クルルのおじさん 料理を楽しむ

「俳句」のお話、その3.

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次女の長男(=僕の初孫)、タカト画伯の作品。お題は「しめじ」。何と生き生き、伸び伸びと描けていることか!。色、形、構成、全てが素晴らしい!。・・・爺バカです。2020年3月19日、撮影。
 

 

「俳句」のお話の続きです。 今回は、稲畑汀子さん著「俳句入門」。前回の兜太さんの「自分の・・」とは随分とスタンスが違うというか、この本は、文字通りの「入門書」です。お付き合い頂ければ嬉しいです。

「はじめに」にこの本の構成が説明されています。目次と合わせて併記すると分かりやすいかと思いますので記載しておきます。 

 

第一部;入門・投稿俳句のための12章---(俳句に対しての基本的な知識の理解)

第二部;実践・俳句の作り方---(徐々に実践的な句作に入っていく)

第三部;歳時記と季の言葉---(俳句にとって最も大切な季題を初心者のうちから正しく理解し、身に着けておくことは、その人の将来の上達のために、計り知れない糧となるはずである)

第四部;自然を詠う・花鳥諷詠の心---(「花鳥諷詠」の解説)

第五部;客観写生とは何か---(「客観写生」の解説。これら「花鳥諷詠」「客観写生」は高浜虚子の用語であるが決してかたよった主張ではなく、300年の俳句の歴史に共通して認められる性質として抽出されたものである)

第六部;虚子の俳句

第七部;芭蕉の俳句

第八部;心の風景を詠う・私の俳句---(筆者の俳句、エッセイ。季題と俳句の織り成す世界を楽しんで頂きたい)。

となっています。カッコ内が汀子さんのネライ・主旨です。

 

 

稲畑汀子さんは高浜虚子のお孫さん。祖父・高浜虚子、父・高浜年尾について俳句を学ばれ、1979年、お父様のご逝去により日本最大の俳句結社「ホトトギス」主宰を引き継がれた方。1931年のお生まれですから「ホトトギス」主宰は48歳の若さの時なんですね。1987年に日本伝統俳句協会を設立して会長に就任されたそうです。お家柄と経歴を拝見するだけで俳句の世界では畏れ多い存在の方!との印象を強く持ちます。

 

汀子さんは、この本の執筆時(1998年7月に第一版第一刷発行)には、「ホトトギス」の主宰として毎月3万句、朝日俳壇では毎週7-8千句に目を通しているとのことです。その選者の立場から投句に見られがちな一般的な傾向について感じるところを記載する、という意味での入門書になっています(第一部、入門・投稿俳句のための12章)。

 

 

前置きが長くなりましたが、第一部は俳句の基本、初心者がおかし易い誤りについて記載されていますので、ちょっと、長くなりますが整理しておきたいと思います。 

 

一章の冒頭から「五・七・五の十七音、季題というのが俳句の約束」と記載されています。「約束」という言葉使いですが、この「約束」は兜太さんのいう「規定=必要条件」という強い意味で使われていると理解しました。

更に、この章での指摘としては「季重なり」は誤り。理由が明解です。「季重なりの句はどうしても散漫になる」から。「一つ一つの季題を大切にし、研究することが--(中略)--必要なのではないだろうか」と。

 

二章、切れ字の基本は「や」「かな」「けり」。そして、切れ字も季重なりと同様に重ならないようにすべきと。「切れ字の意義は強調と省略である」(虚子の「俳句読本」から引用)とのことです。兜太さんは『「切字」は「断定と余韻を持った省略!」である』と説明していましたが、言葉を比べてみるだけでも”面白いもんやなあ”と思います。切れ字は合計18あるそうですが、汀子さんに言わせると「初心者は、この三つ、「や」「かな」「けり」を使いこなせれば充分」とのことでした。

 

三章、定型とは五・七・五の十七音。「この定型を破ればそれは俳句では無くなると私は思っている」と。この定型を守るために必要なことが「省略」。「意志的に省略すること。---余韻とは省略により生まれる省略された内容以上のものである」と。

