クルルのおじさん 料理を楽しむ

お酢の話、その2.

そういう訳で、今度は、お酢の本を手当たり次第探して読んでみました。

『健康!酢タマネギ』(宝島社) は通勤途上の駅のコンビニの書棚で見つけて買いました。2016年10月、第三刷発行。これは、結構、早い時期に買ったと思います。そもそもは玉ねぎの食べ方をもっと知りたいと。酢との組み合わせというのが当時の僕には新鮮でした。レシピも掲載されていたので重宝しています。この酢タマネギを活用して料理を作れないかとイロイロなレシピを研究(?)したあげく自分なりに工夫して到達したのが『中華鍋』で写真を掲載した鰯の料理でした。楽しかったのでクックパッドの「クルルのおじさんのキッチン」に「僕でも出来る 鰯のエスカベッシュ風」として載せました。命名は料理の師匠のchaさんです。今回、この本をざっと見直したら、なんと、「イワシの酢タマネギ エスカベッシュ」というレシピが掲載されていました。自分が見落としていたのを棚に上げ、自分の創意工夫を否定されたようでショックでした。作り方もほほ一緒なので余計にがっかり。世の中には努力が報われないことも多くあるものなんだと滅入りました。全く、大げさなことです。なんとか、気持ちを立て直して、僕の心の中では、この料理は自らが工夫した料理なんだと言い聞かせて、その後も機会あるごとに作っております。もちろん鍋は「戦艦ヤマト」です。結構、美味しいです。

 

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本箱で眠っていた本に「お酢」がテーマのものがありました。

『世界に広がる 日本の酢の文化』。奥村彪生さん監修、岩崎信也さん著、ミツカングループ企画。2003年1月初版。これは随分前に、多分、2004~2005年ごろに同社の方から頂いた本です。ミツカンさんは、昔風に言えば尾張之国は知多郡半田村にある、今では調味料と納豆を中心とする大手の食品メーカーさん。もちろん「お酢」がミツカンさんの事業の原点です。「お酢」に焦点を当てつつ「おすし」についての考察が大変に分かりやすく面白い読み物になっています。例によって興味深いところを抜粋します。

●お酒とお酢は、発酵食品の原点。平城京跡から出土した木簡に、すでに「酢」の文字が出てくる。酒があれば酢も造られる。・・・この辺りは、内堀さんの「酢は酒から作る、と書きます」という言い回しと同じで面白いですね・・・ヴィネガーは、ヴァン(=ワイン)とネーグル(=酸っぱい)の複合語であると。酢はワインが酸っぱくなった=酸敗したものを示すものと言う意味が表現されている。

 

・・・以下、中国の発酵食品について解き明かし、「おすし」との関わりを詳細に記載しているところが大変に興味深かったです。

●「醤」は、鳥獣・魚の肉を叩き潰して、塩と酒を混ぜて壺につけこんで発酵させたもの。醸造調味料。紀元前三世紀=前漢初期の文献によると、紀元前10世紀ごろには100種類以上の醤があった由。

●その「醤」とは別な発酵食品として、「鮨」は=魚の塩辛。醤油とは違い原料の形状をある程度は残したもの。

●さらに、別なモノとして「鮓」がある。「鮓」は、貯蔵した魚とのことで「鮨」とは区別されている。三世紀ごろの辞書に「『鮓』は、魚の漬物。塩と米とで醸す。馴れたら食べる」との解説があり。古代の「すし」として知られる「なれずし」の初出と。「なれずし」とは、米飯などのでんぷんの乳酸発酵を利用した塩蔵発酵食品。この乳酸性の酸味を伴うところに最大の特徴がある。

 

・・・その後、中国では「鮨」と「鮓」は同義と混同されることになってしまったそうです。もともと「鮓」は、東南アジア山地民の保存食、ないしは、同じく東南アジアで水田耕作を行う平地民の食べ物が起源とのこと(最近は、後者の説が有力とか)。中国の辞書の記載で両者を混同したのは、輸入された外国の食べ物のため、編者自身が「鮓」を知らなかった(見たことがなかった)からと考えられています。

・・・日本では、奈良、平安の時代は、酢は自家製がほとんど。戦国時代に酢造りが重要な地位を占めるようになり、業としての「酒造」「酢造」の言葉が出てくるようになった由。技術革新=酒造において火入れ(加熱処理)技術の実用化がそのきっかけになったそうです。

 

 ●すしは、古代・中世の「なれずし」(酢を使わない発酵すし=魚の保存方法、漬物の一種。おそらく飯は食べなかった)から、江戸時代に入って、酢を使う「早やすし」に変わってきた。

・・・そこに「握りすし」が誕生。大ブレークしたそうです。そして、この握りすしにぴったりの酢が「粕酢」。尾張の粕酢が江戸で大評判となり、ミツカンさんの「山吹」が握りすし用の酢の市場シェアのほぼ大半を押さえた。この「山吹」は日本でのブランド・マーケティング成功の第一号事例と言われています。

●寿司(寿し)は、江戸時代末期に生まれた和製漢字。平安時代には、鮓=酒志(スシ)、鮨=須之(スシ)と読んでいたと。

・・・すしの語源は、味がすっぱいから「すし」。すし=酸っぱい、新井白石さんの研究でも「スは酸なり、シは助詞なり」との記載があるとか。これは分かりやすいですね。さらに、鮓と鮨をつなげて鮓鮨として読むと「サシ」になり、それが、なまって「スシ」になったとの説もあるそうです。

・・・「なれずし」=乳酸性の酸味を伴う塩蔵発酵食品、飯は食べない。⇒「なまなり」(生成)。酢酸発酵による酸味も受け入れ、飯を食べるようになった。料理において酸っぱい=「酢」が重視されることに。⇒酢を使う「早やずし」、そして「握りすし」へと。従来の発酵食品、保存食品と完全に縁が切れた。まったく違う食べ物の誕生!!との記述が説得力があります。

 

 

ミツカンさんは尾張ですが、お隣の三河に「南三河食文化研究会」という地元の醸造業(白醤油、味醂、日本酒、味噌)の方が参加されている研究会があります。2015年4月28日付けの中部経済新聞に紹介記事が掲載されていました。キーパーソンは、お二方。碧南市、小伴天の長田社長と高浜市、おとうふ工房いしかわの石川社長。

長田社長は、愛知大学のオープンカレッジで愛知の食をテーマにした講座を継続されています。また、2015年2月には地元食材を使って地元ならではの料理を提供しようと、同じ碧南市に”小伴天はなれ「一灯」”をオープンされています。 三河の食文化を後世に伝えたいという思いが込められた料理を味わうことが出来ます。

石川社長は、首都圏で愛知県産品の販売に注力。いしかわの店舗でテーマを決めて地元食材を楽しむ会を開催。南三河食文化研究会の代表。「醸造業でこれだけの業種が一か所に集まっているのは全国的にも珍しい」とのことで、この地域の食文化の発信、地域の食文化を守ろうと地元の醸造業の社長さんや地元の食に携わる方との交流を深めていらっしゃってます。

