クルルのおじさん 料理を楽しむ

愛・地球博記念公園⇒「ジブリパーク」に

愛・地球博記念公園が「ジブリパーク」に生まれ変わる!。6月1日の新聞記事に出てました。地元名古屋の新聞のみの報道かも知れません。

愛・地球博愛知万博)は、2005年に開かれました。メインの会場は、愛知県長久手市にあった愛知青少年公園(1970年開園)です。その万博の跡地が、愛・地球博記念公園と呼ばれています。万博開催時にも人気が高かったスタジオジブリの「サツキとメイの家」は、その後も残されていて今も公園の一番人気、「となりのトトロ」に登場する昭和30年代の家を再現したものです。

5月31日に、愛知県の大村知事とスタジオジブリの鈴木プロデューサーが名古屋市内で会談して大筋合意したそうです。大村知事が「ジブリの世界観は、愛・地球博の理念を継承することに繋がる」と判断し、県の全面協力を決めたと。

ジブリパークは宮崎俊監督が描いた「となりのトトロ」の世界観を、四季折々の草花や木々に溢れる自然豊かな園内200ヘクタールで再現する。2020年代初頭のオープンを目指すとのことです。またジブリパークを作るために、木々の伐採等の新たな開発はしないというのがコンセンサスになっている由。

 

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愛・地球博記念公園にあるサツキとメイの家」です。6月23日撮影。炊事場、書斎等々、昭和30年代当時のママに保存されていて、古き良き時代を体験出来るようになっています。

 

クルルのおじさんは、この「ジブリパーク」を応援したいと思っています。コンセプトが愛知に合致しそうな気がします。 『名古屋の魅力』、『名古屋の不思議』で書いてしまいましたが、「魅力の無い街」「行きたくない街」をいかに返上するか、大変な課題になっている名古屋ですが、これが切っ掛けになって名古屋・愛知に対する評価が変わる可能性も秘めているのではないかと。

そもそも、観点をチョット変えると、名古屋・愛知は「住みやすい街」として大変に高い評価を受けています。名古屋・愛知から他都府県に移住するかたの比率が低い。大学を他都府県に行っても、また、この地域に戻ってくる。これは、トヨタさんを筆頭に産業基盤が強固、要するに働く場所がある、就職できる会社がある。風土的にはもともと親子一緒の生活を皆さん慣れ親しんでいる。結婚しても親と同居する。2世代、3世代が同じ地所に住んでいるのも珍しくない。都市型生活も楽しめ、また、周辺の豊かな自然環境にも癒される。東京には行ってみたいとは思うが、住みたいとは思わない。こんな有難い場所は他には無いという見方です。

大前提は、地元に立派な企業、経済圏があって、そこで働くことが出来る、生活することが出来る、ということだと思います。トヨタさんには益々頑張っていただかなければいけません。

因みに、愛知県の人口は今年初めて「自然減」になる可能性があるとのことですが、「社会増」の為に全体の人口はプラスを維持しているそうです。「自然増・減」というのは、生れた数から死亡者数を引いた人口の増減、「社会増・減」と言うのは、県外からの転入者と県外への転出者の差を言います。これまで愛知県は、東京都、沖縄県と同様に自然増、社会増の両方を維持している数少ない都府県の一つであった。2017年4月の統計見通しでは、年間では「自然減」になりそうとのことです。「自然減」になるのは、1956年の統計開始以来初めて。「社会増」の背景は、やはり、製造業を中心とした経済の好調さによるものと考えられています(5月10日、日経)。

 

ジブリパーク構想は、こんな名古屋・愛知の土地柄に合う、地元の方にも歓迎される、そして、かつ、街の魅力も高め、訪問してみたい街にも繋がるのではないかと感じるんですよね。 この発表のあと、何故もっと盛り上がりがないのかが不思議なくらい。まあ、まだ、県とスタジオジブリは合意したばかりで、今後、運営方法などを協議して企業の参画を募る予定だそうですから、今からの話かとは思いますが。

今年の4月、名古屋市の魅力を発信するためのキャッチコピー「名古屋なんで、だいすき」が公表されました。5月後半には、ロゴマークも披露されています。名古屋らしく?チョット斜に構えて「名古屋なんて」と言いつつ「だいすき」と落としているのはナカナカの出来栄えかと思います。これに愛知の「ジブリパーク」が加われば、魅力度が大幅にアップするものと期待したいところです。

 

愛・地球博記念公園、通称「モリコロ公園」=モリゾウとピッコロの公園、将来の「ジブリパーク」は、名古屋駅から地下鉄東山線で終点の藤が丘に行き、リニモに乗り換え(リニモというのは、リニアモータカーを縮めた愛称)、愛・地球博記念公園駅に。名古屋駅から45分ほどで行けます。公園の周辺も自然がゆったりと残されている。45分で自然がゆったりと残されてところが名古屋・愛知の魅力だと思います。

 

愛知万博の前に、日本で初めて万博を開催したのは、大阪万博。1970年のことです。僕はたまたま偶然ですが、この二つの万博の時には、開催場所の大阪、名古屋に住んでまして、地元の人間として見物に行きました。

1970年の大阪万博の時は、まだ大学生。謳い文句は 「EXPO’70、人類の進歩と調和!」 よく覚えています。それこそ高度経済成長を謳歌していた日本国の国威発揚の場であったような。岡本太郎さんの「太陽の塔」も斬新なものでした。ご自分の顔をデザインされたのかとビックリしました。アメリカ館の「月の石」の展示が爆発的な人気で何時間待つの分からなかったとか。関西人独特の突っ込みでミンナが「人類の辛抱と長蛇」とおちょくっていましたが、予想をはるかに上回る入場者数に達し大成功だったはずです。いま思えば、あれが、大阪のピークやったんかもしれませんねえ。

2005年の愛・地球博の時は、商社時代の東京生活からメーカー勤務の名古屋・碧南生活に移って暫くした時でした。「愛知」にかけて「愛・地球博」と命名。これはウマいと感心したのを覚えています。21世紀になって初めての万博で、万博そのものも従来の参加各国のお国自慢合戦とは趣を変えていたと思います。 

 

なんと大阪が2025年の万博に挑戦するそうです。 政府と大阪府による2025年万博の誘致活動が本格化しています。6月7日には、誘致委員会が誘致活動のシンボルとなるロゴを発表、絵文字でにっこり笑った人々の輪。「Expo2025 osaka-kansai/japan」。

6月13~14日の博覧会国際事務局の総会で、大阪府の松井知事が立候補国としてのプレゼンをやりました。これに先立ち政府は4月に立候補を閣議決定。他にもフランス、ロシア、アゼルバイジャンが立候補しており、開催地は、2018年11月の総会にて加盟国の投票にて決定される由。会場の予定地は市が開発を進める人工島「夢洲」。大阪再生のきっかけにと期待されているとか。(6月19日、日経)。

 

 2020年は東京オリンピックの開催が決まっていますが、これに続き、2025年に向かって大阪は再度、夢洲での万博の開催を志向し、一方で、愛知は跡地の公園の運営を民間中心にして2020年代初頭のオープンを目指すと。比較する意味はあまり無いかもしれませんが、今回は、愛知に軍配が上がるような気がして面白いですね。

 

