イキナリですが、来年は「丙午(ひのえうま)」の年!、なんですね。
先日(久しぶりに)心音先生にレッスンをして頂いて、その後、旦那さんを交えて歓談。その時に旦那さんが「丙午」を話題にされたのですが、全く頭に無かったのでツイツイいい加減に返事してしまいました。気になっていたので隠れ家に帰ってから調べてみたら、その通り。来年2026年は60年に一度巡ってくる「丙午」の年です。
全く認識しておりませんでした。世間でも余り話題になっていないのでは?とやや不思議に思っていたら、12月17日(水)、日経の内外時評欄に
「令和の『ひのえうま』どう走る」(論説委員、辻本浩子)
という記事が掲載されていました。60年に一度、ですから前回は1966年の「昭和の丙午」。おぼろげながらも何やら世間が大騒ぎしていた記憶が残っています。
この記事によると「(前回の1966年は)出生増加のトレンドの中で、出生数が前年よりも25%落ち込み、人口ピラミッドに大きなへこみをつくった」そうです。1966年は「いざなぎ景気が始まった年、ビートルズが来日した年」。
この記事の主旨は「『令和の丙午』の年は少子化のトレンドを変える正念場の年になる」とのことです。あまり話題になっていないところを見るともう「迷信」は無いのですかねえ。そもそも「丙の午」がどういう意味かピンとこない人がホトンドなんでしょうかね。
2025年の今年の漢字、第一位は「熊」と発表されました。その数日後、仲間からラインで送られてきた写真です。

これは笑ってしまいました。この友人は最近、AI画像に凝っているので彼が自分で作成したのかと感心しましたが「友人から送られてきた」とのこと。発想が面白い&素晴らしい、且、恐るべしAI技術かと感じ入りました。この写真をキャッチ画面の写真にしようと思ったのですが、その友人からも”出所不明”と連絡あり。迷惑をかけないように別な写真を使いました。
この仲間から別途ラインが入りました。
”「天皇家の歴史と謎」が完全に解けた。「九州からの東征、ヤマト王朝の樹立」についての苦節6年の研究成果を公表する” とのこと。来週、仲間四人で会食するのですが、その時に研究発表となりそうです。
謂わんとする主旨の一つは「神武天皇は創作上の人物、実在のモデルは応神天皇(第15代)」とか。神話と現実世界の話が出て来て、昔、読んで面白かった梅原猛の本を思い出しました。「日向三代」のことを書いた本。本棚を探しました。
「天皇家の”ふるさと”日向をゆく」、梅原猛、新潮社。2000年1月初版、2003年10月第9刷。2006年の7月に宮崎空港の本屋さんで買った本です。パラパラと読み直し始めたらイロイロな事を思い出しました。
思い出話はあとで(余裕があれば)記載することにして、「神話と現実」について、この本に記載されている梅原猛さんの考えの要約です。
●古事記、日本書紀の日本の神話について、1. 高天原神話は天上での物語、2. 出雲神話は地上での物語、3. 日向神話は具体的な記述が多くなっており神話と歴史を結ぶ接点。
●日向神話は「日向三代」の皇室の祖先の物語。四代目=初代の天皇=神武天皇が九州から東征、大和を征服して大王(おおきみ)から天皇家になる。
●戦後の古代史学は津田左右吉(1873年~1961年)の論説を金科玉条とした。津田は、「記紀における神話時代および応神天皇以前の時代の話を、六世紀の大和朝廷が自己を神格化するためにつくった全くのフィクション」と考えた。津田の考えは「応神天皇以後の天皇は中国の史書に記されている。だから、それ以前の記紀の記述は全て疑わしい」というもの。
●戦前の歴史学は日本神話を軍国主義の道具にしようとした。一方、戦後の歴史学は津田の学説を拠り所として「記紀の記述を何らかの意味で史実とする学者を軍国主義歴史感を復活するもの」と批判した。
●(梅原の津田への批判)津田は文献のみで記紀を批判。現地を訪れていない。(津田の記紀論は)伝承を扱う民俗学、遺跡を調べる考古学と全く無関係に提出されている。
●(梅原は)このような考えのもとに探求の旅に。1998年(平成10年)秋から1999年(平成11年)2月にかけて三度、日向・高千穂から霧島・隼人、薩摩半島への旅をしてこの本を執筆した。
梅原さんの考え方が分かり易く書かれています。「記紀」に対するスタンスに好感が持てると感じます。
梅原が考える記紀神話の時代区分は、
●アマテラス、ツクヨミ(の尊)、スサノオ(の尊)=弥生初期・前半
●ニニギ(の尊)以降=弥生後半から古墳時代。
〇アマテラスは農業神であり、日向国は最初の稲作農業の地である。アマテラスの息子の名前=アメノオシホミミノミコトは”霊力をもった天孫族の立派な稲穂の長者”の意味。その結婚相手はヨロズハタトヨアキツシヒメノミコト=”多くの機織りで織られた優れた布の姫””。稲作農業と養蚕はセットになっていた。発達した稲作農業と養蚕技術を持って高千穂の里にやってきて、この地の支配者になった種族=天孫族の話が伝承されている。