ちなみに南三河とは、旧東海道より南側の三河を指している。主な食材としては、碧南のニンジン、タマネギ。魚介、ちりめんじゃこ、アサリ。一色のウナギ、西尾の抹茶が有名なところ。

僕は、すっかり、お酢メーカーの方も参加されていると思っていたのですが、記載されていません。今度、参加して何故なのか聞いてみたいですね。

 

 「鮨 そのほか」新潮文庫阿川弘之さんの随筆・随想です。平成27年9月発行。すし=鮨、と書かれてますね。貰いもののすしを駅の浮浪者にあげた人物の味わいのある回想です。今の時代の作家の方には描けないストーリーでしょうね。阿川さんは2015年没。娘さんの佐和子さんのご結婚の報道には、彼の地で素直に喜んでますかね。

 

僕の大好きな「きょうの料理 ビギナーズ」2017年7月号。10周年、特別企画第二弾が「ちょっと すっぱい酢」です。即買いしました。料理の本はクセになりますね。次々と買ってしまいます。

 

 

お酢を使った料理のレシピを含むウンチクを書こうと思っていたのですが次回以降に改めます。次回の高校同期会の社会科見学は、半田のミツカンさんの酢の博物館と碧南の一灯さんでの会食にしようかしら。

 

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 血圧・血管に関する本、図書館にも多くの本が置かれてます。「薬に頼らず!、薬を飲まず!血圧を下げたい!」という願望は強いですね。どちらの道に進むにしても無理をしてはいけないのでしょうね。これらの本の中には、これは面白い・きっと効果があると思った運動、マッサージがありましたので、これも、次回以降に記載を心掛けます。

 

 

お酢の話

最近、お酢にハマっています。

きっかけは、父の日のお祝いに長女夫婦から「飲む酢・デザートビネガー」なるものを頂いたことからです。パンフレットに「酢は、酒から作る、と書きます」と書いてあります。ウマい表現だなあと感心しました。岐阜県八百津町にある内堀醸造さんのお酢です。以前からよく知っているお酢屋さんですが、「飲む酢」は買ったことがありませんでした。パンフレットに写真が載っていますが、ご主人の内堀さんは自称「スムリエ」。ワインのソムリエをもじった呼称だと思いますが、ホテルの食事会などの場で「酢のおいしさ新発見」等の話を中心に講演をされながら、お酢の料理を提供。お酢の消費拡大の啓蒙活動をされています。タキシード姿がお似合いの楽しい方です。

もらって以来、毎日、大さじ一杯分をイロイロな方法で飲んだり、食べたりしています。お酢健康法です。どのようにして食べているのかは後に記載します。

 

実は、昨年末から、血圧が高めになっているのが気がかりになっていました。血圧が上がるのは加齢による自然現象だからそれほど神経質になる必要はないという説もありますが、やはり不安になります。でも、薬を飲むのには元々強い抵抗があるところに、あるお医者さんとある出来事がきっかけになり、血圧降下剤を飲まないで対処しようと思い立ちました。家族・友人・賢者のアドバイスを得て、この年齢になってからですが、改めて体質改善をトライしようと。

基本は適切な運動と腹八分目の食事、過度のお酒を控えることと理解しています。僕の場合は、①お酒を美味しく頂いて、ついつい飲み過ぎてしまう。飲み過ぎない飲み方を!会得する必要がある。②美味しいモノは食べ過ぎてしまう。お酒を飲む時には自然に食べる量が減る方がいらっしゃいますが、僕の場合は良く食べてしまう。また、会食の時に料理を残すのは申し訳ない(勿体ない)と思っている。③運動はやっているつもりながらムラがある。

 

例によって、本を手当たり次第に読み始めました。高血圧に関して何んと沢山の本が出版されていることか。ベストセラーも沢山あるようです。薬に頼らないで血圧を下げたいと願っている人が多くいらっしゃるということの現れでしょう。この種の本のほとんどは「安易に薬に頼らない方が良い。薬に頼らないでも血圧を低下させることは可能である。良い習慣を身に着けることが大切だ。運動(マッサージ、ストレッチを含めて)と食事(食材、食べる量、食べ方)が肝」という主旨のものです。

天の邪鬼の性格と言うのは困ったもので、「問答無用、とにかく薬を飲め」と言われると間違いなく反発してしまいますが、逆に「薬に頼るな。薬に頼らなくとも血圧は低下する」とい言われても「それホンマかいな?」と思ってしまいます。意見はイロイロあって然るべきとは思うのですが、もう少し、両者歩み寄った丁寧な説明が欲しいところですし、所謂、統一見解があってもよいのではと思うのですが。まあ、人間の体のことですから、一人ひとりがそれぞれ違うのでしょうから、普段から信頼の出来るお医者さんに相談に乗ってもらって、患者側の不安なことや希望することを聞いてもらいながら、両者納得した上で対応方針を決めて進めていくしかないのでしょうね。高齢者がどんどんと増えていく時代ですから、今まで以上に、主治医さん、かかりつけのお医者さんの重要性が益々高くなっていくものと感じます。

 

今、住んでいる処の近くでは残念ながら信頼出来るお医者さんと巡りあっていない僕としては試行錯誤の連続です。

毎日の体重測定と血圧測定を開始しました。それから、①②③について考えてみました。

①「お酒を飲み過ぎない飲み方」。これは結論から言えば、そんな器用な飲み方は出来ない、無理ですね。僕は気持ち良く飲んでしまいます。しかし、時間軸の概念を導入しました。つまり、かつては、ほぼ連日飲み過ぎていたものですが、今は、飲み過ぎたと思った時には、次の日、更に次の日に、飲み過ぎないように努力する。幸い、以前ほど、お客さんとの会食が連続するということは無くなりつつあるので、一人で食事する時、仲間内で飲む時、等々は、酒の量を減らす。酒を飲む日を無くすると言うは難しいので、飲まないのではなく減らす。お酒を飲みたいと思うのに、飲む日を無くすというのは大変なストレスが溜まり、逆効果になると信じています。

②「美味しいモノを食べ過ぎない、残しても申し訳ないとは思わない」と言うのも無理というのか、寂しいというのか、やはりモッタイナイ。これも①と同様に時間軸を導入しました。食べる時は、四の五の考えないで食べる。食べたいものをモッタイナク残したりしない。但し、人のお皿の分までは食べることはしない。また、自分が気持ち悪くなるまで食べることはしない。そして、食べ過ぎたと思う時は、2-3日の期間のなかで、修正するように心がける。①と同様に、一人メシの時、仲間メシの時は、カラダに良いとされる食材を、体に良いとされる順序で、体に良いと言われる食べ方で、そして、食べ過ぎないように作る、注文するように心がける。

