クルルのおじさん 料理を楽しむ

読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

名古屋の不思議

昨年の6月末から、通勤には地下鉄・名鉄を使っています。朝がやや早いこともあり、首都圏のような通勤地獄はありません。ちょっと車両の中側に入れば、ゆっくりと新聞を読めますし、名鉄は通勤ラッシュとは逆の方向に乗るので、ほぼ100%座って行くことが出来ます。

名古屋の地下鉄のエスカレーターに乗る度に不思議に思うことがあります。かなり大きな張り紙が出ています。一文字づつ「走」「ら」「な」「い」「で」「下」「さ」「い」「、」「歩」「か」「な」「い」「で」「下」「さ」「い」「。」と書いてあります。駅は忘れましたが、「急ぐ人は階段を」、「健康のためには階段を」と言う張り紙もありました。最初は(嫌味で無く)何を言いたいのか全く理解出来ませんでした。一文字づつ書いてあるので、そもそも何と書いてあるのかも瞬時には読めなかったし。

しばらくしてから、もっと小さな張り紙に「危険ですから云々」とあるのを発見。なるほど、危険だからじっとしておれ、という意味だったのかと理解が出来ました。でも、東京、大阪等々で、こんな大きなモノに一文字づつ「走・ら・な・い・で」「歩・か・な・い・で」と書いてある表示を目にした記憶が無いように思い、その後、あちこちで駅のエスカレーターに乗るたびに注意書きを見るようになりましたが、せいぜい「危険ですから立ち止まってご利用下さい」とか「危険ですから動かないで」とかの記載でした。

 

僕は大阪生まれ大阪育ち。大阪はエスカレーターは右側に立つ、というので有名です。東京に移った時、みんなが左側に立っていたので驚いたことがありましたが、その時に初めて、全国的には右側に立つのは大阪だけで他の地域では左側に立っていることを知りました。

大阪の右立ちは、1970年の万博の時にルール化したというのが専らの説です。欧米の主要国ではエスカレーターでは右に立っているということに合わせたそうです。どうせなら日本全国で「エスカレーターは右立ち」キャンペーンをやればよかったと思います。首都圏の賛同を得られなかったのか、そもそも相談しなかったのか。その前の東京オリンピックの時には議論しなかったのですかね。万博キッカケ説以外には、阪急梅田駅に「動く歩道」というのが出来た時に、そのアナウンスで「歩かない方は右側にお立ち下さい」と言ったのがキッカケになり、動かない人は右側に立つということになったとのことです。

 

もし利用する人全員が動かないでエスカレーターに乗るのであれば、右・左の両方に立ち留まって利用するのが一番効率的かと思いますが、東京でも大阪でも、そして名古屋でも、実際に両側で立ち留まって利用しているエレベーターをまず見たことがない。大阪以外では、皆さん左立ちで右側は空いているまま。右側を動く人はあまり多くはいないのかもしれませんが、急ぐ人は追い越していく。立ち止まって利用している側も、急ぐ人がいれば右側を通過していくことを当然だと思っている。もちろん、動いて通過する人を注意する人なんていない。天の邪鬼の僕は、こんな醜い看板をかけてまで「動かないで」というのであれば、一度、右立ちをしてやろうかと思ったのですが、もし、誰かに追い立てられて「おっさん、邪魔や、どけ。ボケっと立ってんと、はよ左に寄らんかい」なんて言われたら、すごすごと「スミマセン」と謝ってその人を避けてしまうだろう。その時に「バカ者、エスカレーターでは動かないのが真っ当な乗り方である。左右両側に立って乗ることを知らないのか、たわけ!」と言い返す気分にはならないだろうと思い、いまだに、右側でじっと立つことが出来ていません。

モノ知りの友達にこのことを話したところ、エスカレーターで以前、事故があった。それで安全な乗り方を徹底しようという動きがあって、その一環としてこのような注意書きが増えたのであろうとのことでした。エスカレーターの安全基準というのは、ステップに立ち止まって利用するのが前提になっている由。ステップに巻き込まれる、挟まれる事故が多いそうです。昨年の7月からは「みんなで手すりにつかまろう!」キャンペーンも実施されているとか。