 

四章、感情言葉「嬉しい、悲しい」などは避ける。「自分の感情を述べるよりも、その感情を誘った事物をそのまま叙する」との指摘は”なるほど”と思います(実際に句で表現するのは難しいんですけどねえ)。

 

五章、説明する句よりも感動の方を大切に。「説明や理屈の句が多いのもまた初心者の傾向」と!、まったくその通りだと思います。大反省。「説明しないで事実を述べる。そのことで省略が効き、かえって一句の背景がよく見えてくる」。おっしゃる通り!。人様の良い句を読むと指摘されている点が良く分かる気がします(頭で分かったように思えても実際にはなかなかそのように句にできないのですが)。

 

六章、推敲とは、表現を平明にすること。「執着していた言葉を思い切って捨ててみると案外、余韻の深い句になったことに気がつく」というのは鋭い指摘であるなあ、と感じます。

 

七章、類句にいい句はない。これも鋭い指摘かと思います。故意で作ることを言っている訳ではないのですが、人間、ついつい同じような情景、気持ちを安易に読んでしまうことがあることへの警鐘かと。「代表作となる俳句には、その人だけの受け取り方による表現があるはずだから」というのも正にその通りかと思います。

 

八章、客観写生とは対象を深く見ること。「ともすれば月並み、マンネリズムに陥り易い。それを防ぐ唯一の方法は絶えず対象を深く見ることより他にないであろう」というのもその通りだと思います。

 

  流れゆく大根の葉の早さかな  虚子

 

という虚子の句を例にとって説明がありました。一緒に吟行していた虚子の高弟は「この早さが見えなかった」と嘆いたそうです。この句は兜太さんも高く評価していた句でした。

 

九章、独りよがりに早く気づく。「推敲する時には一度作品から離れ、一読者として見直す」。推敲の大切さと併せて基本の大切さの指摘です。

十章、本物の感動を詠む。

十一章、選句は善意のたまもの。選者の立場として「選は悪意でなく善意で持って選ぶべきである(高浜年尾の言葉)」ことを常々心がけて選句しているとのことです。その心構えを投句者も理解すべし、との意味かな?。

 

十二章、俳句とは有季定型を正しくすること。「正しい俳句の条件とは有季定型を守ること」「有季定型こそが俳句であり、そうでないものはいかに優れた短詩であろうとも俳句ではない」。明確に記載されています。最後の章に改めて記載されているのがいかにも”強い主張”と受け止められて大変に印象的です。

 

 

第一部だけで、すでにお腹いっぱい状態。本をよく見ると「第一部から第三部が初心者のための講座で、第四部以降が中級者のための講座」との注釈がありました。僕は第一部だけでこの状態ですから、よちよち歩きの初心者そのものです。奥が深い、というよりも、先が長そう。

 

 

第三部には「季題のあるなし」という章があります。「俳句を作るということは季題と出会い、言葉と出会うことである」ことを分かりやすく説明されています。ある投稿句をめぐって、兜太さんと「楽しい議論」があったことも。「無季容認の金子さんが--中略--『矢張り季題が入った方が良い』というのでびっくりしながらおかしかった」とのことです。『季題のないのは俳句ではない」という虚子の言葉を何回も引用されていますが、このお二人のレベルになると、”言わんとすることは同じなんやろなあ”と思ってしまいます。

 

 

ホトトギス」は1997年12月号で、創刊百年の1200号に達したそうです。この歴史と伝統を「主宰」として、そして、実質的な創刊者のお孫さんとして背負ってるわけですから、これは僕ごときが想像もできないほどに大変なことなんだなあ、と感じます。汀子さん編の「ホトトギス新歳時記」を持っていますが、この編纂も大変な作業だと思います。俳人として主宰として選者として編者として活躍の広さ・深さには驚くばかり。

 

 

