クルルのおじさん 料理を楽しむ

高校卒業、半世紀!

名古屋市昭和区鶴舞公園。「鶴舞」の読み方は住所の町名、駅の名前等多くの場合「つるまい」なのですが、鶴舞公園の場合は「つるま公園」と読まれています。公園の敷地内にある図書館、隣接する小学校も「つるま〇〇〇」とか。先日の『名古屋の地名で遊ぶ』の講義でも触れられていましたが何やら由来があります。忘れました。春は桜の名所として有名な名古屋市の中心部にある大きな公園です。

今日は公園清掃のボランティア活動=鯱城学園の自主活動に参加しました。各区ごとに鯱城学園のOB/OG会があり、現役の学生は各区ごとの会に属して活動します。千種区は「鯱城はなみずき会」。僕よりも高齢の方がほとんどだと思いますが、皆さん、お元気に清掃活動をされていました。もっとも、もともとキレイに整備された公園で、多くの参加者がいらっしゃるので、ゴミを見つけるのにひと苦労の状態でした。2019年10月5日、撮影。

 

 

高校の同期会の集まりにワクワク・ドキドキ気分で参加してきました。僕の高校のことは、このブログでも何回も書いていますが、いま思い出しても良い高校でした。そう感じている卒業生が多いからでしょう。卒業後も毎年、春には花見、秋には食事会等々の集まりが継続しています。大阪府立の高校で大阪府庁のすぐ隣にあります。大阪城の正門の前です。春の花見は、大阪城西口公園内の決まった場所でやっています。場所は天守閣と母校を結んだ直線の上に決まっています。幹事さんのセンスの良さです。

社会人になった後は、東京に生活の場を移した方が大勢出てきたので東京でも同期会を開催するようになりました。僕が2003年に名古屋に移った時には、名古屋在住の同期生が歓迎会をやってくれて、それが切っ掛けになり名古屋での同期会が出来ました。それ以降、継続してやっています。メンバーは、いつも4-5名の参加で、数か月に一度、研修会と懇親食事会を続けています。研修会は毎回、真面目な企画です。陶器博物館に行って土を捏ねて焼き物を焼いたり、美術館で「ビュールレ・コレクション」、科学館で「スウイーツ展」を見たり、大須演芸場に落語を聞きに行ったりしています。

 

 

今年は、ナント、高校を卒業してから50年!の記念の年です。卒業して半世紀が過ぎたことになります。卒業時には想像も出来なかったことです。僕たちの年次は(これも何回も書いていますが)昭和25年(1950年)生まれで、昭和44年(1969年)の春に高校を卒業しました。50周年記念ということで、昨年来、幹事さんは念入りに準備して、北区中之島にある大阪で最も格式の高いホテルの一つで開催してくれました。

参加者は約130名に達しました。僕たちの学年は全部で9クラス。一クラスが約50名ですから、学年全体で約450名の卒業生。四人に一人以上の同期生が半世紀たって集まったことになります。幹事さんの呼びかけに感謝です。幹事さんも予想以上の参加人数にビックリ、感激していました。 

 

 

後日に、隠れ家の本棚にあった半藤一利さんの「昭和史・戦後編、1945-1989」に記載されている僕の高校時代前後の時代の章を読み直してみました。僕たちの世代は、「団塊の世代」と言われる昭和22年から昭和24年の一年後の世代になります。ベビーブーム=団塊の世代の時には、学校も収容能力が追い付かず一クラスが60名で教室にすし詰め状態。一学年が10クラス以上もあった由。その時にキャパを拡張してくれた後の世代ですから、10クラスx50名と言っても、結構、落ち着いた雰囲気であったように思います。今の中高校では考えられない状態ですね。

ちなみに僕たちが在学中の校舎はきれいに建て替えられ、当時の様子は忘却の彼方とか。奇特な方が有志の記憶を基に当時の校舎・教室の配置図を作成して配布してくれました。正門を入ったところにメタセコイアの大木があった場所、下駄箱の場所、図書館、体育館・プール等々、配置図を見せてもらうと蘇ってくるものです。こんな手間のかかる作業をよくやってくれたものと思います。感謝。

 

 

幹事さんの開会宣言でスタート。まずは物故者の方に献杯。数名の方が既に亡くなられています。仕切り直して「卒業・半世紀!」に乾杯。乾杯した途端に、会場は50年前にタイムスリップ状態。もう、エエ年のオッサンとオバはんが(ホントは”おじいちゃん”と”おばあちゃん”が正しいのですがサバを読んでいます)高校生のような盛り上がり。北海道、東京から、もちろん名古屋組も全員参加。シンガポール、米国にお住いの方も、この同期会の開催にタイミングを合わせ一時帰国しての参加です。

 三年の時のクラスは、大学進学に応じてクラス分けがされておりました。文化系が半分弱、理科系が半分強。文科系のクラスは相対的に女性が多く、理科系は男子が大多数。バンカラ(乃至はバンカラを気取った)生徒は多数いましたが、悪質な不良はいなかったように。陰湿ないじめは全く無かったと思います。先生と生徒の関係も概して良好であったかと。先生は生徒を、生徒は先生をある意味でレスペクトしていたのではないかと思います。大阪府でも有数の進学高校で、また”エエとこの子”が結構たくさんいらっしゃったことが要因かと思いますが。