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同じく愛・地球博記念公園、林床花園。6月23日撮影。

庖丁

図らずも、前回の『中華鍋』に続き料理道具編、その2.『庖丁』です。昨年の9月のブログ『料理って』『続、料理って』で書きましたが、火=料理というのが西洋料理の基にある考え方。かたや、日本料理の神髄は、割烹。すなわち、『割』=切ること、割ること、『烹』=火を用いて煮たり焼いたりすること。つまり、日本料理では「いかに切るか」ということが「いかに火を入れるか」ということと同等以上に重要視されています。この文脈から言えば、僕も最初に『庖丁』を書いてから、その後で『中華鍋』を書く方が良かったのかしらと反省しております。

確かに、日本では家庭で料理をしなくなっている状態を「庖丁の無い家庭」とか「マナ板が無い台所」とか表現してます。切ることに使う道具が、日本では料理・台所・家庭を象徴しているのかも知れません。その流れで言えば、欧米は火がベースだから同じことを表すのに「コンロの無い台所」なんて言ってるのかも知れませんね。電子レンジで全て対応して食生活を送っている方もいらっしゃるような気がしてきます。

 

その庖丁ですが、僕は何の変哲もない、いわゆる、三徳庖丁を使っています。肉、魚、野菜、全てに対応できる「三徳」=万能庖丁という意味だそうです。僕は、野菜大好き人間ですから、庖丁を使っているシーンを振り返ると圧倒的に野菜を捌いているところが出てきます。玉ねぎのみじん切りは最初は手間と時間がかかりましたが今では得意技の一つになりました。キャベツの千切りも楽しい作業かと。雑誌か本で栗原はるみさんが「ただひたすらにキャベツを千切りにするのが大好きです云々」という表現をされたことを覚えていますが、その気持ちはよく分かるように思います。

キュウリの輪切り、トントントンと切るのも楽しいと思います。秘密の技ですが、マナ板の上でトントントンと切るのではなく、空中で、左手にキュウリを持ち、右手に包丁を。手首を柔らかくしてグリップだけで包丁を動かしキュウリを輪切りにすることが出来ます。上手くいけば3-5㎜程度には均一にカット出来ます。問題点は、切ったキュウリの輪切りが流しのなかに散らばってしまうこと、および、やはり危険なことです。よい子の皆さんはマネをしないでください。最近は庖丁を使わず、1.5㎜程度の輪切りが簡単に出来るスライサーを使っています。便利な道具があるものです。

レタスを丸ごと買ってきて保存する技も覚えました。単に半分にカットしてそれぞれの芯のところに庖丁を入れて芯を取り除くだけです。レタスですから庖丁が気持ちよく入ります。それをラップまたはビニール袋に入れて冷蔵庫に。最低1週間は新鮮、パリパリ状態が維持出来ます。その他、大根、ニンジン、ジャガイモ、かぼちゃ(ちょっと硬いか)等々、野菜を庖丁で切るということには、何か「快感」が伴っているかも知れません。スパッと切れるから。僕が野菜料理大好きなのは、切るのが気持ち良いというのも影響しているかと思うくらい。

 

庖丁は、右手の親指と人差し指で刃元の腹をしっかりと握ります。人差し指を庖丁の峰に添えたりしない。残りの三本で柄を握る。これはゴルフのパターの握り方と一緒なので気にいっています。構えは、まず、まな板に正対。右足を半歩後ろに、そうすると体の面がまな板に45度の角度になります。これは自分で編み出したスタンスだと自負していたのですが、残念、その筋の本には、同じ説明が随所に見られました。皆さん同じようなことを考えるものだと感心しました。左手の指は、第一関節を柔らかく垂直に落として食材を軽く押さえる=横から見れば庖丁の刃と並行になっている。安全第一を心掛けています。

 

「有次と庖丁」という本があります。江弘毅さん著。新潮社。2014年3月初版。思い出してザアっと読み返してみました。最初に読んだときには全く記憶に残っていませんでしたが、改めて読むと面白いことをたくさん再発見しました。

僕が使っているのは「三徳庖丁」ですが、この庖丁は、両刃の牛刀から派生したものだそうです。意外と最近になって出来たもので、洋食が家庭に入り込んだ高度成長期に日本で作られたものだそうです。その基になっている牛刀というのは、文明開化で西洋化が進んだ東京で(牛・豚の肉料理に対応するために)肉を切るため両刃の新しい庖丁を東京・横浜の鍛冶屋、包丁屋が作ったものだとか。それまでは、庖丁と言えば「和庖丁」だった訳ですね。

「有次」というのは京都・錦市場でただ一軒、庖丁・料理道具を取り扱っているお店、和庖丁の老舗です。ご当主は何んと18代目になられるとか。このお店は藤原 有次という方が刀鍛冶として永禄三年=1560年に創業されたそうです。明治から大正にかけて包丁が主要な品目となり、鍛冶屋さんから包丁屋さんに。その時に、堺の鍛冶屋さんである沖芝一門の「打刃物」「本焼き庖丁」を取り扱うようになった。この沖芝一門も元々は村上水軍の刀鍛冶で広島・京都・堺の世界で有次さんと深い繋がりに。刀匠の伝統的な鍛冶仕事、鉄を打って鋳造する打刃物が今や世界的にも高い評価を得られている由。ちなみに、洋庖丁、三徳庖丁のほとんでは、抜刃物=鋼をプレス機で型抜きするものとのことです。

このお店、ここの包丁が凄いと思うのは、お客さん(プロの料理人、素人の個人を問わず)と包丁一本で何十年ものお付き合いを続けられていること。京都の歴史と伝統そのものが支えてくれているのかとも思います。庖丁に対する日々の”お世話”と定期的な”研ぎ”の重要性そして喜びをお客さんと共有されている。当主さん「大げさに言えば、よい鋼の庖丁は人の性格をも一変させる。ずぼらな人が良い庖丁を使うことによって、お世話することが好きになる。そうすると道具が喜んで役に立ってくれるから、余計にまたお世話したくなる。それを見ている子供たちは当然素直ないい子に育ちます」(註:原文は京都言葉で書いてあり、もっと味わいがあります。)

この考え方(思想ですね)を基に、更に更に、深く和包丁の世界を知ってもらうために「有次」のお店では、包丁研ぎ、魚のおろし方、料理、の三つの教室を開いていると。どれも予約がずっと先まで埋まっているそうです。古い割烹の料理人さんは、有次の柳刃庖丁を三十年以上使っており、「研いで研いで、ちびてちびて」そして、ぺテイナイフになっても使っているとか。

 

昔むかし「庖丁一本さらしに巻いて」と言う歌詞の歌謡曲がありました。「月の法善寺横丁」、歌は藤島恒夫さん。昭和35年=1960年発売。大阪では結構流行っていて子供の頃に訳も分からず歌っていたのを覚えていますが、今回、初めて時代環境と「庖丁」の重みが理解出来ました。「庖丁」は花形職人のシンボルだった。大正後半から昭和初めの時期、大阪や京都で対面式の板前割烹の料理屋スタイルが確立していたそうです。それまでの料理店、料亭では、料理人は奥の厨房で料理する。それを仲居さんが座敷に運んできて座敷のお客さんにだすというスタイルですが、板前割烹、上方割烹では、客の目の前で包丁を握り、その切れ味と腕前を披露する。割=庖丁方、烹=煮方とに分かれていたらしいですが、やはり、庖丁方が花形であり、庖丁方の板前にとっては、打刃物・本焼き庖丁は大変なステイタス・シンボルであったと。お客さんの前で魚を捌き刺身を引く。出来上がった皿の上の料理を鑑賞する以前に、板前の庖丁捌き・調理プロセスを目の当たりに出来る。日本刀様の刃紋を持つ庖丁の腕と技があれば男一匹カッコよく生きていけた時代。この本の表紙の帯のコピーには「有次===包丁こそ和食である。」と書いてありますが、なるほどと納得させられたような気がしました。

 

ここで漸く気が着きました。そうか、僕が全く頓着しないで三徳庖丁を使っているのは、やはり、魚を捌くことをほとんどしていないからだ。「割」の基本は、魚を捌く、刺身を引く。僕には、まだ、出刃庖丁、柳葉(刺身)庖丁を使う場面がないから気にならないでいたのか。料理の奥も深いなあ。いつの日か、京都に行って、庖丁を買いたいと思うようになるかしら?