それにしても、最近、日本の季節のお天気が変化してきていることには、愕然とするときがあります。かつては「四季」をその通り感じることが出来ていたと思うのですが、昨今では、冬と夏の間にチョコット春と秋があるだけ、なんて思う時があるほど。俳句の季題は、そもそも難しい言葉・漢字が多いと思うのですが、それが更に、日常では目にしない、肌で感じることが出来ないことが多くなっているのでは、と心配になります。まだまだ、勉強不足の身ではありますが、いつまでも「季節」を新鮮に感じ続けることができればイイなあ、と祈らずにはいられませんね。

 

 

コロナがここまで大騒ぎになっていない時に、ドラゴン先生、モッタさんの三人でいつもの反省会をする機会がありました。「『俳句』のお話」をアップしたあとだったので、お二人にとっては格好のツッコミの対象に。僕が真面目に「俳句の本を読んだり、チョット勉強したつもりになると、却って、頭でっかちになって、そして、肩に力が入るようで最近、全く句が作れなくなってます」と弱音とグチをこぼしたところ、口は悪いが心は優しい(多分)お二人からは暖かい励ましの言葉(これも多分)がありました。

 

 

ドラゴン先生のお話では、先生の友達で俳句に凝っている方は「とにかく、毎日、五句書き残す。それをずーっと続けている」とか。俳句上級者のモッタさんは、もっと自然体で「無理して作句する必要はないと思います。何か句にしたいと思う・感じることがあればそれを読んで句にして残せば良いと思います。自分は50句作って一句だけ残すようにしています。あとで読み直すと、その時の気持ち・情景が目の当たりに蘇リます。俳句は素晴らしいと思っています。」とのことでした。 自然体の大切さ!。

 

  

とにかく余りに圧倒されると句を作ることが出来なくなる、変に作句のワザを覚えたつもりになると素直な言葉使いが出来なくなる。”アカン、アカン、楽しむために俳句をやろうと思っているのが逆にストレスになってしまうような。これは打破しなきゃあ、駄作でも何でも作ってブログに載せて読んでもらおう、それが嬉しさ、喜びに繋がるはずやあ。例によって大袈裟に自分に言い聞かせて、以下、三句です。

 

   しらさぎや飛ばずに春虫つつきおり   孔瑠々

 

   行き過ぎて香に呼ばれ沈丁花   孔瑠々

 

   スパっと春電線の無い表通り   孔瑠々 

 

コロナに負けず、俳句のプレッシャーにめげず、お弁当持って散策に行こう、てな気楽な調子で続けることができれば良いのですがねえ。 

  

 

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平和公園、散策。サクラが満開です。強い風に桜吹雪が舞っていました。例年に較べて花がモッてくれているような気がします。外出を控えようとの風潮のなかですが、それでも、結構な数のご家族連れが来ていて、皆さん、花見を楽しんでいました。安心しました。2020年4月4日、撮影。

おまけの二句です。

 

   晴れの日にブルーシート無き花見かな  孔瑠々

 

   サクラ舞う今年はことしだけのもの  孔瑠々

 

 

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ハイビスカスの花が咲きました。今年は蕾が5-6個ついています。次々に咲いてくれると嬉しいなあ。一度にこれだけ多くの蕾をつけてくれたのは初めてです。でも、花は一日、せいぜい二日ほどで終わるんですよねえ。ちと寂しい。2020年4月5日、撮影。

 

2020年4月7日、とうとう「緊急事態宣言」が発令されました。とにかく「医療崩壊」を防ごうということだと思いますが、医療関係の皆さまには更に一層のご自愛をお祈りしたいです。いま顧問をしている会社は、お米・小麦粉・砂糖等々を取り扱っている会社ですが、こういう時には会社としての使命感が問われます。トップの方がその気持ちをシッカリと持って経営しているのが頼もしい限りです。個人的には、自分のことは自分で守ること、家族、特に孫の安寧を祈ることくらいしか出来そうにありません。日常を大切に生活していきたいものです。皆さま、くれぐれもご自愛下さいます様に。