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吉本隆明「共同幻想論」:芋づる読書・その1.

 

久しぶりにNHK100分de名著を見ました。2020年7月の「吉本隆明共同幻想論」。前回と同じく、司会はタレントの伊集院光さん、アナウンサーの安部みちこさん。今回の先生は、先崎彰容(せんざき・あきなか)さん、1975年生まれ、日本大学の教授の方です。

 

『芋づる読書・その2.』の本を読んでいる時、ちょうど、NHKでこの番組が放送されることに気づいたので、毎週の録画の手配をして本屋さんでテキストを買ってきました。

 

先に白状しておきますが「共同幻想論」の原書そのものは読んだことはありません。この本が刊行されたのは1968年です。テキストをめくると、昔懐かしい写真が掲載されていました。1968年10月21日の国際反戦デー、全国各地でベトナム戦争反対の集会・デモが行われていた時の写真、それから、1969年1月18日、東大安田講堂に機動隊が出動した時の写真。このような社会背景のなかで刊行されたこの本は、”学生運動や思想界に衝撃を与えた”、と言い伝えられています。1950年生まれの僕は”東大入試中止”世代そのものですから、当時の学生の例に漏れず、この本の頁をパラパラとめくった記憶はあります。残念ながら、難解というのか退屈というのか中身を理解する以前の段階で中断したままになっておりました。

 

それでも、当時の仲間との会話のなかで「左右のイデオロギーを超えたところにいる巨人、吉本隆明はなにか得体の知れないミステリアスな人」(これは、「その2.」の宇田川悟さんの表現です。言い得て妙、気にいっています。)と言う印象を強く持っていました。前回の100分de名著(三木清を分かり易く読み解いてくれました)が大変に面白かったこともあり、昔、手に負えなかった本の中身を少しはカジルことが出来るかなと、放送を楽しみにしておりました。

  

前回、三木清『人生論ノート』のブログを埋め込んでおきます。

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今回は、先崎先生がこの難しい本の読み方を丁寧に指導・解説してくれます。司会のお二人が突っ込んだり纏めたり、これも上手く進行を助けてくれます。原書を読まないで、テキストを読みTV解説を見るだけで分かった(読んだ)つもりになることは、本来の読書の「道」からは逸脱しているのでしょうが、この番組は難しい本の骨子・概要を理解するきっかけになる良い企画だと評価しています。

 

 

以下、先崎先生の講義のまとめです。お付き合い頂ければ嬉しいです。先崎先生によると、この本は、

「国家とは、共同体とは、そして、法とはなんなのか?国家と個人との関係はなんなのか?について、そもそも国家とはどのようなプロセスで誕生したのかに遡って、吉本が(放送のなかでは呼び捨て表現になっていますので、僕もそれに倣って)内外の膨大な思想・哲学を参照しつつ、自らの思想を突き詰めて、独自の手法で思想体系を打ち立てたもの」。

 

 

そして「何故、吉本がこの本を書かねばならなかったのか」の説明が秀逸でした。吉本の敗戦体験が大きく影響していると。「戦時中、学生であった吉本は、読書に基づく撤退した思索の結果、戦争を肯定し国家のために死ぬことも覚悟していた」、いわゆる、皇国少年であったそうです。「しかし敗戦により、自分が確信をもって抱いていた死生観は全否定されてしまった」。そのショック振りは僕もスゴクよく分かるように感じます。

 

 

その敗戦体験から吉本は「なぜ、人は何かを信じ込んでしまうのか。戦前の日本の国家体制をなぜ自分は信じ切ってしまったのか。共同幻想にのめり込んでいったのか」を突き詰めて考えていきます。

 

「国家、法、宗教、土俗信仰、全ての共同体は『幻想』で作られている。この『共同幻想』の成り立ちを解明できれば、人間が他者と関係を結ぶことで起こるさまざまな現象を理解できるはず」と思索を進めていったそうです。

 

 