③運動は、まだまだ不十分ながら、とにかくカラダを動かそうと努力しています。会社ではエレベーターを使わない。五階分の階段を歩く。通勤時、また、街のなかでも、エレベーター、エスカレーターを出来る限り使わない。ワザと一つ手前の駅で降りて、一駅分を歩く。これは一度トライしましたが続きません。それよりも早く家に帰って、運動の服装に着替えて歩きに出る方が良さそうに思います。週末は、歩く。公営プールが近くにあるので水泳をする。ゴルフの時は、カートに乗らず歩くことを心がける。また、室内で出来るマッサージ、ストレッチもやるように。「継続する」ということは本当に難しいですねえ。運動ではないですが、一人で出来るツボ・マッサージを、体重・血圧の測定の前にやるように心がけています。

 

以上を組み合わせながら、それなりに継続しています。「三日坊主も10回続ければ一か月になる」という訳の分からない信念のもと、半年くらい続けました。体重は、昨年同時期比較で、最大で5㎏、平均すると3㎏ほどの減量に成功しています。BMIもようやく25を割りました。この過程で、血圧は昨年末から本年初めにかけては第二度高血圧の状態であったものが、この数か月では、第一度高血圧の水準に。たまには、正常高血圧のレベルに低下してきました。何やら、新興宗教の勧誘の体験談のような記載ですが、自分では意外とスンナリと効果が出せたかなあと悦んでいます。こういう状態から、もう一段の降下を狙いたい、常時、正常高血圧のレベルを狙いたいと言う話をしているときに贈られてきたのが、冒頭の内堀醸造さんの「飲む酢・デザートビネガー」であったという訳です。前口上が長すぎましたが、お酢は、確かに、直感的に効きそうだという気がしています。それで、今度は、お酢の本を手当たり次第読み始めた訳です。

・・・・『お酢の話、その②.』に続く。

 

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 サンスベリアの花が咲きました。2004年の浜名湖花博で一苗50㎝程度のものを買ったもの。爾来10数年、大きく成長・株分けして今では7鉢、背丈も150㎝ほどに。自慢のサンスベリアですが、開花をはっきりと認識したのは今回が初めてです。

2017年7月13日、撮影。

 

 

八丁味噌

 八丁味噌は、愛知県岡崎市の八帖町にある二軒の味噌屋さんで作られている味噌です。原料は、大豆と塩のみ。じっくりと時間をかけて熟成された天然醸造の味噌です。

八帖町は昔むかしは、八丁村と呼ばれ、岡崎城から西へ八町の距離(約870m)にあったことが村名の由来になっているとか。古くは、1560年の桶狭間の合戦で徳川軍の「戦陣握り」として八丁味噌が兵食とされていた由。岡崎市を流れる矢作川(やはぎ)流域で栽培されていた矢作大豆、それから、知多半島半田市の成岩(ならわ)および吉良上野介で有名な吉良町饗場(あえば)で生産されていた塩を原料としたものです。吉良上野介さんは忠臣蔵では敵役ですが、地元では、塩田の開発をはじめ産業の振興を図った名君として今でも大変に人気が高いお殿様です。三河岡崎辺りは、高温多湿の気候でコメの栽培にはあまり適していなかったので、地元で採れる大豆の利用を図った。岡崎には、矢作川の水運を利用して塩座が賑わっていたので、塩を活用することが比較的に容易に出来たことも八丁味噌が生まれた背景にあるのでしょう。

 

八丁味噌を生産されている二軒の味噌屋さん、カクキュー(合資会社八丁味噌)さん、まるや八丁味噌さん、を社会科見学に行きました。何を今更、社会科見学か!?ですが、なかなかに面白いモノです。『私の本棚(2016年9月18日)』で書きましたが、僕の高校は大阪ですが今でも同期会が盛んです。愛知県在の仲間でも四半期、半年に一度くらいは集まっています。ただ単にメシ食べて大酒を喰らうだけではモッタイナイと。まあ、みんな年を取ってムチャ飲みが出来なくなったことも理由の一つですが、この2-3回は、地域の文化を探索しつつお酒を飲んで楽しく語り合う会となっています。それで今回のテーマが岡崎城八丁味噌

道中の話題は、「八丁味噌と赤だし味噌とは、そもそも別なモノか否か。別なモノであれば何が違うのか?」という極めて愛知県ローカル的なものでした。僕は別モノであるという認識はありましたが、何が違う?と言われるとウーン?の状態。正解は準備されていたのですが、現地で工場見学をして確認が出来ました。答えは意外と単純で「八丁味噌と米味噌を調合して、八丁味噌の濃厚な味と米味噌の柔らかな甘さを調和させたものが赤だし味噌」とのこと。なるほど、そういうことかと納得しましたが・・・。

 

この時に質問するのを憚ってしまいましたが、一方では、八丁味噌ではない豆味噌がありますよね。いわゆる普通の赤味噌。それを米味噌と調合しても、赤だし味噌と呼ぶんでしょうね。後でウイキペディアで念のために調べたところ、「八丁味噌」の商標認定はされていないそうです。いわゆる普通名称との認識です。それでも、「八丁味噌と呼べるのはこの八帖町の二社だけが生産している味噌である」という事は公知とされているそうで何よりのことと思います。NHKの朝ドラで「純情きらり」というのが2006年上半期に放映されたそうですが(スミマセン、僕は見ていませんでした)、このドラマは、朝ドラでは初めて愛知県を主舞台にしたもので、この八丁味噌の2社が重要な舞台になっていた。八丁味噌といえば、この2社だ、と言うことが広く認知されるのに大変な貢献をしたそうです。NHKさんエライ。

 

工場見学で、八丁味噌の製造は大変に手間と時間がかかるものだということを学習しました。大豆を蒸す。煮るのではない。味噌玉を作る。拳大の大きさ。麴をつけて発酵させるが、大豆麹は大変に難しいとのこと。仕込みでは塩と水を加えてコネ合わす。この割合が重要なポイントになる。塩と水の量は限りなく少なくして発酵に時間をかける。発酵の時間が早くなってしまうので天地返しはやらない。寝かせたまま。仕込みの桶は、高さ、直径ともに2m以上の杉の木桶。その中に約5-6トンの味噌を入れ、布または板一枚を敷いた上に、3-4トンを超す石を積む。この重石の石のサイズはバラバラ。均一に荷重がかかるように積まれる。桶の上に石のピラミッドが出来上がる。全くの職人技です。地震があった時も、この重石は崩れたことが無いとのこと。しっかりと積まれています。

大豆麹を作るのは冬。仕込みが開始されて以降、発酵が進む訳ですが、発酵が進むに連れて、時期的には次の夏にかけて、何んとこの数トンの石が持ち上げられる。発酵の力で重石のピラミッドが上がる!。9月ごろがピークとか。その後、冬にかけて重石は徐々に下がり、2月ごろには元のレベルに収まる。「二夏二冬の歳月をかける」という表現をされています。大豆と塩だけで作ると言われると、塩分が濃さそうな印象を受けますが、全く逆で、出来た製品の塩分は少ないものになっているそうです。八丁味噌は固く、そして、コクが深い。製品は2年から3年半もかけて出荷されることになります。