 

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 留守宅の永良部のゆりが満開。これだけ咲いてくれると豪華です。2017年6月11日撮影。

 

おまけ

数年前、名古屋のマンションの近くにあるカウンターのステーキハウス(板前割烹ステーキハウスだ!!)で、メインデッシュのあとですが、チーズを出してくれました。ワインとチーズの組み合わせは、僕が大好きなものの一つなので。普段は、バゲットを普通に切って、それにチーズをのせて頂いていましたが、このお店ではホントに薄く(3㎜程度のイメージ)切って、ちょっとオーブンで炙ったものを添えて出してくれました。チョット炙ったバゲットは蝶々の葉模様のように美しく。もの凄く美味かったです。それこそ目の前で切ってくれましたが、あの時のナイフ(庖丁)捌きは神業に思えました。パン・バゲット切り用のギザギザのついた刃の長いナイフではなかった。今思えば、刺身庖丁のような鋭い刃の細身の長い庖丁のように思えます。マンションの台所でやってみても上手くカット出来ませんでした。バゲットが違うのかと思っていましたが、庖丁が違ったのかしら。大将にイロイロと教わっておけばよかった。このお店は、数年前に急に引っ越しされてしまいました。残念。

 

 

中華鍋

手元に中華鍋があります。打ち出し式のプロ仕様のものです。横浜市金沢区にある山田工業所製。特注でIH対応型になっています。厚さは1.6mmです。通常のものは1.2mmとのことなのでチョット重いですが熱容量は十分。打ち出し式というのは、鉄板を数千回ハンマーでたたき出して鍋を作る。この山田製作所が国内では唯一のメーカーとのことです。この会社以外はほとんどがプレス式の製造。

僕の名古屋のマンションがIH対応の台所なので、打ち出しの中華鍋の底をわざわざ平らにならして作って頂きました。それも、平らな底の面は鍋の周りの縁の面と並行では無く、わざわざ手元の方に底をずらして作ってあります。つまり、コンロの上に置くと、自然に手前が下がり、奥が上がっている状態になります。

これは、IH対応ではコンロに底を着けたまま料理をするので、前後に揺するのに捌きやすい様に工夫されたもの。厚みを1.6mmとしたのも、ガスコンロのように鍋を持ち上げる必要もなかろう故、置いたままを想定して熱容量を大きくとることを狙ったもの。まさに世界に一つの僕だけの中華鍋!。

これは、先輩というのか、同志というのか、お世話になっている方というのか、お酒友達というのか、とにかく、楽しく一緒に飲んだくれることが出来る先生からのプレゼントです。「ドラゴン先生」。このブログでの通称です。もう十年近くのお付き合いになるはずですが、ある時、例によって一緒にお酒を飲んでいる時に、料理の話になった訳です。普段でも盛り上がるのに、お酒が入っていれば、もう、お互いに絶好調。得意料理の極意を開陳したり、それはそれは大変に盛り上がってしまいました。それ以来、会食の時には(必要な相談ごとがあっての会食ですから真面目な話が半分、いや、もっともっと、真剣な会話はしております。念のため。)料理の話は必ず出るようになりました。最初は、腕前は五分五分かと思っていたのですが、実際は敵の方が奥深く、経験も長そうだ、形勢は大変に不利な状態であることが理解できるようになりました。

そして、最近とどめを刺されました。鍋談義。「やはり、それなりの専用の中華鍋は持つべきである。よい道具は長く使えば使うほど馴染んでくる。」vs「テフロン加工のフライパン、便利で、そしてダメになったら使い捨ての道具。」激論を戦わせ、敗色濃厚ながらも徳俵一枚で踏みとどまり、再戦を約束して解散。その日は千鳥足で家に帰りました。

 

しばらくしてドラゴン先生から連絡があり「暇な時に事務所施設に立ち寄ってくれ」と。ドラゴン先生から呼び出しが掛かるというのは珍しいことなので、たまたま都合が悪くなかったこともあり何事かと日を置かずにお邪魔しました。渡されたのがこの中華鍋。「すでに空焼き済みである。錆止め剤の処理等も済んでいる。今晩すぐにでも料理に使える。」とさすがにプロの発言。なんでも30年来この鍋で料理を続けている由。いやはや、大変な(料理の)経歴の先生と料理の話をしていたものか。反省、落ち込みながらも、そこから立ち直るのが早いのが取柄です。その日はマンションに直帰し、袋をあけて改めてビックリ。前述の通り、これはただモノでは無いという感じが伝わってくる鍋でした。

 

それ以降、二週間ほどで5回か6回は使いました。まずは、何んと言ってもパラパラ炒飯。これは僕の得意料理です(多分、世のおじさん方のほぼ全員の得意料理かと思いますが)。道具が良いと気分も良くなるもので、出来栄えに大満足。わざわざ持ち上げる必要が無いように底を平らにしてもらっているのですが、敢えて持ち上げて、あおり返す。この技は最近ようやく出来るようになりつつあったものですが、これが、スパッと決まりました。重さがある方が返ってバランスがとりやすいのかも知れません。IHではカッコ付けるだけの技ですが、これが出来るとチャーハンが美味しく出来るような気がします。全く、自己満足の世界です。「きょうの料理」のテレビ番組で料理研究家の土井善晴さんが、見事にフライパンを煽ってご飯返しの技を披露「この瞬間が私は大好きです。生きていて良かったと感じるんですよ」てな趣旨のことをシャレ?でおっしゃってますが、あれは本当にカッコよいと思います。

 

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これが、その鍋。「戦艦ヤマト」と命名しました。ドラゴン先生からこの鍋を使用するに際しての指導がありました。「使用する時には、煙が出るくらいまで熱してから油を入れる。使用後は中性洗剤を使いタワシで洗って良し。洗った後は、よく乾燥させること。巷間言われる、洗剤で洗ってはいけないとか、使用後は油を塗るべし、というのは迷信である。自分は、こうして30年以上この鍋を使っているが、今も気持ちよく使える。長い期間使っているうちに油の酸化膜がこびりつき焦げやすくなったときには、改めて、から焼きをして油を馴染ませれば新品同様になる!。から焼きは、火力が強ければ短時間でも出来るが、家庭用のコンロでは30分以上はかける方がよい。」と。いやあ、30年の重みが詰まっていると感心しました。

とは言え、先生のお言葉ながらも、今の段階では、僕は使用後には油を塗って(洗って乾かしてその後に)使っております。油を塗ると何とも重厚な色艶になります。見ているだけで楽しくなるような。その精神状態で記念に撮影したのがこの写真です。「戦艦ヤマト」の気配を感じて頂ければ嬉しいです。

 

もちろん、鍋は観賞用ではありません。使ってナンボ。道具が良いと何を作ろうかと楽しみになるものです。初めて分かりました。それ以前から、健康のこともあり「酢玉ねぎ」を楽しんでおりました。この酢玉ねぎをベースに出来る料理はなんだろう、というのが最近のテーマであったのですが、「戦艦ヤマト」を見ている時に、ハタと閃くところがあったのです。