〇このお二人の子どもが天孫降臨のニニギノミコト(ニニギが日向一代目)。降臨したニニギの道案内をしたのがサルタヒコ(縄文人、天狗の顔)、サルタヒコは道案内をしたことがきっかけでアマテラスが派遣したニニギのお供の女神=アメノウズメ(弥生人、おかめ)と結婚。狩猟採集の土着の縄文人と、稲作農業=渡来した弥生人との結婚が日本民族の成立を示すもの。
〇更に、ニニギの結婚相手も(天孫族ではなく)土着の王オオヤマツミの娘、コノハナサクヤヒメ。二人は一夜の契りで三人の皇子を。長男が海幸彦、三男がヒコホホデノミコト=山幸彦=日向第二代の王。
〇ヒコホホデ(山幸彦)は日向王朝二代目にして山・田(平野)・海の三つを支配した。ヒコホホデ(山幸彦)の結婚相手はワタツミノカミの娘トヨタマヒメ。ワタツミの神は後にハヤトと呼ばれる漁撈民。漁撈民はヒコホマデの父系の稲作農民、母系の狩猟採集民からも一段下の民をみられていた。ワタツカミの娘との結婚が勢力拡大に寄与した。
〇このお二人の子供がウガヤフキアエズノミコト(日向三代目)。三代目はナント叔母(母トヨタメヒメの妹で養育係)のタマヨリヒメと結婚。この二人からは四皇子が生まれた。この子供達が日向の国を出て大和に攻め上ることになる。この四番目の皇子が神武天皇=初代天皇。
ということが訪問した各地での伝承、遺跡に基づき詳細に紹介されています。
梅原さんのまとめは、
●実際に記紀神話を繙けば天皇の祖先である神々は結構好色で且つ残酷でとても神聖とは言えない。「記紀」は人間性に富む土地の王の姿を赤裸々に捉えている。
初代天皇である神武天皇には土着の民の血が多く入っている、天孫族の血はわずか八分の一である。天皇の神聖性を強めることにならない。「記紀」の作者は意外に素直な気持ちを持っていて、事実をそのまま語ったのではなかろうか。
●また、日本が他国より優れた国であるとか、世界を侵略すべしなどとは全く書かれていない。伝承を大切にして、このような形で国を作った姿をうぬぼれにも溺れず、自棄にも陥らず、冷静に見つめるべきではないか。
梅原猛さんの立ち位置・スタンスが秀逸で面白いと思います・・・実際に足を運んで、その地の民話・伝承に注意深く耳を傾ける。遺跡・遺物、山・海の景観を見て感じる。当然、右翼・左翼には与していない・・・。
来週の仲間の発表会にはこの梅原さんの立場で望んでみようかと。卑弥呼、邪馬台国等々の話も出て来そうなのでどんな展開になるのか楽しみです。ちなみに、この仲間は(も)天皇肯定派です。
かつてのブログ記事(2022年7月31日)です。木曽三川、ドラゴン先生との遠足、円空仏、梅原猛さんのことをたくさん思い出しました。懐かしいですねえ。
この記事の中に埋め込んでありますが、
の中でもこの本のことを書いていました。改めて梅原さんのご冥福をお祈りしたいと思います。
長くなりますが、NHK俳句です。12月第二週、選者は岸本尚毅さん。アシスタントの紅甘さん、司会の柴田さんと俳句のお勉強です。今回の兼題は「石」。虚子の句の解説がありました。
冬ざれや石に腰かけ我孤独 高浜虚子
この句の元の句は
冬ざれの石に腰かけ今孤独 高浜虚子
であったそうです。「の」⇒「や」、「今」⇒「我」に直したと。見事な推敲と感心されていました。
テキストに面白いと思う句がありました。
寒鯉や石の間をゆっくりと 宵子
明らかに横縞一つ茎の石 松藤夏山 (「茎の石」は「茎漬け」の傍題で漬け物の重石)
「石」というと、
石に腰を、墓であったか 種田山頭火
を思い出しましたが、テキストには記載ありませんでした。
特選三句です。
一席 五ユーロの焼栗パリの石畳
二席 大根を頼みましたよ石を置く
三席 胆嚢に石ころ三つ草の花
駄句です
鉢植えに石ころ置いて冬日向 孔瑠々
サボテンの端に石のせ冬日向 孔瑠々

この植木鉢を句にしたかったんですがねえ。「日向」が入っている季語見つけて使ってみようと思ったし・・・難しいですね。
陶芸クラブ、水墨画クラブ共に本日で今年度の最終回。来年までしばらくお休みとなります。年賀状、印刷注文がウェブでの操作が上手く出来ず手書きにすることにしました。古いハガキ、書き損じハガキの交換をしようと郵便局に行ったのですが、お年玉付き年賀はがきには交換出来ないとのこと。
”ますます賀状離れが進むでしょ!”と文句の一つも言いたくなりました。
メール、ラインで交信をする機会の無い方々との賀状の交換は続けたいと思っています。昭和の人間です。
昭和100年、戦後80年ももうすぐ「行く年」になってしまいます。やはりチト寂しいですね。
長くなりました。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。