 

この味噌蔵は、今でも、土間、土壁を出来るだけ残していると。味噌は生きている!。蔵の内部は、酵母・乳酸菌の宝庫とか。生息する自然の微生物の絶妙な働きで旨味成分を自然に引き出し、特有の香りと艶を醸し出しているとの説明がありましたが、なるほどと納得できる風景でありました。案内の方から「深呼吸をしてこの微生物を体の中に取り込んで帰って下さい」とのお話があり、僕は真剣に深呼吸を繰り返しました。

100兆個の共生微生物の働きを期待している僕としては(『共生微生物』2017/1/23を参照下さい)、この地で、数百年以上も活動を続けている微生物を大量に吸収出来て大変に幸せな気持ちになりました。 

 

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 「カクキュウ」さんの蔵。2017年6月撮影。

 

八丁味噌は、煮込めば煮込むほど旨くなるそうです。名古屋メシ、愛知県の地元料理はイロイロとありますが、「味噌」何々が結構多いです。「味噌カツ」、これは名古屋に来るまで知りませんでした。当初は、何故わざわざトンカツに味噌をつけるのか疑問に思いましたが、今では美味しく頂けます。味噌タレの味が旨いのです。でもまあ、毎日、食べたいとは思わないかなあ。「味噌煮込みうどん」、これは八丁味噌の特色=煮込んでも風味が落ちにくいことを上手に利用した料理だと思います。出汁の味は大好きなのですが、残念ながら、よく指摘されている様に、うどんに「芯が残っている」のがいまだに気になります。個人的には、「味噌おでん」「みそ田楽」「どて煮」「どて鍋」が大好きです。ビール、日本酒に合います。食べたことが無い方がいらっしゃれば、是非に、お勧めします。

毎年「なごやめし博覧会」というのが催されています。市の中心部、食堂・レストランの協力を得て開催されています。飲食店回遊型イベントと言うそうです。要するに、街中を食べ歩いて、何が一番、美味しくて、かつ、面白かったかを競い合って盛り上げるイベントです。今年は、2017年10月1日から11月19に開催されるそうです。是非、足をお運び下さいませ。

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愛・地球博記念公園の観覧車のトップポジションから撮影。「サツキのメイの家」は、写真の右上の池の更に右側に広がっている山林のなかにあります。2017年6月撮影。

 

 

 

 

愛・地球博記念公園⇒「ジブリパーク」に

愛・地球博記念公園が「ジブリパーク」に生まれ変わる!。6月1日の新聞記事に出てました。地元名古屋の新聞のみの報道かも知れません。

愛・地球博愛知万博)は、2005年に開かれました。メインの会場は、愛知県長久手市にあった愛知青少年公園(1970年開園)です。その万博の跡地が、愛・地球博記念公園と呼ばれています。万博開催時にも人気が高かったスタジオジブリの「サツキとメイの家」は、その後も残されていて今も公園の一番人気、「となりのトトロ」に登場する昭和30年代の家を再現したものです。

5月31日に、愛知県の大村知事とスタジオジブリの鈴木プロデューサーが名古屋市内で会談して大筋合意したそうです。大村知事が「ジブリの世界観は、愛・地球博の理念を継承することに繋がる」と判断し、県の全面協力を決めたと。

ジブリパークは宮崎俊監督が描いた「となりのトトロ」の世界観を、四季折々の草花や木々に溢れる自然豊かな園内200ヘクタールで再現する。2020年代初頭のオープンを目指すとのことです。またジブリパークを作るために、木々の伐採等の新たな開発はしないというのがコンセンサスになっている由。

 

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愛・地球博記念公園にあるサツキとメイの家」です。6月23日撮影。炊事場、書斎等々、昭和30年代当時のママに保存されていて、古き良き時代を体験出来るようになっています。

 

クルルのおじさんは、この「ジブリパーク」を応援したいと思っています。コンセプトが愛知に合致しそうな気がします。 『名古屋の魅力』、『名古屋の不思議』で書いてしまいましたが、「魅力の無い街」「行きたくない街」をいかに返上するか、大変な課題になっている名古屋ですが、これが切っ掛けになって名古屋・愛知に対する評価が変わる可能性も秘めているのではないかと。

そもそも、観点をチョット変えると、名古屋・愛知は「住みやすい街」として大変に高い評価を受けています。名古屋・愛知から他都府県に移住するかたの比率が低い。大学を他都府県に行っても、また、この地域に戻ってくる。これは、トヨタさんを筆頭に産業基盤が強固、要するに働く場所がある、就職できる会社がある。風土的にはもともと親子一緒の生活を皆さん慣れ親しんでいる。結婚しても親と同居する。2世代、3世代が同じ地所に住んでいるのも珍しくない。都市型生活も楽しめ、また、周辺の豊かな自然環境にも癒される。東京には行ってみたいとは思うが、住みたいとは思わない。こんな有難い場所は他には無いという見方です。

大前提は、地元に立派な企業、経済圏があって、そこで働くことが出来る、生活することが出来る、ということだと思います。トヨタさんには益々頑張っていただかなければいけません。

因みに、愛知県の人口は今年初めて「自然減」になる可能性があるとのことですが、「社会増」の為に全体の人口はプラスを維持しているそうです。「自然増・減」というのは、生れた数から死亡者数を引いた人口の増減、「社会増・減」と言うのは、県外からの転入者と県外への転出者の差を言います。これまで愛知県は、東京都、沖縄県と同様に自然増、社会増の両方を維持している数少ない都府県の一つであった。2017年4月の統計見通しでは、年間では「自然減」になりそうとのことです。「自然減」になるのは、1956年の統計開始以来初めて。「社会増」の背景は、やはり、製造業を中心とした経済の好調さによるものと考えられています(5月10日、日経)。

 

ジブリパーク構想は、こんな名古屋・愛知の土地柄に合う、地元の方にも歓迎される、そして、かつ、街の魅力も高め、訪問してみたい街にも繋がるのではないかと感じるんですよね。 この発表のあと、何故もっと盛り上がりがないのかが不思議なくらい。まあ、まだ、県とスタジオジブリは合意したばかりで、今後、運営方法などを協議して企業の参画を募る予定だそうですから、今からの話かとは思いますが。

今年の4月、名古屋市の魅力を発信するためのキャッチコピー「名古屋なんで、だいすき」が公表されました。5月後半には、ロゴマークも披露されています。名古屋らしく?チョット斜に構えて「名古屋なんて」と言いつつ「だいすき」と落としているのはナカナカの出来栄えかと思います。これに愛知の「ジブリパーク」が加われば、魅力度が大幅にアップするものと期待したいところです。

 