 

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これがその料理。我ながら上手く出来たと自画自賛。わが生涯ベストの料理です。

鰯の手開き、酢玉ねぎ、ニンジンとピーマン、忘れてはいけないのが、クルルのきびオリゴとしょうが。これで完璧です。せともの楽市で買ったお皿に盛り付けて完成。このレシピは、クックパッドの「クルルのおじさん」にアップします。本日は「戦艦ヤマト」をプレゼントして頂き、料理の意識が高揚しているクルルのおじさんの料理自慢でありました。

 

 

ドリアン

マレーの物語, 三部作で完結と考えてましたが四回目になります。お付き合い下さい。

 

ジョホールバルでは一軒家の大きな家に住んでいました。現地では高級住宅地の一角にあります。門から玄関までちょっと登り坂になっています。家の前の道路の向こう側は海に面している。海の向こうはシンガポール。一階は、洒落た応接間に台所、食堂。それにアマさんの部屋(住み込みのお手伝いさんの部屋=倉庫部屋)、風呂、トイレ。二階には大小の部屋が三つ四つありました。アパートまたはマンションという選択もあったのですが、あまり設備が良いモノがなかった(我々が帰国する時期になると、新しい立派なマンションの建設ラッシュになっていました)。広い庭。現地ではどこにでも植えられているハイビスカスとブーゲンビリア。裏庭には、バナナの木もありました。丁度、長男がバスケットボールに興味を持っていた時だったので、庭にバスケットボールのリングを一つ作ってもらいました。日本の公園によく置いてあるワンオーワンが出来るイメージです。

 

家の庭の排水溝にはイグアナが住んでいました。ある朝、家でのんびりしている時に今から庭を見て発見。ビックリ仰天。子供たちも呼んで、皆で居間のガラス越しに見物。僕もこの種の動物は全くの不得意ですが、家族も同様に大嫌いでした。怖がっていましたが、物珍しさもあって長い時間見ていました。「イグアナはネズミを食べてくれる。ニンゲンは大きいからイグアナがニンゲンを恐れている。人間を襲うことは無いから安心しろ」と子供たちに説明しましたが真偽のほどは定かではありません。近所に日本人家族が住まれており、こちらは動物大好きのご家族。爬虫類系も好きで、家の居間をトカゲ、カメが散歩しているような。一度は、イグアナを鶏の肉でおびき寄せ捕獲して家のお風呂場でしばらく飼っていたとか。同じイグアナであったのかどうかは全く分かりません。

 

 ドリアンという果物があります。マレーシアでは果物の王様と呼ばれています。マレーの皆さんは、マレー半島が原産地とおっしゃってます。マレー系・中国系・インド系を問わず嫌いな人はいないのではないかと思います。

ジョホールバルの町では、道路沿いの露店とかリヤカーに乗せて良く売っていました。熟して食べごろになると自然に硬い殻が割れてくる。この頃になると特有の強烈な臭い(におい)がします。香りではなく、はっきり言えば臭い(くさい)。腐敗臭のような臭い。よくこんな臭いのものを食べるものだと思うくらい臭い。当時は、日本では出回っていなかったので食べたことはありませんでした。最初に食べる時には勇気がいります。まだ、家族が来る前に、駐在の先輩から「騙されたと思って食べてみろ」と勧められ食べさせてもらいました。

露店のおじさんに食べごろの美味しいものを選んでもらいます。その場で、彼が大きな包丁=ナタのようなもので殻を大きく割ってくれます。殻を割ると中には果肉が2個か3個入っている房が五つほど並んでいる。大胆に手掴みで食べるとクリーミーな美味しさ。濃厚な味。栄養満点と感じる食感。「これが本格的なドリアンの食べかたや」と先輩。臭いので家に持って帰る訳にはいかない。殻を割っていったん実を取り出してしまうと結構早く果肉の張りがなくなってくる。露店で割ってもらったものを手掴みで食べるのが通であると。初めて食べたドリアンが食べごろの美味しいものであれば、ほぼ、間違いなくドリアンのフアンになるそうです。

 

その後、家族が一緒になってから、ソウさんが自分の家の近くにあるドリアン農園でドリアン祭りをしてくれました。農園といってもドリアンと言うのは20mから30mにもなる大きな木です。この大木の枝に30㎝くらいの実がたくさーん頼りなくブラさがって生ります。熟すると自然に落ちてくる。実の外側は、固いトゲトゲ、イガイガの殻で被われていますから、もし、人が歩いている時に落ちてきたら大変なことになりそうですが、ヒトの頭の上には落ちてこない(と信じられています)。ドリアンが落ちてきてケガをしたという人はいないそうです。この日は、会社の現地の社員・家族も集まって、お互い気兼ねなく、あちこちに陣取ってドリアン祭り=ドリアン食べ放題。ドリアンだけでなく、それ以外の果物、簡単な軽食、飲み物も準備してくれていますが、やはり、ドリアンが一番人気。皆さんドリアンに挑戦しますが、これは濃厚なだけあって、3個か4個の果肉を食べればお腹がいっぱいになってしまう。丸ごと実全体に挑戦する若いのもいるのですが、ほぼ全員途中でギブアップ。お腹がいっぱいになってしまう。

いつも通り、缶ビールを開けて一口飲み始めたところ、現地の皆さんが「ドリアンを食べる時にはビールを一緒に飲むのは止めた方が良い=危険である=死ぬ時もあるという話を聞いたことがある」と言います。僕はモノを食べる時には(アルコールを)飲むのが習慣になってる人種でしたから「そんなことはあり得ないだろう」ともう一口飲みました。が、そんな話を聞いてしまったからか、いつも程のペースでは飲むことが出来ません。濃厚な果物で、食べた後の膨張感が強くお腹がパンパンに膨れるので、ビールには合わない果物だと思います(まあ、ビールに合う果物というのもあまり聞いたことが無いですかね)。ちなみに、ドリアンはホテルへの持ち込み、飛行機の機内への持ち込みは固く禁止されています。僕の家族は、ドリアンも美味しく食べていましたが、ライチとか、ランプ―タンとか、マンゴスチン(これは果物の女王と言われてます)とかの方が好きだったかも知れません。

  

駐在して三年目になるチョット前に、イロイロ事情がありシンガポールに引越しをしました。会社は変わっていませんから、僕は毎日ちょっと早く起きて、シンガポールから国境を越えてマレーシアに、ジョホールバルを通り越してパシールグダンにある工場に通勤です。愛車トローパーは大活躍、よく走ってくれました。両方の国のイミグレを通る時にはパスポートにスタンプを押しますから、増刷してもパスポートは2-3か月に一度は更新する必要がありました。その内に、確かシンガポール側であったと思いますが証明書を見せればスタンプ不要と便利になりました。

子供たちは学校が近くなり喜んでいました。それまでは、放課後シンガポールの友達とは一緒に遊ぶことが出来ませんでしたが、遊ぶことも出来るようになりました。また、みんなが通っている塾にも通えるようになりました。友達の数も増えたのではないかと思います。

 

通勤途上は、もっぱら、車のラジオの英語ニュースを聞いていました。ラジオはつけっ放しの状態。発音が分かりやすいアナウンサーとそうでもない方と。また、ローカルなニュースが多いようで聞いていてもよく分からないことが多かったです。ある日、アナウンサーが興奮気味に話しています。

