クルルのおじさん 料理を楽しむ

『山頭火』

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すっかり秋らしくなってきました。いつもの散歩コースから望む東山動植物園のスカイタワーです。桜の木もかなり葉を落としてます。2021年9月16日の夕方、17:30撮影。

 

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左;同じ日の平和公園、17:10。秋の空ですねえ。

右;同、17:00。白い彼岸花の中に一輪だけ赤いのが咲いていました。

 

 

下重暁子さんの「この一句」という文庫本を読み返していたら、井泉水、山頭火、放哉、のところに面白い記載があるのを再発見しました。この本は、芭蕉から始まり時代を追って現代までの「108人の俳人たち」を紹介しているもの。やや尾籠な話で恐縮ですが、隠れ家のマンションのトイレの棚に置いてあります。パラパラと読むのにちょうど良い。

 

kururupapa.hatenadiary.jp

以前の記事を埋め込んでおきます。昨年の7月でした(この中で”名古屋の鯱城学園から9月に大学再開の案内が届いたことを書いていました。今年も同じように9月から再開の予定で準備を進められていたのですが、残念ながら、またダメでした。本年(2021年度)は休校が決まりました)。

 

「この一句」の中で「井泉水は子規の下で碧梧桐に出会い新傾向俳句運動に参加、後に自由律運動に走る。季語も季題もいらない。---門下に山頭火、放哉を生んだ」と書かれていて、さらに「季語、季題は日本人の季節感を表し、自然の中で息付いてきた呼吸を感じさせるが、実際に俳句をつくってみると、それにしばられることがきゅうくつな事もある」と書かれてました。下重さんは正統派の俳人(だと思っています)のでやや意外な感じがしましたが、正統派の方でもこのように”きゅうくつに”感じる時があるものなんだとかなり納得しました(彼女は高校の大先輩です。先輩の言うことには素直に耳を傾けてしまう?)。

 

井泉水の次に山頭火、放哉のことが書かれていました。放哉の件で「同じ自由律俳句の山頭火には、感傷や甘えがある。人びとの助けもあって旅が出来たが、放哉はそれを拒否(した生き様であった)」との鋭いコメントが書かれていました。以前から山頭火の句は面白いなあと思っていましたが ”そう言えば、山頭火が(放哉もですが)どんな人となり、どんな生き様であったのかほとんど知らないなあ” と思い起こしました。

 

コロナ下の有難いところは本を読む時間が従来に比べて比較にならない程に増えていることだと思っていますが、早速、いつもお世話になっている千種図書館に足を運びました。

 

種田山頭火」---うしろすがたのしぐれてゆくか―――村上護さん著。ミネルバ書房、2006年9月第一刷。

種田山頭火の死生」---ほろほろほろびゆく---渡辺利夫さん著。文春文庫、1998年10月第一刷。

「はぐれ雲、山頭火」、写真集・小学館文庫編集部編、2002年8月第一刷。

三冊を借りてきました。山頭火山口県防府市の生まれ。大地主の長男。父親が放蕩生活、母はそれを苦に自殺、家産は瓦解。

「自分をとりまく全てが滅びゆくとの強迫観念。出口を求め続けた神経症者の必死の吐露」(渡辺)。アルコール依存、出家得度、「行乞行脚」という放浪生活。「生涯を漂泊行乞の旅に生きた」(村上)。

「『行乞行脚』というと諦念、覚悟を定めたイメージがあるが、山頭火のそれは『泥酔と悔恨』『高揚と悲嘆』ではなかったか」(小学館編集部)。イロイロな見方が示されていましたが、山頭火の句は間違いなく面白いですね。いま読んでも新鮮だと改めて思いました。

 

この旅果てもない旅のつくつくぼうし

夕立やお地蔵さんもわたしもずぶぬれ

分け入っても分け入っても青い山

どうしようもないわたしが歩いている

石に腰を、墓であったか

酒飲めば涙ながるるおろかな秋か

 

父によく似た声が出てくる旅はかなしい

うどん供へよ、母よ、わたくしもいただきまする

うとうとすれば健が見舞うてくれた夢 (「健」は山頭火の息子さんの名前です)

だんだん似てくる癖の、父はもうゐない

 

焼き捨てて日記の灰のこれだけか

日向ぼこして生き抜いてきたといったやうな顔で

いただいて足りて一人の箸をおく

鴉啼いてわたしも一人

 

昨年のNHK俳句でも山頭火フアンの俳人の方がいらっしゃいました。いずれも小澤實さんの「令和の新星」ですが、11月の西村麒麟さんは「どうしようもない・・・」が俳句にハマるきっかけになったとか、12月の北大路翼さんは「・・・、墓であったか」を小学生の時に読んで俳句に入るキッカケになったとか。「・・・箸をおく」は僕の好きな小川軽舟さんの「死ぬときは箸置くように草の花」を思い出しました。

・・・私も一人」は(放哉居士の作に和して)と書かれているそうです。二人は井泉水の門下でお互いをそれぞれに高く評価していたそうですが、会ったことは無かったそうです。山頭火明治15年(1882年)生まれ、放哉は明治18年(1885年)の生まれ。放哉は晩年は小豆島の南郷庵で一人くらし大正15年(1926年)に亡くなりました。山頭火昭和3年(1928年)に放哉の墓参りをしたそうです。

