも、どの畝に何を植えているのか、何回も説明を聞いているのに、いまだにピンと理解できていない)、自分の作物に支柱を立てたり、わき芽を摘んだり、若取りをしてきました。若取りというのは、なす、ピーマン等、植え付けの後すぐに実がなりますが、苗を大きく育てるため、若い実をもぎ取ることです(皆様ご存じのことでしょうが、僕はこんなことも知らないレベルです)。若取りした実も勿論食べることは出来ます。

 

 

『平成最後の日々に「梅原猛」を思う』で記載した通りですが、僕は梅原さんの影響を受けた円空仏のフアンです。荒子観音寺は以前から行ってみたいと思っていました。良い機会なので、行く前に梅原猛さんの「歓喜する円空」を読み直しました。この本は、2004年に「芸術新潮」に連載された「梅原猛円空巡礼」をベースにして加筆されたもの。文庫版は2009年7月に初版発行。僕が買ったのは2009年9月とメモ書きしてありましたから、文庫化されたものをすぐに買ったようです。当時のメモ書き、線を引いた跡があちこちにあるのですが、ほとんど、記憶にありません。情けない話です。

 

 

再読して、円空仏の面白さとは別に、梅原さんがどれだけ円空さんに入れ込んでいたかを再認識することが出来ました。「梅原、生きるにあらず、円空、我がうちに生きるなり!」文庫本の帯にも記載されていますが、円空さんが梅原さんを通して語っているかのような記述と、それ以上に、梅原さんが円空さんと一体になり自分自身について語っている件を改めて興味深く読むことが出来ました。円空さんは「まつばり子=私生児」であった由ですが、梅原さんは「婚外児」で、梅原さんの言い方では「同じ星の下に生まれてきた」と。そして、二人ともに幼くして母親を亡くしています。そのことが、お二人を強く結びつけていると良く理解できます。また、円空さんが木曽三川と深い繋がりがあったことを改めて認識することが出来ました。

円空さんのお母様は、1638(寛永9)年、円空さん7歳の時に木曽川の洪水で亡くなられたそうです。円空さんご自身は1695(元禄8)年、64歳の時に入定しますが、生まれ故郷の岐阜県羽島市から40㎞上流の関市池尻、長良川畔で亡き母を思いつつこの地域の安寧を祈願しての入定であったそうです。

 

 

話が横道に逸れますが、実は『学園生活』(木曽三川・今昔)を書いた後に、ドラゴン先生から大変な反応を頂きました。先生のことは『交遊録、ご飯が美味しい』で説明した通りですが、まさに、武芸百般、僕の敬愛する師匠のお一人です。常日頃から、僕のブログに対して、厳しいツッコミ、容赦の無いコメントを頂いていたのですが、この時は今まで以上にビビットな反応。それもそのはず、よく考えれば当たり前なのですが、先生は岐阜県大垣市の方ですから、ご自分のホームに関するテーマです。それこそストライクゾーンのど真ん中に直球を投げ込んで、ものの見事にバックスクリーンに特大のホームランを打たれてしまった、というところでしょうか。

 

嬉しいことに、僕のブログ記事が切っ掛けになって”自分ももう一度木曽三川を勉強しようと思った。ついては、興味があるなら現地視察をしよう”というお誘いを頂き、7月に先生の車で「木曽三川、歴史の旅」と称して大人の遠足をすることになりました。そして”遠足に行くからには、勉強しとけよ!”とイロイロと宿題が出されました。

 

 

その一つが、木曽三川の治水と西高木家の関わりについてのもの。高木家は、戦国時代に養老山地の東武一帯に勢力を張る土豪関ヶ原合戦での功績により、現在の岐阜県大垣市を任される旗本に。江戸に常駐した一般の旗本とは異なり、知行所に在住して参勤交代を行う交代寄合として大名並みの殊遇を受けていた由。西家・東家・北家の高木三家は明治維新まで同地を支配していたとのことです。寛永年間の1624年以降は、幕命を受けて川通御用の役儀を務め、1705年(宝永2年)以降は、水行奉行に。近世を通じて木曽三川流域の治水に重要な役割を果たした。