愛・地球博記念公園、通称「モリコロ公園」=モリゾウとピッコロの公園、将来の「ジブリパーク」は、名古屋駅から地下鉄東山線で終点の藤が丘に行き、リニモに乗り換え(リニモというのは、リニアモータカーを縮めた愛称)、愛・地球博記念公園駅に。名古屋駅から45分ほどで行けます。公園の周辺も自然がゆったりと残されている。45分で自然がゆったりと残されてところが名古屋・愛知の魅力だと思います。

 

愛知万博の前に、日本で初めて万博を開催したのは、大阪万博。1970年のことです。僕はたまたま偶然ですが、この二つの万博の時には、開催場所の大阪、名古屋に住んでまして、地元の人間として見物に行きました。

1970年の大阪万博の時は、まだ大学生。謳い文句は 「EXPO’70、人類の進歩と調和!」 よく覚えています。それこそ高度経済成長を謳歌していた日本国の国威発揚の場であったような。岡本太郎さんの「太陽の塔」も斬新なものでした。ご自分の顔をデザインされたのかとビックリしました。アメリカ館の「月の石」の展示が爆発的な人気で何時間待つの分からなかったとか。関西人独特の突っ込みでミンナが「人類の辛抱と長蛇」とおちょくっていましたが、予想をはるかに上回る入場者数に達し大成功だったはずです。いま思えば、あれが、大阪のピークやったんかもしれませんねえ。

2005年の愛・地球博の時は、商社時代の東京生活からメーカー勤務の名古屋・碧南生活に移って暫くした時でした。「愛知」にかけて「愛・地球博」と命名。これはウマいと感心したのを覚えています。21世紀になって初めての万博で、万博そのものも従来の参加各国のお国自慢合戦とは趣を変えていたと思います。 

 

なんと大阪が2025年の万博に挑戦するそうです。 政府と大阪府による2025年万博の誘致活動が本格化しています。6月7日には、誘致委員会が誘致活動のシンボルとなるロゴを発表、絵文字でにっこり笑った人々の輪。「Expo2025 osaka-kansai/japan」。

6月13~14日の博覧会国際事務局の総会で、大阪府の松井知事が立候補国としてのプレゼンをやりました。これに先立ち政府は4月に立候補を閣議決定。他にもフランス、ロシア、アゼルバイジャンが立候補しており、開催地は、2018年11月の総会にて加盟国の投票にて決定される由。会場の予定地は市が開発を進める人工島「夢洲」。大阪再生のきっかけにと期待されているとか。(6月19日、日経)。

 

 2020年は東京オリンピックの開催が決まっていますが、これに続き、2025年に向かって大阪は再度、夢洲での万博の開催を志向し、一方で、愛知は跡地の公園の運営を民間中心にして2020年代初頭のオープンを目指すと。比較する意味はあまり無いかもしれませんが、今回は、愛知に軍配が上がるような気がして面白いですね。

 

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同じく愛・地球博記念公園、林床花園。6月23日撮影。

庖丁

図らずも、前回の『中華鍋』に続き料理道具編、その2.『庖丁』です。昨年の9月のブログ『料理って』『続、料理って』で書きましたが、火=料理というのが西洋料理の基にある考え方。かたや、日本料理の神髄は、割烹。すなわち、『割』=切ること、割ること、『烹』=火を用いて煮たり焼いたりすること。つまり、日本料理では「いかに切るか」ということが「いかに火を入れるか」ということと同等以上に重要視されています。この文脈から言えば、僕も最初に『庖丁』を書いてから、その後で『中華鍋』を書く方が良かったのかしらと反省しております。

確かに、日本では家庭で料理をしなくなっている状態を「庖丁の無い家庭」とか「マナ板が無い台所」とか表現してます。切ることに使う道具が、日本では料理・台所・家庭を象徴しているのかも知れません。その流れで言えば、欧米は火がベースだから同じことを表すのに「コンロの無い台所」なんて言ってるのかも知れませんね。電子レンジで全て対応して食生活を送っている方もいらっしゃるような気がしてきます。

 

その庖丁ですが、僕は何の変哲もない、いわゆる、三徳庖丁を使っています。肉、魚、野菜、全てに対応できる「三徳」=万能庖丁という意味だそうです。僕は、野菜大好き人間ですから、庖丁を使っているシーンを振り返ると圧倒的に野菜を捌いているところが出てきます。玉ねぎのみじん切りは最初は手間と時間がかかりましたが今では得意技の一つになりました。キャベツの千切りも楽しい作業かと。雑誌か本で栗原はるみさんが「ただひたすらにキャベツを千切りにするのが大好きです云々」という表現をされたことを覚えていますが、その気持ちはよく分かるように思います。

キュウリの輪切り、トントントンと切るのも楽しいと思います。秘密の技ですが、マナ板の上でトントントンと切るのではなく、空中で、左手にキュウリを持ち、右手に包丁を。手首を柔らかくしてグリップだけで包丁を動かしキュウリを輪切りにすることが出来ます。上手くいけば3-5㎜程度には均一にカット出来ます。問題点は、切ったキュウリの輪切りが流しのなかに散らばってしまうこと、および、やはり危険なことです。よい子の皆さんはマネをしないでください。最近は庖丁を使わず、1.5㎜程度の輪切りが簡単に出来るスライサーを使っています。便利な道具があるものです。

レタスを丸ごと買ってきて保存する技も覚えました。単に半分にカットしてそれぞれの芯のところに庖丁を入れて芯を取り除くだけです。レタスですから庖丁が気持ちよく入ります。それをラップまたはビニール袋に入れて冷蔵庫に。最低1週間は新鮮、パリパリ状態が維持出来ます。その他、大根、ニンジン、ジャガイモ、かぼちゃ(ちょっと硬いか)等々、野菜を庖丁で切るということには、何か「快感」が伴っているかも知れません。スパッと切れるから。僕が野菜料理大好きなのは、切るのが気持ち良いというのも影響しているかと思うくらい。

 

庖丁は、右手の親指と人差し指で刃元の腹をしっかりと握ります。人差し指を庖丁の峰に添えたりしない。残りの三本で柄を握る。これはゴルフのパターの握り方と一緒なので気にいっています。構えは、まず、まな板に正対。右足を半歩後ろに、そうすると体の面がまな板に45度の角度になります。これは自分で編み出したスタンスだと自負していたのですが、残念、その筋の本には、同じ説明が随所に見られました。皆さん同じようなことを考えるものだと感心しました。左手の指は、第一関節を柔らかく垂直に落として食材を軽く押さえる=横から見れば庖丁の刃と並行になっている。安全第一を心掛けています。

 

「有次と庖丁」という本があります。江弘毅さん著。新潮社。2014年3月初版。思い出してザアっと読み返してみました。最初に読んだときには全く記憶に残っていませんでしたが、改めて読むと面白いことをたくさん再発見しました。