僕のクラスは3年1組、この日は約20人が参加。二番目に参加者が多いクラスでした。数名の方とは卒業後も折に触れ会っていますが、かなりの方とは50年ぶりの再会です。一度も同じクラスになっていない方、部活等でも接点が無かった方は、全く初めてお会いするようなものですが、同じクラスの方とは面影がチャンと残っているものです。一言、二言、話をするだけで、懐かしい会話が蘇りました。

  

 

今までのブログで、高校時代のことや名古屋での同期会、1950年生まれの方々のことを記載したものを埋め込んでおきます。僕の備忘録です。ご参考まで。 

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『私の本棚』2016年9月18日。高校時代の友人から勧められた本のことを記載しました。名古屋での集まりの最初の時のイメージも。読み返すと懐かしいものです。このブログの原点の一つかと思います。

 

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八丁味噌』2017年6月30日。名古屋の同期会の社会科見学の模様を記載しました。

 

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『感謝;スピリッツを揺さぶってくれる方々へ』2017年12月31日。1950年生まれのお二人、米原万理さん、内田樹さんに影響を受けているのが良く理解出来ます。

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 『1950年生まれ、その2』2018年4月21日。東大入試中止をテーマにした本が出版されていることを記事にしました。著者は1950年生まれの方です。1960年代から1970年代のことを思い出して記載しています。

  今までの記事を改めてざっと読むと、自分が考えていた以上に、高校時代のこと、名古屋での同期会のこと、1950年生まれの方のこと何回も記載しているのに驚きました。自分自身、大変な影響を頂いていることが良く分かります。

 

 

僕たちの高校時代の最大の事件は、大学受験に際して「東大入試が中止」になった、ということかもしれません。受験生として当事者ですから直接・間接に大きな影響を受けた方が沢山いたと思います。また、特に1950年生まれとしては、結果的には、ちょうど時代の変わり目を象徴する事件であったようにも思えます。

ずっと続いていた高度経済成長の時代。昭和元禄と言われ天下は泰平。「巨人・大鵬・玉子焼き」です。一方では、アメリカはベトナム戦争で泥沼化、フランスでは「5月革命」、中国では文化大革命。日本では公害・環境問題が深刻化。産学協同が批判の対象となり、学生運動も先鋭化。そして東大紛争。「昭和44年(1969年)は東大安田講堂の攻防戦で年が明けたといってもよいほど(半藤さん)」。

その後(僕たちが高校を卒業してから)、半藤さんによれば、「昭和元禄」の最大の打ち上げといえるのが「大阪・万博」、昭和45年(1970年)。そして、沖縄の本土復帰が昭和47年(1972年)。半藤さんに言わせると「この沖縄返還で日本の戦後は一応、終わったとみていいのでは」と。

 

 

高校卒業から半世紀も過ぎましたが、逆に時代を遡ると、昭和25年(1950年)生まれの僕としては、僕たちが生まれるホンの5年前まで”日本は戦争をしていた”ということが信じれらません。僕たちは戦争を知らずに生まれて育った世代。政治・経済・社会の問題は多々あると思いますが、戦争の無い世の中をこれからも維持していきたいものです。

 

 

半藤さんの「昭和史」のなかで”東大・安田講堂”の件に面白い記述がありました。「学生運動はいろんな名言を生み出した。昭和43年11月の東大駒場済のポスター。

 

とめてくれるな おっかさん 背中のいちょうが 泣いている 男東大 どこへ行く

 

後に作家となる橋本治さんが作ったもの」とのことです。そうだったんですねえ。橋本さん、このコピーで大変に注目されたのでした。当時、橋本さんのことは知りませんでしたが、このコピーのことはよーく記憶に残っています。改めてご冥福をお祈りします。

 

 

会は、ホテル内で場所を変え、二次会、三次会と続きました。僕は、次の日に朝早い予定があったので、名古屋のメンバーと次回の研修・食事会の開催を約束して二次会のあと隠れ家に向かいました。半世紀の壁をヒョイと乗り越えた大変に楽しい時間でした。

 

   

鯱城学園・園芸科の農場。サトイモの生育状況です。あと2週間ほどで収穫のタイミングになるらしい。写真で見ると雑草を除去していないのがミエミエで恥ずかしい限り。この日、熟練の方は試し掘りをされていました。サトイモは親イモの側芽に子イモ、子イモの側芽に孫イモがなるそうです。衣被は子イモ(乃至は孫イモ)のこと。「きぬかずき」または「きぬかつぎ」と読むそうです。モノの本によると、もともとは、ご婦人が外出時に頭から被る衣。転じて、子イモ(を皮付きのまま茹でて食べるもの)のこと。

この日は、ハクサイの苗を植え、ダイコン、カブの種まきを。また、ニンジンの間引きをやりました。大きく育つように密集しているところを間引きます。若芽はサッと揚げると美味しい、自分で栽培している人しか味わえない贅沢とか。持って帰るのを忘れてしまいました。悔しい、残念でした。2019年10月4日、撮影。