公共の場所での事故、その場所を管理している役所の責任、ついつい過剰な対応ぶりにつながるのかしらとも思います。もちろん、事故の当事者だけでなく、周辺にいる、特に赤ちゃん・子供連れ、お年寄りが、もらい事故に巻き込まれないように注意することは必要ですから、事故を起こさない、事故に巻き込まれない工夫は必要だと思います。それにしても名古屋の地下鉄は何故これほどまでに過剰なアピールをしているのやら。

 

階段を歩いていても怖い時があります。僕自身はまだ、もらい事故に遭ったことはありませんが、何回も怖い場面を目撃しました。大きなカバンを抱えて歩いている人、カバンが通行人に当たって危うく転がりそうになってしまう。急いでいる人、焦って階段を走り降りる。三段跳びくらいして、ものの見事に横転ひっくりかえった。幸い回りの人を巻き込むことなく、ご本人も元気に立ち上がりテレ笑いをしながら歩き去った。エスカレーターだけでなく、階段にも同じように「走」「ら」「な」「い」「で」「下」「さ」「い」と張り紙しないといけないことになります。

やはり、原理原則は自己責任だと思います。もらい事故を防ぐための工夫はもっとすれば良いと思います。ほとんどの大きな駅にはエレベーターが設置されていますから、特に、お子様連れ・お年寄りには「安全なエレベーターをご利用ください」キャンペーンをするとか。

僕の見る限り、右側を空けて乗っているケースが大変を占めており、急ぐ人は右側を動いている訳ですから、あの醜悪な張り紙の効果は無いのではと思います。何故名古屋だけあんな張り紙をしているのやら未だに理解が出来ません。スマートでないですよね。「魅力の無い街」の理由の一つになっているかもしれません。

  

名古屋市長選挙(4月23日投開票)です。名古屋では結構な話題になっています。選挙権を18歳以上に引き上げた改正公選法施行後、初めての政令指定都市での選挙だそうです。名古屋の18歳、19歳の皆さま、自分の一票の重みを感じることが出来るかもしれません。是非、投票してください。

市民税の減税継続vs給食無償化が両陣営のアピール点とか。また、名古屋城天守閣の木造復元構想の是非を問うというのも一つの焦点になっています。以前『名古屋の魅力』で書きました「魅力の無い街」をどう返上するかも大きなテーマであると。まあ、外野席的に言えば天下泰平で平和・平穏なテーマが多くて、これが今の名古屋を象徴しているのかなあと感じます。何んと言っても経済基盤が安定していることが何よりだということの現れでしょう。

僕の大好きな日向の宮崎県では、知名度アップがもっと切実な問題でありつづけてます。宮崎県の知名度アップに貢献したのは、そのまんま東さん=東国原知事であったのは異論のないところでしょう。宮崎県庁が観光名所となりました。登庁する時の知事と一緒に写真を撮ることがブームになった。さすがに業務に支障をきたす恐れがあるので、入り口に等身大の人形の看板を設置して記念撮影ポイントにしたら、これがまた大人気になったと。

 

「魅力の無い街・行きたくない街」をどう返上するかは、選挙とは関係なくその後も良く取り上げられています。江戸中期の尾張藩7代藩主、徳川宗春さんを名古屋のシンボルにしようというのもあるそうです。宗春が文化振興を積極地に進めたことが、からくり人形を発展させ、それが繊維、自動車産業につながったと。NHKの大河ドラマ化運動もある由(3月16日、日経記事)。 美味しいものを食べるのが大好きな僕としては、是非、名古屋メシをアピールすることでもっともっと地域の活性化と魅力度アップを図ってほしいなあと思います。愛知県は、ココ壱番屋カレーの発祥の地ですから、名古屋カレーなんてのも更なる名古屋メシに加えるとか。世界カレー祭りイン名古屋なんてのも楽しいですよね。

それから、付け足しで言うことではありませんが、是非、電柱・電線の無い街を目指してほしいものです。これは首都圏の都知事さんも結構な関心を示されているとか。名古屋市が率先して電柱・電線の見えない街NO.1をアピール出来れば、それだけでも魅力度向上には大変なポイントになるのは間違いないと思います。 