僕が使っているのは「三徳庖丁」ですが、この庖丁は、両刃の牛刀から派生したものだそうです。意外と最近になって出来たもので、洋食が家庭に入り込んだ高度成長期に日本で作られたものだそうです。その基になっている牛刀というのは、文明開化で西洋化が進んだ東京で(牛・豚の肉料理に対応するために)肉を切るため両刃の新しい庖丁を東京・横浜の鍛冶屋、包丁屋が作ったものだとか。それまでは、庖丁と言えば「和庖丁」だった訳ですね。

「有次」というのは京都・錦市場でただ一軒、庖丁・料理道具を取り扱っているお店、和庖丁の老舗です。ご当主は何んと18代目になられるとか。このお店は藤原 有次という方が刀鍛冶として永禄三年=1560年に創業されたそうです。明治から大正にかけて包丁が主要な品目となり、鍛冶屋さんから包丁屋さんに。その時に、堺の鍛冶屋さんである沖芝一門の「打刃物」「本焼き庖丁」を取り扱うようになった。この沖芝一門も元々は村上水軍の刀鍛冶で広島・京都・堺の世界で有次さんと深い繋がりに。刀匠の伝統的な鍛冶仕事、鉄を打って鋳造する打刃物が今や世界的にも高い評価を得られている由。ちなみに、洋庖丁、三徳庖丁のほとんでは、抜刃物=鋼をプレス機で型抜きするものとのことです。

このお店、ここの包丁が凄いと思うのは、お客さん(プロの料理人、素人の個人を問わず)と包丁一本で何十年ものお付き合いを続けられていること。京都の歴史と伝統そのものが支えてくれているのかとも思います。庖丁に対する日々の”お世話”と定期的な”研ぎ”の重要性そして喜びをお客さんと共有されている。当主さん「大げさに言えば、よい鋼の庖丁は人の性格をも一変させる。ずぼらな人が良い庖丁を使うことによって、お世話することが好きになる。そうすると道具が喜んで役に立ってくれるから、余計にまたお世話したくなる。それを見ている子供たちは当然素直ないい子に育ちます」(註:原文は京都言葉で書いてあり、もっと味わいがあります。)

この考え方(思想ですね)を基に、更に更に、深く和包丁の世界を知ってもらうために「有次」のお店では、包丁研ぎ、魚のおろし方、料理、の三つの教室を開いていると。どれも予約がずっと先まで埋まっているそうです。古い割烹の料理人さんは、有次の柳刃庖丁を三十年以上使っており、「研いで研いで、ちびてちびて」そして、ぺテイナイフになっても使っているとか。

 

昔むかし「庖丁一本さらしに巻いて」と言う歌詞の歌謡曲がありました。「月の法善寺横丁」、歌は藤島恒夫さん。昭和35年=1960年発売。大阪では結構流行っていて子供の頃に訳も分からず歌っていたのを覚えていますが、今回、初めて時代環境と「庖丁」の重みが理解出来ました。「庖丁」は花形職人のシンボルだった。大正後半から昭和初めの時期、大阪や京都で対面式の板前割烹の料理屋スタイルが確立していたそうです。それまでの料理店、料亭では、料理人は奥の厨房で料理する。それを仲居さんが座敷に運んできて座敷のお客さんにだすというスタイルですが、板前割烹、上方割烹では、客の目の前で包丁を握り、その切れ味と腕前を披露する。割=庖丁方、烹=煮方とに分かれていたらしいですが、やはり、庖丁方が花形であり、庖丁方の板前にとっては、打刃物・本焼き庖丁は大変なステイタス・シンボルであったと。お客さんの前で魚を捌き刺身を引く。出来上がった皿の上の料理を鑑賞する以前に、板前の庖丁捌き・調理プロセスを目の当たりに出来る。日本刀様の刃紋を持つ庖丁の腕と技があれば男一匹カッコよく生きていけた時代。この本の表紙の帯のコピーには「有次===包丁こそ和食である。」と書いてありますが、なるほどと納得させられたような気がしました。

 

ここで漸く気が着きました。そうか、僕が全く頓着しないで三徳庖丁を使っているのは、やはり、魚を捌くことをほとんどしていないからだ。「割」の基本は、魚を捌く、刺身を引く。僕には、まだ、出刃庖丁、柳葉(刺身)庖丁を使う場面がないから気にならないでいたのか。料理の奥も深いなあ。いつの日か、京都に行って、庖丁を買いたいと思うようになるかしら?

 

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 留守宅の永良部のゆりが満開。これだけ咲いてくれると豪華です。2017年6月11日撮影。

 

おまけ

数年前、名古屋のマンションの近くにあるカウンターのステーキハウス(板前割烹ステーキハウスだ!!)で、メインデッシュのあとですが、チーズを出してくれました。ワインとチーズの組み合わせは、僕が大好きなものの一つなので。普段は、バゲットを普通に切って、それにチーズをのせて頂いていましたが、このお店ではホントに薄く(3㎜程度のイメージ)切って、ちょっとオーブンで炙ったものを添えて出してくれました。チョット炙ったバゲットは蝶々の葉模様のように美しく。もの凄く美味かったです。それこそ目の前で切ってくれましたが、あの時のナイフ(庖丁)捌きは神業に思えました。パン・バゲット切り用のギザギザのついた刃の長いナイフではなかった。今思えば、刺身庖丁のような鋭い刃の細身の長い庖丁のように思えます。マンションの台所でやってみても上手くカット出来ませんでした。バゲットが違うのかと思っていましたが、庖丁が違ったのかしら。大将にイロイロと教わっておけばよかった。このお店は、数年前に急に引っ越しされてしまいました。残念。

 

 

中華鍋

手元に中華鍋があります。打ち出し式のプロ仕様のものです。横浜市金沢区にある山田工業所製。特注でIH対応型になっています。厚さは1.6mmです。通常のものは1.2mmとのことなのでチョット重いですが熱容量は十分。打ち出し式というのは、鉄板を数千回ハンマーでたたき出して鍋を作る。この山田製作所が国内では唯一のメーカーとのことです。この会社以外はほとんどがプレス式の製造。

僕の名古屋のマンションがIH対応の台所なので、打ち出しの中華鍋の底をわざわざ平らにならして作って頂きました。それも、平らな底の面は鍋の周りの縁の面と並行では無く、わざわざ手元の方に底をずらして作ってあります。つまり、コンロの上に置くと、自然に手前が下がり、奥が上がっている状態になります。

これは、IH対応ではコンロに底を着けたまま料理をするので、前後に揺するのに捌きやすい様に工夫されたもの。厚みを1.6mmとしたのも、ガスコンロのように鍋を持ち上げる必要もなかろう故、置いたままを想定して熱容量を大きくとることを狙ったもの。まさに世界に一つの僕だけの中華鍋!。