面白いところは、吉本の思索のなかで、発想の原点はマルクスエンゲルスなのですが、西欧型の国家イメージと日本人のそれには大きな差異があることを感じてしまう。「西欧型の国家イメージは、国家権力・法と言う硬質な存在が、日常生活のうえに聳(そび)えている、日常生活とは別にシステムを組み上げている。ところが、日本人にとって(テキストには「日本人を含むアジア人にとって」とありますが僕はあえて日本人だけにしておきます。理由は、「その2.」で)、国家とは、同胞とか血縁とかの共同体と重なり、同じ顔、同じ皮膚、ことばの同質性まで含めてしまう。」

 

 

「『共同幻想論』は、直接的には『遠野物語』と『古事記』の二冊を徹底的に読み込むことで、国家誕生の瞬間を追いかけた作品です。つまり、日本思想の遺産をもちいて、普遍的な国家の成り立ちを追いかけた作品です。」との説明ですが、ここで”普遍的”というのはあくまでも”日本と言う国家”に限定してのことだと感じます。

 

 

独特の用語がいっぱい出てきます。「共同幻想」「対幻想」「個人幻想」、「共同幻想は個体の幻想(個人幻想)と『逆立』する構造を持っている」等々。吉本が、詩人であること、文学から出発したことが深く影響していると感じられます(僕の個人の感想です)。

 「関係の絶対性」、吉本が作り出した有名な言葉とのことですが、テキストに沿って簡単に括ってしまうと「どれだけ自分が正しいと信じていても、それは独善である可能性があり」、「逆に、同調圧力を強いてくる体制の中に合って『それはおかしいんじゃないか』と抵う発想力をどう保つのかが重要である」と、極めて妥当なことを指摘しているように思いました。

 

 

国家の成り立ちを追いかけるに際して、個人・夫婦・家族・共同体に遡っての思索がなされますが、「とりわけ私が驚いたのは、吉本が嫉妬と疑似性的な関係を非常に重視している---国家の起源を問い直す作業が、人間関係のうち最も根源的な他人との比較や羨望の感情、更に男女間の性的な駆け引きをめぐり展開されていること」と先崎先生ご指摘の通り、大変に驚かされます。

 

 

吉本の思索のなかでは、ドイツの哲学者ニーチェ(1844-1900)に影響を受けたところも多いようです。「神の死」という言葉、代表作の「道徳の系譜」等々。先崎先生の言い方では、「私(先崎)は、ヨーロッパ全土を二千年単位で覆いつくした(キリスト教世界の)神こそ、『共同幻想』に他ならないと考えます。屈折した自分を抱え込み、良心の疚しさ(やましさ)に喘ぐ人間が、それでも自己肯定するにはどうすればよいか。神と言う共同幻想の発明こそ、その答えだった」、「ニーチェは、この共同幻想をどうすれば克服できるか---キリスト教道徳の発生の起源を暴露することで二千年の共同幻想の爆破を試みた」。過激な言い方をされていますが、この文脈で「共同幻想」という言葉を読むと、何を言わんとしているのかチョットは分かるような気がしました。

 

 

ハラリさんが「天地創造ハリーポッターのお話と同じ”虚構”である。神はポケモンと同じ、実際には存在しない」と言ってたのを思い出しました。

 

 

ハラリさんのことを書いた最初のブログを埋め込んでおきます) 

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国家の起源を思索する時に、家族から原始農耕社会=母方の血筋を重視する氏族的共同体、そしてそれが父権制優位の部族社会に転換していく様を「対幻想」という概念を使って説明されていますが、うまくまとめられません(「対幻想」という表現がしっくりこない)。

 

 

刑法の登場が国家である、というの吉本の定義が出てきます。刑法の登場により「古事記」のスサノオ神話的な共同幻想から抜け出して、共同幻想の最終形態である「国家」が具体化したという考えです。それまでの「清祓の祭儀」から全く異なる「刑法の罰則」への移行で強靭な国家が具体化したと。理解出来そうな気がします。

 

 

吉本の思索が続きます。先崎先生の説明に沿って言えば「男系中心の共同体は権力争いが不可避---駆け引きと抗争、好悪と嫉妬の感情が国政運営の舞台上で繰り広げられる---こうした共同幻想に取りつかれ、他者との駆け引きに明け暮れる人間が、そこから身を引き剥がす術はあるのか」「人間は政治的経済的自由だけでは救われない---共同幻想との関係をめぐってどのような可能性が人間にあるのか」。

