クルルのおじさん 料理を楽しむ

『食は広州に在り』と『吉本隆明「食」を語る』;芋づる読書・その2.

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  新型コロナ感染者が再度、急増しています。30日の朝刊では「全国で29日に確認された新規感染者は1237人、一日あたりの過去最多を更新した」。東京だけでなく首都圏外でも感染が急増。愛知県も例外でなく、同29日には過去最多の167人。大阪、福岡などでも過去最多を更新、今まで感染者がゼロであった岩手県でも2人の感染が確認され、これで47都道府県の全てで感染者がでたことになるそうです。

  

 

鯱城学園の予定は再度、中止・延期になっています。28日は、陶芸クラブの本年度第一回目の集まり(僕にとっては初めて)だったのですが急遽、中止になりました。29日は、個別の懇親会をやる予定であったのですが、これも中止にしました。鯱城学園は”高齢者”の集まりそのものですから、極めて適切な判断だとは思いますが、連日、予定がなくなると気持ちの張りが無くなっていくのを感じます。そして、長く続いている雨。気分が滅入ります。(幸いに被害にはあっていませんので、雨が続いているくらいで文句を言うとバチが当たるかも知れません。被災地の皆さま、くれぐれもご自愛のほど。)

  

 

僕は同年配の方の中では、屋内で、そして、一人でも楽しめるコトをたくさん持っている方だと思っていますが、予定が次々と中止になり、雨で散歩にも行けなくて部屋の中で閉じ籠りとなると、生活のリズムが狂ってストレスが溜まるのを感じています。料理を楽しむのは一日に食べる回数だけしかないし、俳句の勉強、ピアノの練習も朝の時間中心です(両方とも、長い時間は集中できない、長く練習を続ける体力・気力が無いから)。という訳で、やはりまとまった空白の時間は本を読むことになります。

  

 

ちょっと前のブログ『China Syndorome』を書いている時に、このSARS事件の発端になった地名をタイトルにした本が隠れ家の本棚に寝たままになっているのに気が付いていました。『食は広州に在り』。神保町の古本屋さんで買った本。エッセイです、全く気楽に読める本。そして、その本の隣には『吉本隆明「食」を語る』がありました。

 

 

最初から話が逸れますが、吉本隆明は、1960-70年代の学生運動に衝撃を与えた人です。詳しくは「芋づる読書・その1.」に書いた通りですが、そのオッサンが登場する”「食」を語る”と言う本のタイトルが如何にもおかしくて(不釣り合いで)面白いと思い買った本でした。多分、同じ時に、神保町の同じ店で買ったのだと思います。神保町の古本屋さん街には、特定・専門ジャンルの本を扱っている本屋さんが沢山あります。「食」「料理」も人気のあるジャンルの一つだと思います。

 

  

話を戻して『食は広州に在り』。邱永漢(きゅう・えいかん)さん著。日経新聞社、昭和57年(1982年)第一刷ですが、あとがきを読むと、昭和29年(1954年)ゴロ、香港から東京に移り住んだ著者、邱永漢さんがふとした切っ掛けで、大阪の鶴屋八幡がスポンサーをしている「あまカラ」という雑誌に寄稿することになった。2年半ほど連載して一冊分になった時に、龍星閣という本屋さんから出版の誘いを受け、昭和32年(1957年)に大変に立派な装幀の本を出してもらったものらしいです。

  

 

随分と昔に書かれた本だということに驚きますが、中身はいま読んでも全く違和感はありません。大変に面白い内容---食べ物エッセイ---でした。各章のタイトルが中国文字(漢字)で書かれていて、それを日本語で翻訳して書いてあります。

最初の章が「食在廣州」=「食は広州に在り」。

中国人にとっては食べることが如何に大切なことであるか。食糧が不足して食べるものに困っていたから食べることが大切という意味では無く、美味しいものを食べることが人生の重要なことの一つであると。その中国で「食は広州に在り」と言い古されているほど、広州は、食べ物の種類が多く、そしてそれらが全て旨い!という意味であると。ちなみに邸永漢さんは台湾生まれですが、奥さんが広州生まれの方です。

 

 

邸永漢さんというのは、僕らの世代には大変に有名な実業家、経営コンサルタントで、同時に作家、エッセイストの方です。1924年の生まれ(生まれは前述の通り台湾です。台湾は当時、日本の統治下でした)、東大経済卒業。僕には、文筆家のイメージよりも「金儲けの神様」と呼ばれていた経営コンサルタントとしての記憶が強くありますが、作家として1955年に直木賞を受賞されていますから、作家・エッセイストとして有名になられた方が早かったようです。

 

 