これは、先輩というのか、同志というのか、お世話になっている方というのか、お酒友達というのか、とにかく、楽しく一緒に飲んだくれることが出来る先生からのプレゼントです。「ドラゴン先生」。このブログでの通称です。もう十年近くのお付き合いになるはずですが、ある時、例によって一緒にお酒を飲んでいる時に、料理の話になった訳です。普段でも盛り上がるのに、お酒が入っていれば、もう、お互いに絶好調。得意料理の極意を開陳したり、それはそれは大変に盛り上がってしまいました。それ以来、会食の時には(必要な相談ごとがあっての会食ですから真面目な話が半分、いや、もっともっと、真剣な会話はしております。念のため。)料理の話は必ず出るようになりました。最初は、腕前は五分五分かと思っていたのですが、実際は敵の方が奥深く、経験も長そうだ、形勢は大変に不利な状態であることが理解できるようになりました。

そして、最近とどめを刺されました。鍋談義。「やはり、それなりの専用の中華鍋は持つべきである。よい道具は長く使えば使うほど馴染んでくる。」vs「テフロン加工のフライパン、便利で、そしてダメになったら使い捨ての道具。」激論を戦わせ、敗色濃厚ながらも徳俵一枚で踏みとどまり、再戦を約束して解散。その日は千鳥足で家に帰りました。

 

しばらくしてドラゴン先生から連絡があり「暇な時に事務所施設に立ち寄ってくれ」と。ドラゴン先生から呼び出しが掛かるというのは珍しいことなので、たまたま都合が悪くなかったこともあり何事かと日を置かずにお邪魔しました。渡されたのがこの中華鍋。「すでに空焼き済みである。錆止め剤の処理等も済んでいる。今晩すぐにでも料理に使える。」とさすがにプロの発言。なんでも30年来この鍋で料理を続けている由。いやはや、大変な(料理の)経歴の先生と料理の話をしていたものか。反省、落ち込みながらも、そこから立ち直るのが早いのが取柄です。その日はマンションに直帰し、袋をあけて改めてビックリ。前述の通り、これはただモノでは無いという感じが伝わってくる鍋でした。

 

それ以降、二週間ほどで5回か6回は使いました。まずは、何んと言ってもパラパラ炒飯。これは僕の得意料理です(多分、世のおじさん方のほぼ全員の得意料理かと思いますが)。道具が良いと気分も良くなるもので、出来栄えに大満足。わざわざ持ち上げる必要が無いように底を平らにしてもらっているのですが、敢えて持ち上げて、あおり返す。この技は最近ようやく出来るようになりつつあったものですが、これが、スパッと決まりました。重さがある方が返ってバランスがとりやすいのかも知れません。IHではカッコ付けるだけの技ですが、これが出来るとチャーハンが美味しく出来るような気がします。全く、自己満足の世界です。「きょうの料理」のテレビ番組で料理研究家の土井善晴さんが、見事にフライパンを煽ってご飯返しの技を披露「この瞬間が私は大好きです。生きていて良かったと感じるんですよ」てな趣旨のことをシャレ?でおっしゃってますが、あれは本当にカッコよいと思います。

 

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これが、その鍋。「戦艦ヤマト」と命名しました。ドラゴン先生からこの鍋を使用するに際しての指導がありました。「使用する時には、煙が出るくらいまで熱してから油を入れる。使用後は中性洗剤を使いタワシで洗って良し。洗った後は、よく乾燥させること。巷間言われる、洗剤で洗ってはいけないとか、使用後は油を塗るべし、というのは迷信である。自分は、こうして30年以上この鍋を使っているが、今も気持ちよく使える。長い期間使っているうちに油の酸化膜がこびりつき焦げやすくなったときには、改めて、から焼きをして油を馴染ませれば新品同様になる!。から焼きは、火力が強ければ短時間でも出来るが、家庭用のコンロでは30分以上はかける方がよい。」と。いやあ、30年の重みが詰まっていると感心しました。

とは言え、先生のお言葉ながらも、今の段階では、僕は使用後には油を塗って(洗って乾かしてその後に)使っております。油を塗ると何とも重厚な色艶になります。見ているだけで楽しくなるような。その精神状態で記念に撮影したのがこの写真です。「戦艦ヤマト」の気配を感じて頂ければ嬉しいです。

 

もちろん、鍋は観賞用ではありません。使ってナンボ。道具が良いと何を作ろうかと楽しみになるものです。初めて分かりました。それ以前から、健康のこともあり「酢玉ねぎ」を楽しんでおりました。この酢玉ねぎをベースに出来る料理はなんだろう、というのが最近のテーマであったのですが、「戦艦ヤマト」を見ている時に、ハタと閃くところがあったのです。

 

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これがその料理。我ながら上手く出来たと自画自賛。わが生涯ベストの料理です。

鰯の手開き、酢玉ねぎ、ニンジンとピーマン、忘れてはいけないのが、クルルのきびオリゴとしょうが。これで完璧です。せともの楽市で買ったお皿に盛り付けて完成。このレシピは、クックパッドの「クルルのおじさん」にアップします。本日は「戦艦ヤマト」をプレゼントして頂き、料理の意識が高揚しているクルルのおじさんの料理自慢でありました。

 

 

ドリアン

マレーの物語, 三部作で完結と考えてましたが四回目になります。お付き合い下さい。

 

ジョホールバルでは一軒家の大きな家に住んでいました。現地では高級住宅地の一角にあります。門から玄関までちょっと登り坂になっています。家の前の道路の向こう側は海に面している。海の向こうはシンガポール。一階は、洒落た応接間に台所、食堂。それにアマさんの部屋(住み込みのお手伝いさんの部屋=倉庫部屋)、風呂、トイレ。二階には大小の部屋が三つ四つありました。アパートまたはマンションという選択もあったのですが、あまり設備が良いモノがなかった(我々が帰国する時期になると、新しい立派なマンションの建設ラッシュになっていました)。広い庭。現地ではどこにでも植えられているハイビスカスとブーゲンビリア。裏庭には、バナナの木もありました。丁度、長男がバスケットボールに興味を持っていた時だったので、庭にバスケットボールのリングを一つ作ってもらいました。日本の公園によく置いてあるワンオーワンが出来るイメージです。

 

家の庭の排水溝にはイグアナが住んでいました。ある朝、家でのんびりしている時に今から庭を見て発見。ビックリ仰天。子供たちも呼んで、皆で居間のガラス越しに見物。僕もこの種の動物は全くの不得意ですが、家族も同様に大嫌いでした。怖がっていましたが、物珍しさもあって長い時間見ていました。「イグアナはネズミを食べてくれる。ニンゲンは大きいからイグアナがニンゲンを恐れている。人間を襲うことは無いから安心しろ」と子供たちに説明しましたが真偽のほどは定かではありません。近所に日本人家族が住まれており、こちらは動物大好きのご家族。爬虫類系も好きで、家の居間をトカゲ、カメが散歩しているような。一度は、イグアナを鶏の肉でおびき寄せ捕獲して家のお風呂場でしばらく飼っていたとか。同じイグアナであったのかどうかは全く分かりません。

 