 

 

このテーマに対する思索で「個人幻想(または、個体幻想、自己幻想)」に焦点を当てて考察があります。「古事記」「遠野物語」だけでなく、夏目漱石の「道草」、森鴎外の「半日」、そして芥川龍之介の「歯車」も分析の俎上に載せられているそうです。先崎先生は「共同幻想に対抗できる個人幻想はあるのか」という言い方をしていますが、僕には「対幻想」がピンとこないのと同様に「個人幻想」という言葉はやはりピンときませんでした。ここの「幻想」と言う使い方が良く分かりませんでした。

 

 

先生の説明が続きます。

「吉本が『共同幻想』と逆立の可能性を見出す『個人幻想』とは、いったいどのような特徴をもっているのか?」、テキスト自体が難解な文章ですよね。

「残念ながら、『共同幻想論』には答えは有りません。この著作が難解であると同時に、曖昧なまま結論なく終わっていると批判される理由です」となっています。

一方で、吉本が行った『共同幻想論』執筆時の講演を読み解いています。「自立の思想的拠点」「個体・家族・共同性としての人間」。「大衆」「自立」というキーワードで、「自分の生活圏にしか興味を抱かない大衆---日々生きていることで、あらゆる現実的な課題が否応なしに降ってくる---本人が好むと好まざるとを問わず、生活している限り、次々と襲い来る諸事に一つひとつ対応する姿に、吉本は『自立』の思想的拠点を見出し---個人幻想のモデルを探りだそうとした」。

 

「沈黙の言語的意味性」というのが吉本の「最重要概念」との解釈です。

 

繰り返しになりますが、引用すると、「生活者は日々の生活と労働を黙々とこなし、一人ひとりがなすべきことをやっている---この不器用さを『沈黙』と名づけよう。しかし、国家、法的規範が日常の生活リズムを奪う時、個人的な生活感覚から、それをおかしいと考え始める。知識人の誘導によって走りだすのではなく、生活が乱されるから政治に注目する---こうした態度を『沈黙の有意味性』と呼ぶことにしよう」。

 

 

このことを詳しく説明するために、吉本は夏目漱石の晩年の随筆「思い出す事など」を引用して使っているそうです。漱石の見て取った「互殺(ごさつ)の和」を、吉本は「大衆の原像」として読み込んだと。「生活とは、秩序を支え続ける普段の営みのこと---子を育て、老いた親を看取り、そして自分もまた死んでいく。それだけの事の中に、誠にささやかだが劇的な一人の人生が隠されている」。

 

 

吉本には知識人が大衆を啓蒙し、政治活動に駆り立てることへの違和感があったそうです。「一時的で情緒的な集団化、自分たちの行為の正しさを『信じて』疑わない共同幻想を吉本は警戒していた---それに対抗するのが、理想や正義に煽られることなく、不断の営みを続ける生活、その生活を支える個人の生き方」であると。

 

 

先崎先生の最後のまとめの一部です。

「政治的立場の左右など関係無いのです。私たちは常に、共同幻想がもつ魔力に惹きつけられやすい存在です。吉本が考える自立した個人とは、一つの情報を信じ一気に凝集するのとは正反対の存在です」。

90分で吉本隆明さんを理解したとは言えないでしょうが、「古事記」「遠野物語」からエンゲルスニーチェに亘り、はたまた、漱石、鴎外、龍之介も読み解いて、思索を書き上げた吉本さんはやはり大変な思索家であったと感じました。最後まで、「対幻想」「個人幻想」の幻想の意味がピンとこないのが残念でしたが。

 

 

息抜きのおまけです。

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左;ソーメンのトマトサラダ。キュウリ、ネギ、バジルの葉も加えて。オリーブ油とマジックソルト・ガーリック味で。2020年7月27日、料理と撮影。

右;タコとキュウリのサラダ。 同じくオリーブ油とマジックソルト・ガーリック味で。オリーブ油は頂いた井上誠耕園のレモンオリーブ油を使いました。美味しい。2020年7月28日、料理と撮影。