ガーガー、コーベ、ジャパン、アスクウエイク、デザスタラス、ガーガー、と繰り返し。「ちょっと待て、もうちょっと落ち着いて喋ってくれ、神戸、地震、なんやてえ」これは大変だ、神戸に地震だ、それも大きな地震のようだ。会社に着いてから、すぐに情報収集しましたがよく分かりません。手分けして日本の本社、個人の留守家族と連絡を取るようにしました。関西方面は一切電話が通じませんでした。

 

阪神淡路大地震、1995年1月17日、日本時間5:46。会社との間は早い時間に連絡が取れましたが、本社側も大混乱の状態。イロイロなルートを駆使して駐在員の留守家族の安否を確認しようと焦りました。関西方面に住んでいた方が多かったのですが、なかなか連絡がつきませんでした。僕の母親も大阪で一人暮らしでした。シンガポールのカミさんが池袋の実家に連絡を取って、そこから電話をしてもらいましたが、なんとか無事であることの確認が出来たのは午後になってからであったと思います。僕の家族・親戚では、兄の嫁さんの実家が神戸市須磨区でしたからモロに被害を受けましたが、幸いなことに皆さんの無事が確認出来ました。駐在員の留守家族・親戚でも最悪の事態だけは無かったことが確認出来たのは夕方になっていました。その日は定時に仕事を切り上げて早めに家に帰りました。

シンガポールの家のテレビ、新聞で見る地震の状況は想像以上でした。僕は大学が神戸だったこともあり、知っている場所が映されていましたが、全く、声も出ませんでした。

 

 シンガポールに移ってからは、家族でドリアンを食べる機会は無くなったように記憶します。ジョホールのように道路沿いで売っている景色も無かったように思います。シンガポールでは二年ほど生活しました。僕は二年間ほど国境を越えた通勤をしたことになります。ほぼ四年間の駐在を無事に終えて1996年の秋に帰国しました。

 

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 きょうの料理、2007年4月号=50周年記念号。それから10年、2017年4月号=60周年。同じく、きょうの料理ビギナーズの創刊号と10周年記念号。僕の料理歴そのものです。

 

  

 

ベガーチキン

ジョホールに駐在している時に、カミさんの両親が遊びに来てくれました。1994年8月のことです。孫たちの顔を見るためというのが一番の目的でしたが、それと同じくらいに、親父さんが”思い出の場所を訪問してみたい”という気持ちが強かったようです。『肉骨茶』でチョット書きましたが、親父さんは傷痍軍人です。戦争中、この地域での戦闘で重傷を負いました。お酒大好きおじいちゃんで僕たちが結婚してからは男二人で良くお酒を一緒に飲みましたが、お酒を飲んだ時でも戦争の話、特に、自分が重傷を負った話をすることはありませんでした。僕がジョホール駐在になるという話を聞いた時に初めて「自分が負傷したのはジョホールバツパハというところだよ」と言い出しました。

バツパハでの戦闘で右手首に銃弾が貫通する重傷を負いました。まだ、太平洋戦争の初期の頃であったのが幸いしたのではないかと推察しています。最悪は手首切断も止む無しと言う状態であったそうですが、それなりの治療を受けることが出来て、とにかく、生きて日本に帰ることが出来た。その後のリハビリは想像を超えるほどに大変であったそうです。死線を彷徨うような体験をした方はやはり何かが違うのでしょう。戦後、苦労して池袋にお店を構え、爾来、家族を養い、地域社会・業界にも大変な貢献をされました。立派なおじいちゃんです。2007年9月に89歳で亡くなりました。

池袋でお店を立ち上げた時の面白い話があります。戦後の混乱期。ヤクザ、愚連隊の類の連中が煩かったそうです。ある時、何人かが立ち上げたばかりのお店に来て嫌がらせをしてきた。頭にきたおじいちゃんが玄関に出て気合を入れて「お前ら、うるさい。出ていけ、ここは俺の店だ、嫌がらせはやめろ。俺はxxケイジ(彼の本名です)だ。」と大声で怒鳴ったところ、おじいちゃんの余りの剣幕の激しさと「刑事だ」と聞き間違えてすごすごと退散したとか。おじいちゃんは身長は175㎝くらい、眼光鋭い偉丈夫で、確かにテレビの刑事役でもすれば似合いそうな風貌ですから、そりゃあヤクザさんも恐れをなして退散したのであろうと。

 

バツパハというのは聞いたことが無かった地名でしたが、勤務先の会社でお世話になっている運送業者の社長さんがこの町出身の方でした。ソウさん。僕より2歳ほど年上です。中国系マレー人で、彼の親父さんの時代にマレーシアに移り住み事業を起こされた。ソウさんはイギリスにも留学経験があるエリートのインテリですが、偉そうな素振りは一切見せない。明るい、朗らかな、いい人。駐在の期間中、仕事でも私生活でも大変に楽しいお付き合いをさせて頂きました。

「うちのカミさんの両親が遊びに来る、カクカクシカジカ」と説明すると「昔、日本軍が攻めて来たときに町の郊外で川を挟んで激戦があったという場所がある。負傷を負われたのはそこかも知れない。自宅の近くであるから、ご両親を連れて遊びにおいで。」と誘ってくれました。

 バツパハ、英語のスペルは Batu Pahat  と書きます。ジョホールバルの家から120㎞くらい。愛車トローパに全員乗り込んで出発しました。この四駆は、後部の荷物を置くスペースを撥ね上げると簡易な椅子席に変わるように出来ていて、定員は7人乗り。まだ小さかった子供たちにはこの椅子席に座ってもらいました。道中、おじいちゃんから負傷を負った時の話を子供たちにも話してもらいました。おじいちゃんも少しづつ記憶が蘇るような気配でした。

 

町でソウさんと合流して早速郊外の川の近くに行きました。いかにも古そうな、しかし頑丈そうな土台の上に橋が架かっている。回りは灌木と畑。結構、見晴らしは良い。川の土手はあるものの身を隠すようなものは何も無し。ここで激烈な戦いがあったんだ。おじいちゃんは無口になってあちこち見渡していました。ポツリ「あまり、よく、分からないね」と。思い出したくなかったのかも知れません。

町に戻り、ソウさんが贔屓にしている中華料理のお店に行きました。これは立派な中国の料理屋さん。ビールを飲んで一息ついている時、ソウさんが一人のおじいさんを連れてきました。ソウさんのお父さん。彼も戦争中は大変に苦労をされたとか。親戚には犠牲になった方もいらっしゃる、またご本人も植民地時代には財産を没収されるなど嫌な経験をされている。この方がまた、大変に厳つい、怖い顔をされている。当時、シンガポールの大統領はリーカンユーさんでした。今でもお元気で、今では穏やかな好々爺然とした顔つきですが、当時はむちゃくちゃ迫力のある鋭い目つきをされていました。ソウさんの親父さんもその筋の顔です。ソウさんご夫妻と親父さん、うちの家族と両親で大きなテーブルを囲んで会食です。親父さんどうしは隣どうしに座ってもらいましたが、言葉の問題以上に、お互いに、話をしようとする気配が無い。≪これはヤバいかも知れない。お互いに昔の嫌なことを思い出して、喧嘩にならないかしら≫。ソウさんも心なしか心配そうな表情をしております。戦争の辛酸を知りつくしている強面のおじいちゃんどうし、一触即発の危機か。