 ドリアンという果物があります。マレーシアでは果物の王様と呼ばれています。マレーの皆さんは、マレー半島が原産地とおっしゃってます。マレー系・中国系・インド系を問わず嫌いな人はいないのではないかと思います。

ジョホールバルの町では、道路沿いの露店とかリヤカーに乗せて良く売っていました。熟して食べごろになると自然に硬い殻が割れてくる。この頃になると特有の強烈な臭い(におい)がします。香りではなく、はっきり言えば臭い(くさい)。腐敗臭のような臭い。よくこんな臭いのものを食べるものだと思うくらい臭い。当時は、日本では出回っていなかったので食べたことはありませんでした。最初に食べる時には勇気がいります。まだ、家族が来る前に、駐在の先輩から「騙されたと思って食べてみろ」と勧められ食べさせてもらいました。

露店のおじさんに食べごろの美味しいものを選んでもらいます。その場で、彼が大きな包丁=ナタのようなもので殻を大きく割ってくれます。殻を割ると中には果肉が2個か3個入っている房が五つほど並んでいる。大胆に手掴みで食べるとクリーミーな美味しさ。濃厚な味。栄養満点と感じる食感。「これが本格的なドリアンの食べかたや」と先輩。臭いので家に持って帰る訳にはいかない。殻を割っていったん実を取り出してしまうと結構早く果肉の張りがなくなってくる。露店で割ってもらったものを手掴みで食べるのが通であると。初めて食べたドリアンが食べごろの美味しいものであれば、ほぼ、間違いなくドリアンのフアンになるそうです。

 

その後、家族が一緒になってから、ソウさんが自分の家の近くにあるドリアン農園でドリアン祭りをしてくれました。農園といってもドリアンと言うのは20mから30mにもなる大きな木です。この大木の枝に30㎝くらいの実がたくさーん頼りなくブラさがって生ります。熟すると自然に落ちてくる。実の外側は、固いトゲトゲ、イガイガの殻で被われていますから、もし、人が歩いている時に落ちてきたら大変なことになりそうですが、ヒトの頭の上には落ちてこない(と信じられています)。ドリアンが落ちてきてケガをしたという人はいないそうです。この日は、会社の現地の社員・家族も集まって、お互い気兼ねなく、あちこちに陣取ってドリアン祭り=ドリアン食べ放題。ドリアンだけでなく、それ以外の果物、簡単な軽食、飲み物も準備してくれていますが、やはり、ドリアンが一番人気。皆さんドリアンに挑戦しますが、これは濃厚なだけあって、3個か4個の果肉を食べればお腹がいっぱいになってしまう。丸ごと実全体に挑戦する若いのもいるのですが、ほぼ全員途中でギブアップ。お腹がいっぱいになってしまう。

いつも通り、缶ビールを開けて一口飲み始めたところ、現地の皆さんが「ドリアンを食べる時にはビールを一緒に飲むのは止めた方が良い=危険である=死ぬ時もあるという話を聞いたことがある」と言います。僕はモノを食べる時には(アルコールを)飲むのが習慣になってる人種でしたから「そんなことはあり得ないだろう」ともう一口飲みました。が、そんな話を聞いてしまったからか、いつも程のペースでは飲むことが出来ません。濃厚な果物で、食べた後の膨張感が強くお腹がパンパンに膨れるので、ビールには合わない果物だと思います(まあ、ビールに合う果物というのもあまり聞いたことが無いですかね)。ちなみに、ドリアンはホテルへの持ち込み、飛行機の機内への持ち込みは固く禁止されています。僕の家族は、ドリアンも美味しく食べていましたが、ライチとか、ランプ―タンとか、マンゴスチン(これは果物の女王と言われてます)とかの方が好きだったかも知れません。

  

駐在して三年目になるチョット前に、イロイロ事情がありシンガポールに引越しをしました。会社は変わっていませんから、僕は毎日ちょっと早く起きて、シンガポールから国境を越えてマレーシアに、ジョホールバルを通り越してパシールグダンにある工場に通勤です。愛車トローパーは大活躍、よく走ってくれました。両方の国のイミグレを通る時にはパスポートにスタンプを押しますから、増刷してもパスポートは2-3か月に一度は更新する必要がありました。その内に、確かシンガポール側であったと思いますが証明書を見せればスタンプ不要と便利になりました。

子供たちは学校が近くなり喜んでいました。それまでは、放課後シンガポールの友達とは一緒に遊ぶことが出来ませんでしたが、遊ぶことも出来るようになりました。また、みんなが通っている塾にも通えるようになりました。友達の数も増えたのではないかと思います。

 

通勤途上は、もっぱら、車のラジオの英語ニュースを聞いていました。ラジオはつけっ放しの状態。発音が分かりやすいアナウンサーとそうでもない方と。また、ローカルなニュースが多いようで聞いていてもよく分からないことが多かったです。ある日、アナウンサーが興奮気味に話しています。

ガーガー、コーベ、ジャパン、アスクウエイク、デザスタラス、ガーガー、と繰り返し。「ちょっと待て、もうちょっと落ち着いて喋ってくれ、神戸、地震、なんやてえ」これは大変だ、神戸に地震だ、それも大きな地震のようだ。会社に着いてから、すぐに情報収集しましたがよく分かりません。手分けして日本の本社、個人の留守家族と連絡を取るようにしました。関西方面は一切電話が通じませんでした。

 

阪神淡路大地震、1995年1月17日、日本時間5:46。会社との間は早い時間に連絡が取れましたが、本社側も大混乱の状態。イロイロなルートを駆使して駐在員の留守家族の安否を確認しようと焦りました。関西方面に住んでいた方が多かったのですが、なかなか連絡がつきませんでした。僕の母親も大阪で一人暮らしでした。シンガポールのカミさんが池袋の実家に連絡を取って、そこから電話をしてもらいましたが、なんとか無事であることの確認が出来たのは午後になってからであったと思います。僕の家族・親戚では、兄の嫁さんの実家が神戸市須磨区でしたからモロに被害を受けましたが、幸いなことに皆さんの無事が確認出来ました。駐在員の留守家族・親戚でも最悪の事態だけは無かったことが確認出来たのは夕方になっていました。その日は定時に仕事を切り上げて早めに家に帰りました。

シンガポールの家のテレビ、新聞で見る地震の状況は想像以上でした。僕は大学が神戸だったこともあり、知っている場所が映されていましたが、全く、声も出ませんでした。

 

 シンガポールに移ってからは、家族でドリアンを食べる機会は無くなったように記憶します。ジョホールのように道路沿いで売っている景色も無かったように思います。シンガポールでは二年ほど生活しました。僕は二年間ほど国境を越えた通勤をしたことになります。ほぼ四年間の駐在を無事に終えて1996年の秋に帰国しました。

 

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 きょうの料理、2007年4月号=50周年記念号。それから10年、2017年4月号=60周年。同じく、きょうの料理ビギナーズの創刊号と10周年記念号。僕の料理歴そのものです。