とにかく、この「食」のエッセイを書かれた時期が1950年後半であった、ということに改めて驚かされます。戦後から高度成長期に転換しつつある日本であったのでしょうが、まだまだ、腹いっぱい食べることに一生懸命の時代であった(少なくとも、僕の家はそうやったなあ)かと思います。中国の食・料理、中国の文化そのものは、時の国家・政権、戦争の影響、等々には影響を受けないものだ、ということが根底にあるのでしょうか。それとも彼が属しているブルジョア階級(古い言葉や)の中でのみ話題にされる内容の本だったのでしょうか。

最近、イロイロな料理の本、食べ物の本が出版されていると思いますが、今の時代にグルメ本として出版されても全く違和感を感じない。面白いと思ったところを簡単に紹介します。

 

 

広東料理の食べ物の範囲の広さは、昔から、ずっーと有名であったようです。猫、犬、蛇、鼠の類から田圃の泥の中に沸く虫まで、人間の口に入れて害のないモノはことごとく食膳に供される。そして、その料理の方法も研究されつくしていると。要するに”美味しい、旨い”と感じさせるレベルにまで料理しているとのことです。

例えば、蛇は毒蛇まで調理されるそうですが、割いたあとの蛇が毒を持っていないかどうか調べるのが大変なノウハウとか。一つの例として蛇を水で煮る時に煮汁のなかに大豆を10粒ばかりいっしょに入れて、あく抜きをした後も大豆の色が変わっていなければ、無毒になっている証拠とか。時間と手間と金をかけて料理した蛇は形はグロテスクでも大変に柔らかく味も良いとか。まあ、この方はお金持ちですから、ゲテモノ料理と言っても高級調味在料を加えた宮廷料理風のものを想像します。やや僻んでしまいます。

SARSの時には、中国も高度成長に差し掛かりつつあり、生活の向上に応じてゲテモノ料理を試そうとする人が多くなりすぎていた「野味の時代」であったのが背景にあるように改めて思ってしまいました。

 

 

僕の大好きな「豆腐」についての章がありました。「豆腐談義」---豆腐を食わせる話。

「どこの料理もそうであるが、シナ料理でも正式な宴席になると料理の出し方に一定の順序がある」そうです。また、「中国人のあいだでは昔から『不時不食』と言って季節のモノでないと食べない」という考え方があるとか。

この「不時不食」の制約を受けない食べ物が豆腐。夏でも冬でもうまい、料理の方法も多種多様であると。しかし、「豆腐は中国でも家庭の常食として賞用されているが、いわゆる粗菜に属して、正式宴会には顔を出さないことになっている」とか。友人から「豆腐は料理の仕方によっては決して平凡なものではないよ」と言われて、邱永漢さんも大いに共鳴したそうです。

 

 

著者が「豆腐の発明者は淮南王劉安(わいなんおうりゅうあん)であると言い伝えられている」と書いたら、友人から日本の豆腐屋の看板に「淮南遺風」と書いたのがあると教えられたと。まさか豆腐屋の親父さんが自分で書いた看板では無いとは思いつつ、一昔前の日本人の漢学に対するウンチクは大したものだと感心したとの記述がありました。戦後間もなくの時代のはずですが、日本の民度、教養水準は大したもんであったと思います。ちなみに、淮南王劉安は「淮南子」の編纂で有名な方、漢の高祖の孫です。「淮南子」は「人間万事塞翁が馬」を含んでいる故事成語集で有名です(ググって知りました)。

 

 

この本の「あとがき」に、著者が丸谷才一の寄稿を載せています。最初に「丸谷才一が自著の『食通知ったかぶり』で、(この本を)戦後の食べ物三大名著の一つに取り上げた」ことが記載されており、その縁で、この本が中央文庫に組み入れられた時に、丸谷さんに解説を書いてもらったそうです。 これが面白かったです。日本と中国では、国家を見る時の見方が全く違うものだと改めて思いました。ちょうどこの時に、「芋づる読書、その1.」7月のNHK100分de名著「吉本隆明共同幻想論」を見ている時だったので。

 

 

丸谷曰く、

邱永漢は亡国の民である。---彼には、国は何度も亡び、王朝は何度も改まるという、そしてそれにもかかわらず個人は悠々として生きてゆくという、中国何千年の伝統が身についていた。そのような彼にとって、たかが一度の戦争に破れ、あわてふためいている当時の日本人の暮らし方は、まことにみっともないものに見えたに相違ない。国が亡んだとて、そんなことくらい何でもないではないか。大事なのは個人がこの一回限りの生を楽しむこと---彼はそういう趣旨の手紙を、亡国の民の先輩として、我々後輩に書き続けたのである。」というモノです。

 

 

「その1.」で記載した通りですが、吉本の「共同幻想論」は1968年に出版されていて、戦争を肯定し国家のために死ぬことを覚悟していた吉本隆明が、敗戦により自分が確信をもって抱いていた死生観が全否定されてしまったことが原点です。