山頭火は最後は四国松山の「一草庵」を安住の死処と定め、一代句集「草木塔」を編む作業をして昭和15年(1940年)に没。辞世の句は、何やらホンワカした感じがして楽しいです。

もりもりもりあがる雲へ歩む

 

村上さんによれば、「昭和46年(1972年)秋に、一気に(山頭火)ブームが到来した」「今や山頭火の俳句が・・・文部省検定の中学生の全教科書に載っている。俳人で全教科書に載っているのは・・・山頭火ただ一人なのだ」そうです。インパクトありますねえ。

「放浪」というのは、それをやったことが無いモノからは”男のロマン”みたいな感傷があるようにも思えます。林芙美子さんの「放浪記」は有名ですが、あれは”ロマン”というような甘いものでは無いように。ヤクザ映画を観終えて外に出てくる人は、その気になって肩が怒っているそうですが、山頭火を読むと自分がやったこともない、また、やれそうにもない「放浪」の気分に一瞬浸ったような気分になっているかもですね。山頭 火の句集を自分のモノにして手元に置きたい気分になっております。

 

 

駆け足で9月のNHK俳句、第一週と第二週の纏めです。僕の備忘録です。お付き合い頂ければ嬉しいです。

 

第一週は、司会が武井壮さん、選者は片山由美子さん。ゲストに明治大学教授の齋藤孝さん。齋藤さんはご存知の通り「声に出して読む」ことを提唱されていますが、早速に近松曽根崎心中・徳兵衛おはつ道行を朗読していました。七五調のリズム、抑揚が宜しく、ご本人の説明では「子供達もこのリズムを大変に喜んでくれる」とのことです。言葉は文化遺産である、五七五は子供達が自分を表現できる良いリズムだと力説されていました。

今週のテーマは「切れ」。俳句の基本は五七五の定型と季語、その次に重要なのが「切れ」ですが、「『切れ』の無い句があってもよい」ことは作品に示されていると。昭和になって山口誓子が「従来の切字を用いずに」新しい文体を確立したそうです。

 

   ピストルがプールの硬き面にひびき   山口誓子

   摩天楼より新緑がパセリほど   鷹羽狩行

   昼寝するつもりがケーキ焼くことに   稲畑汀子

   ひと雨のあとの残暑のことのほか   片山由美子

 

今週の兼題は「秋彼岸」。単に「彼岸」というと春の彼岸のことで、秋の場合は「秋彼岸」または「後の彼岸」と言うそうです。今週の特選三句です。

一席   妻に問ふ亡母の好み秋彼岸

二席   潮先のぐんと寄せくる秋彼岸

三席   人影の濃くなりにけり秋彼岸

 

第二週です。司会は岸本葉子さん、選者は鴇田智哉さん。ゲストに毛利衛さん。日本人初の宇宙飛行士です。番組は9月12日(日)の放送だったのですが、1992年の9月12日がその宇宙飛行に成功した日だったそうです。鴇田さんは「俳句を読むときに読者が得る視野を『句のひとみ』」と呼んでいますが、「句のひとみ」というイメージのキッカケは”宇宙”ということを紹介していました。

 

   つきしろに聞こえ今のがこゑなのか   鴇田智哉

 

「月が出る直前の東の空が白んでいるなかで何か聞こえたような気がした」ことを詠んだ句とか。毛利さんは宇宙飛行中に南極の上空のオーロラ(地上100㎞から500㎞の宇宙のカーテンだとか)を通過する時、雅楽の調べ、バロックの音楽が聴こえ、また、香しいかおりを感じたことを話していました。飛行船の中で飲む人口の水がまずいこと、帰還後にもらったコップ一杯の地球の水の美味しかったこと、微生物の働き、宇宙や微生物の視線、「俳句は生きていることを表現する手段だと感じた」と真面目に熱心に話をされていたのが印象的でした。

 

今週の兼題は「柘榴(ざくろ)」。特選三句です。

一席   ひとつまたひとつ穴あけ柘榴食ぶ

二席   実柘榴や心はやはり胸のここ

三席   きゆむきゆむとくちいっぱいの柘榴かな

 

毛利さんは北海道生まれで「柘榴を見たことも食べたことも無い」と真摯に質問されているのも好感を持ちました。1948年生まれ(僕よりも2歳年長さん)だそうですが、姿勢も良く若々しくお見受けしました。今週のテキストのテーマは「見えないものを見る『句のひとみ』」。言葉の世界においては見えないものを視覚化して表現する場合がある。その表現から読者は感覚を刺激され、その句に特有の視野を得ることが出来ると。「無いモノを見る」句が紹介されていました。兜太の句は僕の大好きな句の一つです。

   梅咲いて庭中に青鮫が来ている   金子兜太

   天の川わたるお多福豆一列   加藤楸邨

 

鴇田さんは今回が最終回。「句のひとみ」!面白いテーマだったと思います。

 

   

おまけの料理です。

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左;ツナ缶、タマネギのおやき。からし醤油で。

右;にらとじゃこのチジミ。ポン酢醤油で。

すっかり粉モン文化です。9月は18日(土)に予定していた「長島愛生園をめぐる見学クルーズ」が中止となるなど、外出・外食の機会が激減してます。その分、”家メシ”の機会が増加。古い料理本のレシピを参考に一人家メシを楽しんでいます。両方ともに「きょうの料理ビギナーズ」の9月号。2009年と2007年のレシピです。