この旗本西高木家の古文書が、名古屋大学附属図書館に「高木家文書」として所蔵されています。既に52,000点以上が整理され「高木家文書目録」が刊行されており、2019年3月には重要文化財指定に。名古屋大学の資産が重文指定されるのは初めてのこととか。ドラゴン先生のご指導を受け、名古屋大学の附属図書館に足を運びました。

 

図書館の閲覧室の受付手前に、「高木家文書」専用の常設展示室が設けられており、古文書、古地図の展示・解説がされています。 俄か研究ながら僕の受け止め方です。

 

薩摩藩に「濃尾川普請御手伝」が下命されたのは1753年(宝暦3年)のこと(いわゆる宝暦治水の開始)。高木家はそれを遡る1705年(宝永2年)に水行奉行に。その後1735(享保20)年に、高木奉行、笠松郡代、地元庄屋の嘆願書を受けて井澤為永が幕府に対し治水を提言。この提言への幕府の反応が薩摩藩に対する「御手伝」の下命に繋がっています。ちなみに、円空さんが入定した1695年(元禄8年)は、高木家が水行奉行になる6年前のことです。ほぼ、同時代のことだったのですねえ。

 

 薩摩藩士の宝暦治水の話が世に知れるところとなったのは明治になってからのこと。現在の桑名市揖斐川沿岸の村の庄屋であった西田家の十代目、西田喜兵衛さん(1845年~1925年)が薩摩義士の顕彰に人生の大半を捧げて、碑の建立、誌の編纂に尽力された結果です。宝暦治水の当時、西田家当主はその地域の代官職であり、薩摩藩に協力を惜しまず、土地不案内であった平田靱負の良き相談相手であった由。「薩摩藩の恩、忘するべからず!」との記録を子孫に残したそうです。明治になり、先祖の意思を継いだ西田さんが「濃尾勢三大川・宝暦治水誌」を編纂し刊行したことによります。小林誠一さん(研究者)によるこの本の復刻版が、附属図書館に収められています。1998(平成10)年の版です。

 

長い間、地元の方々は、治水対策に苦労を重ねてきていた。それを理解しつつ、薩摩の方々に思いを馳せるのが、正しい、真っ当な歴史認識なのだなあと感じております。遠足は、まだ一か月先、あと何回附属図書館に足を運べるやら。僕としては、梅原さんに紹介してもらった円空さんと、特大ホームランを打たれた「木曽三川流域治水」の2つのテーマが結びついていることを認識することが出来て、驚き=感動!に近いモノを感じているところであります。

  

 

荒子観音寺の円空仏ですが、展示スペースが限られていて、やや残念な印象を受けました。円空仏は現在、全国で約5,340体残っているそうですが、そのうち、1,250体が荒子観音寺にあるそうです。梅原さんが「荒子観音寺は円空仏のワンダーランド‼」と書いているのもよく理解できます。ボランティアの方が沢山おられて、円空仏の紹介を丁寧にされていました。また、別棟での「木端会」で円空仏の木彫りの体験・指導をされています。円空さんに対する畏敬の念と親しみの気持ちが一体になったボランティア活動だと感じました。僕にとっては残念ながら、お寺のパンフレットには梅原さんのことについて何も触れられていませんでした。

 

木端会の部屋に置いてある円空仏のレプリカです。こちらは写真撮影「可」。梅原さんの分類では、円空さん第二期=1672(漢文2)年から1679(延多から)年の作品で、梅原さんに言わせると護法神円空オリジナルとのことです。第三期の前衛的な円空仏も好きですが、この時期の護法神も味わい深い作品だと思います。2019年6月8日、撮影。

 

 

 おまけ;お弁当、三回目。相変わらずの海苔弁に、南高梅とボロボロ卵焼きのっけ。人参・ナス・玉ねぎの揚げびたし、ソーセージ炒め、きゅうり竹輪、大根クルル漬け、らっきょ酢漬け。アドバイスを受け、ちゃんと冷ましてから詰めて、保冷剤を押し当てて持参。自己評価:上出来。ビジュアルもまあまあ。卵はソボロよりもこれくらいの大きさの方が食感が良いように思われる。2019年6月5日、料理と撮影。