お酒の力は有難いもので美味しいビールと紹興酒を飲むに連れ、お二人の表情も和み、言葉は通じないまま会話をしてくれるようになりました。最後の方では、うちのおじいちゃんの右手首の傷跡をソウさんのおじいちゃんが手を取って撫でてくれていました。涙は出てなかったと思いますが、”お互い苦労してきたねえ”、とあたかも戦友を称えているような。予想以上に内容の充実したバツパハ旅行でした。

 

 ジョホールバルの郊外に、ベガーチキンの店があります。バツパハから戻り落ち着いてから、おじいちゃん、おばあちゃんを連れて行きました。一羽丸ごとの鶏に香辛料を詰め込んで何かの大きな葉っぱで全体を包んだものをさらに泥、粘土で覆う。火で高温にしてある砂場の土の中に丸ごと埋め込んで蒸し焼きにする。

出来上がったモノはスコップで掘り出して手押し車に積んで運んできます。熱いから。粘土、泥はカチンカチンの状態。それをハンマーでガシャーッと叩き割って鶏を取り出します。まだアツアツ、ホカホカの状態。お皿に取り分けてくれます。お箸で簡単に崩せるほどのトロトロになっています。特有の芳ばしい香りがありますが、優しい味です。これがメイン料理。

副菜の一つに焼き魚が出てきます。一見、日本の秋刀魚みたい、皮に焦げ目がついている。これを箸で捌こうとすると感触が違う。最初は≪なんやこれは≫と思います。包丁を出してもらい、1-2㎝にキレイにカット。中身は蒲鉾状態になっています。蒲鉾を焼き魚に見えるように焦げた魚の皮のようなものまで付け成型して出してくる。お醤油のような出汁で頂きます。味はマアマア、こんなもんか、という感じ。

ベガーチキン(直訳すれば、乞食鶏です)というのは、昔むかし、貧乏な人達が料理する時に何も道具が無かったので、たき火をしていた土の中に鶏を入れて焼き芋風に焼いてみた、というのが起源とか。おじいちゃん、おばあちゃんには、見た目も面白く、鶏も柔らかく、味も優しかったので好評であったようです。また、孫たちが料理を説明するのが嬉しかったのでしょう。食事の最後に、おじいちゃんがしんみりした声で「バツパハに連れて行ってもらって良かったよ。いろいろなことを思い出したよ。」と言ってくれました。

 

ずっと後になってですが、おじいちゃんを偲ぶ会の時、一族・親戚の方が大勢集まってくれた時に、おばあちゃんから頼まれて、この時の話を紹介しました。おばあちゃんも「この時の旅行をおじいちゃんは大変に喜んでいました」と話しました。うちの子供たちも一人ひとり立ち上がって「ホントにいいおじいちゃんでした」と泣きながら挨拶してくれました。孫に慕われるおじいちゃんというのはなかなかにカッコ良いと思います。 

 

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 これ全てお菓子の材料から製作されたものです。4月25日、撮影。2017菓子博・三重、「お菓子の匠工芸館」にて。呼び物の一つであった「全国お菓子夢の市」は入場するのに待ち時間が1時間以上。入場者はお土産に買い物するのを楽しみにしているのにこれだけ待たせるのはいかがなものかと。興行的にも残念なことですね。菓子博は5月14日に閉幕。入場者総数は、目標の60万人に一歩届かずの58万人であったとのことです。

 

蛇足の補足、本文中「おじいちゃん」「親父さん」が入り乱れていますが、僕のカミさんのお父さんのことです。日経の俳句欄に心情的に分かる句が載ってました。

 

〇蕨餅いまだに妻をかあさんと  野田 哲士さん (4月29日、日経俳壇)

 

 

フィッシュヘッドカレー

マレーシアに駐在して家族が来てくれるまでの単身期間中に、マレー半島を自分の車で一周しました。中国正月の休みの前、仲間と一緒に件の店でバクテを食べている時に、休みをどう過ごすかが話題になりました。今までにも駐在員のなかで何人かの人はこの休みを利用してマレー半島一周の旅をしたとのこと。「なるほど、それは良いアイデアだ。しかし、一人で車を運転してマレー半島を一周する、というのは不安がある。チョット怖いなあ」と言ったところ同席していた方が「僕で良ければ同行させてください」と言ってくれました。この方は、在シンガポールの駐在員で、あと数か月で帰国が決まっていました。駐在の最後の思い出にマレー半島巡りをやってみたかったので、僕が行くのであれば絶好の機会だから同行すると言ってくれたものです。

こういう話はトントン拍子に進むもので、バクテを食べている間に、ザックリした計画を決めました。計画と言っても、大雑把な日程を打ち合わせしただけ、あとは、運転しながら適当に考えようということを決めただけです。当時、僕はいすゞのトローパーというジープ(四輪駆動)に乗っていました。日本ではビッグホーンという名前です。四駆の中では人気車種の一つであったかと思います。もちろん、オートマテイックではなくマニュアル車です。僕たちの世代は、車の運転は間違いなくマニュアル車で覚えました。マニュアル車の運転が得意という訳ではありません。マレーシアでは日本車(セダン)の価格が大変に割高で、日本で買える値段の2-3倍はしていたと思います。四駆というのは、実務用の車種という認識がされており、税金が割安。日本に比べて、値段は高いことは高いですが、セダンに比べて相対的にはまだマシでありました。そもそも、試乗した時に四駆の力強さを実感して、マレーシアで運転するには、これくらい逞しい車が良さそうだと思ったのがトローパーを選んだ最大の理由でありました。久しぶりのマニュアル車の運転で、慣れるまでには結構苦労させられました。

 

旅行のテーマは、単純に、半島一周することなのですが、その中で①マレー半島の北東に昔の合弁事業の工場跡地があるので、そこを訪問すること。②各地で、バクテとフィッシュヘッドカレーを食べ比べること、にしました。

出発の前夜は生憎と大雨が降っていました。出発して1-2時間も経たないうちに、道路が洪水状態になっている個所に出くわしました。いったん停車。大型のローリーは何の問題も無く通過して行きます。中型のバスも恐る恐るではありますが、これも無事に通過。それを見ていた乗用車が後に続きました。途中で動けなくなりました。エンスト。回りにいた見物人に助けてもらってロープをつないだり、押したり引いたりしてもらって、漸く、脱出。

”オレのトローパーはあの乗用車よりも車高は有る、さっきの中型バスくらいは高いのでは、まあ、最悪でも見物人(多分、近くの村人)が助けてくれそうだから、挑戦しよう!”とエエ加減な判断で一歩一歩前進しました。結構、水の圧力は強いもので車ごと流されるような感覚がするくらい。しかし、四駆の力は大したもので、自力で渡り切ることが出来ました。見ていた村人からは拍手、拍手。初日から大変な冒険旅行となりました。

 

村と村、町と町の間は、ほとんど畑かジャングルです。畑は専らパームヤシの農園が広がっています。我々の会社・工場の原料となる作物です。なだらかな丘状に見渡す限りパームヤシの農園が広がっているのは壮観です。想像を逞しくすれば、映画のジュラシックパークの舞台にいるようで、次のカーブを回ったら大きな恐竜が出てきても不思議ではないような景色です。

その通り、運転中に恐竜が出てきました。イグアナ。道路を横断している。頭から尻尾の先まで2mはあると思います。車の気配を感じてからは動きが速くなりました。多分、一族の中には、肉食恐竜ならぬ大型ローリーの犠牲になったモノもかなりの数がいるのでしょう。マングローブの林のなかに消えていきました。他にも、カメ、サル、馬・ロバ、それから、ヘビ。カメは遅いですが、ヘビは速いです。空を飛ぶような勢いで、これも2-3mはありそうなヘビが道路を走り去って行きます。