 邱永漢さんは台湾人(お母様は日本人)ですから、敗戦の受け止め方が違うのは当然のことだとは思いますが、吉本隆明とは対極にある敗戦の受け止め方。丸谷さんの寄稿を自分のあとがきに載せている訳ですから、丸谷さんの書いている気分は全くその通りということなのでしょう。吉本が「共同幻想論」を記載した背景には敗戦の原体験が大きく影響している訳ですから、もし、その時点で中国の方の国家に対する考え方、いい意味でも悪い意味でも”亡国の民”のイメージを掴んでいたら、どうなっていたのかしら、と余計な想像をしてしまいました。「その1.」の「国家とは」の件であえて日本だけに限定した理由です。

 

  

このお二人を対比することに意味があるのか分かりませんが、偶然とは面白いもので、調べていると、このお二人、邱永漢さんと吉本隆明さんは同じ年に生まれ、同じ年に亡くなっていたことを知りました。僕は本を読むときに、その著者の時代背景が気になるのでいつも生年月日を調べていますが、面白い発見だと思いました。

 吉本隆明1924年大正13年)11月、東京市月島生まれ。邱永漢、同じく1924年3月、台湾台南市生まれ。そして、ともに2012年都内の病院にて亡くなったそうです。

 

 

 

駆け足で、吉本さんの本の話をします。 『吉本隆明「食」を語る』。朝日新聞社、2005年3月、第一刷発行です。聞き手、宇田川悟さんとの対談。宇田川さんは1947年生まれの作家。パリに長く住まれてフランス社会・文化に詳しい方とか。当然、食文化にも造詣が深い。偶然ですが「食はフランスに在り」と言うタイトルの本も出されています。「サントリークウォータリー」誌のホスト役として吉本隆明とのインタビュー記事を掲載したのをきっかけに吉本さんと「食」をめぐる風景を全て聞き出したいと30時間以上の対話を行ったものです。

 

 

宇田川さんの”あとがき”にある吉本像がしっくりきます。「私たちべビーブーマーにとって左右のイデオロギーを超えたところにいる巨人、吉本隆明は何か得体の知れないミステリアスな人である。---戦後最大の思想家と言われる大きな存在は、私と同じ世代の人間なら誰にでもそれとなく影を落としている。」

 

 

この対談集は「食」を切り口にして、吉本隆明の年代ごとの姿を描いたもの。目次を見ると分かり易いですが、Ⅰ戦前=幼少期、Ⅱ戦中・敗戦、そして、Ⅲ戦後=サラリーマンから物書きへ、Ⅳ家庭生活をめぐる料理考、Ⅴ老年を迎え、今、思うこと。この本を読み直している時、ちょうど「その1.」のNHK100分de名著が放送されていましたので、吉本が「共同幻想論」を著した背景を別な観点=「食」からも伺い知ることが出来て、両方を平行して読んだり視聴したり、興味深く楽しむことが出来ました。

 

 

吉本ばななさんは、吉本さんの次女ですが、彼女の著書「キッチン」について触れているところがあります。また、自分の失敗談として「子ども(ばななさん)の作品について、編集者に頼まれて一度だけ雑誌に評論をかいて褒めてしまった」ら、周りから非難されたとか、親の七光りだと子どもが嫌味を言われたとか。しかし、そのうち、吉本さんのほうが「ばななさんのお父さんですね」なんて言われて”わあ”と思ったとか。「自分の子どもの作品を論じることは、どんなに公平にやっても、やるべきでないというのが反省」とのことですが、この辺りは「戦後最大の思想家」もそこら辺にいる親バカおやじと変わらないものですね。

 

 

この本の刊行は、吉本さんが、すでに81歳の時のものですが、2003年には、79歳でそれまでの講演集に手を加えた「夏目漱石を読む」で小林秀雄賞を受賞されています。晩年までお元気だったのですね。宇田川さんのあとがきに「戦前戦後という困難な時代を生きてきた、今や八十歳を迎える吉本さんの底知れぬヒューマンな魅力に取りつかれた」というのが、何やら安らぎを覚えたコメントでありました。

 

 

 おまけです。その1.その2.を読んで頂き、お疲れ様でした。ありがとうございました。

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左;得意のお好み焼き;残っているモノを構わず入れました。竹輪とかハムとか、キャベツに加え刻んだネギを大量に。

右;人参しりしり;人参を丁寧に刻んだつもりでしたが、余りキレイに切れていなかった。ツナ缶も加えて。唐辛子でピリッと。味はOKでした。

いずれも、2020年7月30日、料理と撮影。

 

おまけ、その2.です。

本日、31日。大相撲7月場所で元大関の平幕 照ノ富士が、一敗対決で、新大関 朝乃山を下して単独トップに立ちました。明日にも優勝が懸かります。大関を陥落した時のブログを埋め込んでおきます。この時、僕は、彼(照ノ富士)が廃業するのではと心配しておりました。復活して何よりです。今日の一番は、TV実況で見ることが出来ましたが、体のハリ、色つやも良く、ケガさえしなければ期待が持てそうです。

 

kururupapa.hatenadiary.jp