マレーシアにはコブラがいます。なかでもキングコブラというのがいて、鎌首を持ち上げると人間の背丈以上になるほどとか。極稀にだそうですが、農園で働いている人が出くわすことがある。逃げようとしても人間の走る速さどころでは無いスピードで追いかけてくる。あっという間に追いつかれて噛まれればお終い。猛毒だそうです。働いている人はコブラ毒の血清を常時しているとか。くわばら、くわばら。僕はヘビ、トカゲの類は全くの不得意です。

(最近、公害問題とか動物保護とかの観点から熱帯雨林にある農園についてイロイロと議論がされています。パームヤシ農園の名誉の為に念のために書いておきますが、適切に運営されている農園は、環境に優しいものです。そして、マレーシア経済に大変な貢献をしている産業です。農園のなかには労働者従業員のための住宅、病院、学校も完備されているほどです。)

 

夕方、どこかの町に入って、その夜の泊まる場所を確保するため、ゆっくりと車を走らせていましたら、警察官に車を停止させられました。信号無視でもやってしまったか、と不安に。英語を話せない方です。僕はマレー語は全く分かりません。何か車のことで文句を言っているような。車から降りて前面にいくと、何んと車のナンバープレートが付いていませんでした。後ろのプレートは付いていました。

”何故だ?、エッ、ああ、そうか。洪水のところを渡った時に水の力で剥がされたのか?それ以外には考えられない。水の力ってのは凄いんだ”。「それでお巡りさん、どないせいと言うんですか」と聞いたところ、何やら回りにいる人(=一般人、村人)に指示しています。この時には、回りには見物人が沢山集まって車を取り囲んでいました。村人が、木の板、針金等を持って来てくれました。随分と手際よく、ペンキかマジックインキのようなもので木の板に車のナンバー詳細を書き込み、板の穴に針金を通して車体に固定してくれました。これで一件落着、無罪放免。回りからはまた拍手と歓声。「いやあ、ホンマにお前らええ奴やなあ、感謝、感謝。何かお礼をしないと日本人の名前がスタルわ」。荷物をあたると日本ブランドのペット飲料と日本から持ってきたT-シャツがあったのでそれをプレゼント。デザインが面白かったのか、大うけでした。ついでに、ホテルも紹介してもらい、充実の初日を無事にベッドで寝ることが出来ました。

 

ほぼ予定通り、三泊四日か四泊五日の、弥二さん喜多さん珍道中は無事に終了。トラブルは沢山ありましたが、事故は一切無くてなによりでした。結構ハードな工程でした。二人で交代しての運転ですが、約2000㎞走りました。テーマその①の工場跡地もチャンと探し出して訪問することが出来ました。ツワモノどもの夢の跡です。テーマその②は、結論から言いますと、マサイのバクテ、フィッシュヘッドカレーの勝ちでした。我々の訪問したところ、宿泊したところはマレーシアの田舎でしたから、マレー人の方のほうが圧倒的に多い。もちろん、中国系マレー人の方も住まれていて、中国系マレー料理の店もあるのですが、やはりお客さんの人数が少ないところは完成度が違う。マサイのバクテ、マサイのフィッシュヘッドカレーに勝るお店には出会うことは出来ませんでした。

 

マサイにはバクテ(『肉骨茶』を参照ください)のお店に加えて、フィッシュヘッドカレーの店もあるのです。これがまた絶品。結構大きなの魚の頭、オクラが入っています。香辛料が良く効いていてココナッツミルクで味付けされているスープカレーです。パサパサのご飯にトロっとかけて頂く。この店では野菜炒め、スペアリブを焼いたもの、げその唐揚げ等々、ビールにあうお皿も出してくれます。カレーをB級グルメと言うと名古屋の誰かさんに叱られるかもしれませんが、この店ごと日本のB級グルメ大会に出場すれば、入賞は間違いないのでは。ひょっとすると優勝も出来るのではと思うほどです。最も、気候・環境・景色の差は大きいですから、全く同じものを日本に持ち込んでも、マレーの地で食べて感激する味にはならないのですかね。

 

マレーシアの話にお付き合い頂きありがとうございます。もう少し続きます。次回は、いよいよ池袋のおじいちゃん=僕のカミさんのお父上の話を書きたいと思っています。

 

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留守宅の永良部のユリと芝桜。ユリは50㎝くらい。つぼみが出来始めています。名古屋のマンションのユリが既に開化したのは、室内で育てたからなのでしょうね。5月の連休に撮影。

<おまけ>

連休中に、東京の恵比寿駅の近くのシンガポール料理店に行って来ました。『肉骨茶』を読んでくれた方が教えてくれました。有難いことです。シンガポールのローカル料理店、バクテもある。マスターは日本人の方。料理人としてシンガポールで働いていた時、ローカルフードのフアンになり、帰国後この店を開くことにしたとのことです。マレーシア、マサイではバクテ屋さんはバクテのみの専門店ですが、この店はさすがにシンガポール料理を取り揃えたメニュー。バクテに加え、鉄板豆腐、鶏飯、空芯菜等々を注文。ビールもタイガービールを頼みました。シンガポールのバクテは、もともと、マサイの味付けよりも上品な薄味です。久しぶりに懐かしの味と香りを楽しめました。美味しかったです。お店の佇まい・雰囲気もよかった。

メニューには、フィッシュヘッドカレーもありました。残念ながらこれは事前予約が必要とのこと。次回の楽しみとなりました。

お店の名前は「恵比寿新東記」。ホームページを見たら「シンガポール政府観光局第一号認定店」と書いてありました。由緒正しいローカルフードのお店なのですね。お薦めです。クルルのおじさんの紹介です、と言っても何の役にも立ちませんので。念のため。

 

 

 

 

 

肉骨茶

肉骨茶=BAK KUT TEH、「バクテ」と発音します。マレーシア、シンガポールにある中国系の方の庶民の料理です。専ら、朝ご飯、昼ご飯に食べる料理だと思います。夜のメインに出るようなものではない。食べる時は、何人分かを言って注文するとその人数分の大きさの土鍋にスープと具を入れてアツアツにした状態で出してくれます。別途、ご飯を一人ひとりにお椀に入れて出してくれますから、ご飯にスープと具をかけてスプーンとお箸で頂く。平易に言えば、ぶっかけスープご飯です。家庭で作って食べる料理という訳では無いと思います。中国系の方は、そもそも外食が多いですから、外食庶民料理と言ったところでしょう。日本の料理・店のイメージで言えば、お値段感覚も含めて、立ち食いのうどん屋さん・蕎麦屋さんか、はたまた、吉野家の牛丼というところかと(かの地では立ち食いではありません、念のため。また、チェーン店は無いと思います)。

 

初めて食べたのは、マレーシアのジョホール州にあるマサイという小さな街道の町にあるバクテ屋さんでした。出張で訪問した時に、現地に駐在されているグルメの先輩の方に案内して頂きました。ぶっかけスープご飯ですから、見た目は決して上品な料理ではありません。お店の佇まいも決してキレイではない。はっきり言えばキタナイ。僕は生意気盛りでしたから、”何でわざわざ東京から出張で着たモノをこんな店に連れてくるんやろ、他に美味しいレストラン無いのかいな”と訳が分からない状態でありました。

しかし、これが旨い。これは間違いなくこの場所でしか食べることが出来ない味だと納得しました。さすがに舌の肥えたグルメの大先輩。味が大変に洗練されています。薬膳料理のような上品な芳ばしい香がする。沢山の種類の香辛料が使われていると思いますが、鼻・舌に刺激を受けるような香り・味では無い。基本は醤油味です。現地のご飯はどちらかと言えばパサパサのお米ですから、そのご飯にスープを加えて食べると食感が丁度良くなる。文字通り骨付きの豚肉が入っていますが、よく煮込んであるので油分はほぼ落ちているし大変に柔らかい。豚は食べるというよりはスープの出汁用になっていて、野菜、湯葉が入ったスープを頂くという料理です。スープは茶色ですが、この先輩の説明では、お茶を使って煮込んでいる訳では無い。「茶」という漢字には「スープ」という意味があるのでは、という解釈をされていました。

 

昔むかし、中国の方がこちらの方に出稼ぎに来て、大変に貧乏で苦労されていた時に、安く手に入る食材を利用して美味しく栄養のあるものを食べようと工夫した結果、出来上がった料理だとか。ですから、この料理は中国系の方の料理ですが、大陸中国とか台湾には存在していない(はずです)。

二回目に食べたのは、自分自身が駐在になって赴任した初日でした。同じ町の同じバクテ屋さんに行きました。シンガポールからマレーシアには陸路でつながっています。コーズウエイと言います。マレーシア側に入ったところがジョホール州の州都であるジョホール・バル。ここからさらに海岸沿いに車で1時間弱走ったところにパシール・グダンという工業団地があり、僕が勤務することになった会社はこの一角にある食用油の製造工場でした。このバクテ屋さんがあるマサイという町は、ジョホール・バルとパシール・グダンのほぼ中間にある町。出張で初めて行ったときから数年はたっていましたが、同じ場所に同じ店があり繁盛していました。味も昔と変わらず。駐在初日に「マサイのバクテを食べたい」と駐在されている方にお願いした訳ですから、皆さん「ムムッ、こやつ出来る」と驚いたかも知れません。

初めて行った時は、東京からの出張でしたから、暑いながらもスーツにネクタイ姿でしたが、この二回目の時は、ノータイ・半そで・替えズボンという現地のスタイルで気楽に行きました。出来ることであれば、Tシャツ・半ズボン・草履で行くのが最高であると思います。

 

この会社には約4年間勤務しました。最初の数か月は単身。その後は家族が来てくれて一緒に生活をしました。家族として初めての海外生活です。家族には新学期に間に合うように来てもらいました。丁度、長男が中学一年生、長女は小学2年生、次女がピカピカの小学1年生になる時でした。三人ともにシンガポールにある日本人学校に入学。

 

長男の入学式の時のことです。シンガポール日本人学校の中学校では制服が無いというのは理解していましたが、どんな服装で行くのか全くイメージが無く、僕の前任者の奥様に聞いてもらいました。予想通り「日本と違って中学には制服は無いから、自由な格好でよいですよ。」ということだったので、カミさんにその旨伝え、普段通りの恰好で行かせました。赤道直下の暑いところですから、半そでのポロシャツに半ズボン。

海外での新生活ということもあり、入学式にはカミさんと一緒に参加しました。生徒入場。あらまあ、ほとんどの生徒は白いワイシャツに黒い長ズボン。カミさんは予想していた通りと言うような顔をしていましたが、僕が普段通り!と言い張ったのでそれに合わせてくれた結果でありました。入場してくる長男と目が合ってしまいました。「なんで僕はこんな格好しているの、勘弁してよ」みたいなアイコンタクトしてきましたが、図太いのか余り気にしている様子でも無く、堂々としていたので一安心。

日本にいる時、彼が小学生の時には、あまり(ほとんど)学校の行事に参加しておりませんでした。久しぶりに同級生と一緒にいる長男を見て、「おお、結構、身長も高い、なかなかカッコいいじゃないか。それにしても場違いなガキっぽい服装やなあ。あはは、ゴメン。」てな感じでありました。ちなみに相談に乗って頂いた奥さまが説明されたのは「制服はないから入学式らしい服装であれば何の規制もないですよ」という意味でした。ダンナさんがそれを通訳して、そして、先入観を持っている僕が聞くと「気楽な普段通りの服装でよいのだ」ということになってしまったという訳です。

 

 

先日の長男の結婚披露宴の時に、ふと、この時の情景と肉骨茶の味を思い出しました。一人で思い出し笑いをしていたかも知れません。何故、肉骨茶も一緒に思い出したのか、自分でも面白く思います。振り返ればあっという間の25年です。

 

 

この会社での四年間は、仕事の上でも大変に充実した期間でしたが、家族生活でも大変に有意義な期間でした。海外駐在の期間は、概して、家族の絆が強くなると言いますが、僕の場合、日本ではほとんど家にいることが無かったような状態でしたから、特にそうだったと思います。また、我々が現地の生活に落ち着いてからは、それぞれの親も孫の顔を見に遊びに来てくれました。特にカミさんの親父さんは、戦争中に近衛騎兵に所属しており、この地域で重傷を負いました。文字通り九死に一生を得た。右手首に銃弾が貫通して酷くえぐられ、とても生きて日本に帰ることなど考えられなかったそうです。駐在期間中に、親父さんが死線を彷徨った場所を本人と一緒に家族みんなで訪問することが出来ました。これは大変に思い出深いことですので、別途、改めて書きたいと思っています。

  

マレーシアは、ムスリムの国です。最近では、ムスリムと言えばイスラム国のムチャクチャな動きでテロの巣窟のイメージが固まってますが、本来のムスリムの国・人々は大変に穏やかなものです。特にマレーシアがそうかも知れません。マレーシアでは、マレー人が人口の約60%を占めており、このほとんどがムスリムです。中国系マレー人が30%、インド系マレー人が7-8%のはずです。ムスリムではいろいろな戒律があり、食べ物に対しても厳しい制約があります。ハラールと呼ばれるものがそうです。ムスリムの戒律に合致するものはハラール(適合)食品と言われます。厳しい制約対象の一つが豚です。イスラムの方には豚は忌避されています。極端に言えば見るのも嫌だ、触るのもとんでもない、食べることなど考えられない。

バクテは、説明した通りで、豚ベースの料理です。街のあちこちに「肉骨茶」の看板が出ている。マレーの方は漢字は読めないと思いますが、中身は分かっているはず。少数民族(中国系の方)が大きな顔をして、ムスリムで禁じられている料理の店を堂々と営業している。それをメジャーなモスリムの方々が傍らで穏やかに見ている訳ですから、こんな寛大な国民・宗教は無いのではと思います。

 

バクテ料理では、「バクテの素」というのも売られています。バクテ・スープの素といったところです。バクテを好きになった日本の方が帰国の時に買って帰る。日本に戻ってあの味が懐かしくなって「バクテの素」で料理して食べてみる。残念ながら、似て非なるものしか出来ないそうです。これはやはり現地に足を運んで味わうべき料理だから、止む無しだろうと思っていましたら、最近、長男が「東京にデイープなマレー・シンガポール料理店が出来ており、あの現地の味を出していると評判である」と言って来ました。日本・東京で、マレーとは異なる気候・風土・環境の壁を超えて、果たして、あの味を出せているものかしら。やや複雑な心境ですが、やはり一度トライしてみようかと思っています。

 

  

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沖永良部島のユリの花が咲きました。背丈のみヒョロヒョロと高く伸びて、果たして花が咲くのかと心配していました。随分と早咲きです。4月26日、撮影。