 

f:id:hayakira-kururu:20170421062311j:plain

4月15日、三重県藤原岳に。会社の仲間=平均年齢65歳超のおじさん達と。途中から雨。無理をしないで9合目の手前で折り返しました。フクジュソウを至近距離で見ることが出来ました。この写真は若手で唯一人参加してくれた美人チームリーダーの撮影です。お題は「雨の福寿草」。

 

●下山しての温泉とビールを楽しみに 孔瑠々

●一人分弁当持参の花見かな 孔瑠々

●デパ地下でたこ焼きを買いビールも買う 孔瑠々

 

〇百歳の母の完食山笑う 木村しづを (4/15、日経俳壇より)

 

 

 

『食べる力』

前回に続き面白かった本の紹介です。”面白い”というのは失礼な言い方かも知れませんが、大変に興味深く読みました。「食べることの大切さ」を真剣に語られています。

『食べる力』---口腔医療革命---塩田芳享さん著。文春文庫、2017年1月20日第一刷発行。著者は1957年生れの医療ジャーナリスト。

出張に行くときには何冊か本を持って行くようにしています。移動中は一人になる時が多いので専ら読書を楽しみたいと。会社にある図書文庫で本を借りたり、駅の本屋さんでブラブラ立ち読みして本を見つけたり。誰の紹介でも無く、それまで全く知らなかった良い本を本棚で見つけた時は、それだけで喜びを感じます。前回の『俳句と暮らす』に続き、”見つけて良かった、買って良かった、読んで良かった”と思える本に連続して出会えましたので、自分はまだ運・ツキがあるなあと思いました。

 

飲み込む力が低下することで「食べられないお年寄り」が急増しているそうです。誤嚥を恐れる医療現場が安易に「禁食」させることで、口の機能が衰え、退院後も食べることが出来なくなってしまう。多くの取材を通して「食べることの大切さ」について説得力のある説明をされています。

説得力があると感じるのは「噛んで普通の食事ができることが何より元気の源」という切り口・問題の設定が的を得ている、素直に共感できるからだと思います。

 

『おばあちゃんとは呼ばせない』で書きましたが、この本でも、日本の超高齢社会の課題を指摘されています。この本に沿って若干のおさらいをすると平成27年(2015年)現在の高齢化率は26.7%。高齢者とは65歳以上の方のことです。

高齢になると高頻度で起こる症状の総称を「老年症候群」というそうです。その中で最も怖いのが「嚥下障害」。高齢者は、飲み込む力が低下するからです。嚥下障害が何故怖いのか、それは「窒息」と「誤嚥性肺炎」という命に係わる病気を引き起こす可能性があるから。多くの医師たちは患者さんに細心の注意を払う。それが過剰に安全性を強いるあまり「食べること」が犠牲にされることになってしまう。

医師から「食べてはいけない」と指導・診断される。「食べられなくなるとドンドン体力、免疫力、生命力が低下し、さらに合併症を生む。食べられない高齢者共通の負のスパイラルに陥る」と。

「多くの医師は自分の専門分野の治療を優先する。『食べること』が時として治療の邪魔になり、更には、危険なものにさえなる。医師が『食べさせない』選択をすることが当然に起こっている」

「そもそも、医師は『食べること』そのものを勉強していない。完全な専門外なのだ」

「口の中は、医科と歯科の狭間で見過ごされていた分野。口腔の機能を改善すればもっと食べられる人が増えるのにそれが見過ごされている」との指摘です。

 

厳しい指摘が多いですが、単に批判するのではなく、医者はなぜ「食べてはいけない」というようになってしまったのか、どうすれば改善できるのかを提示しようと努められています。副題に「口腔医療革命」とある通り、口腔の機能を改善させることにより自分で噛んで食べることが出来るようになる。口のリハビリで「食べる力」は蘇る。著者の一つの大きな主張です。そのためには、患者本人、それから家族が、食べたい、食べさせたいという強い思い、意思を持つことが大切だと。

 筆者はもともと映画の助監督、演出家。お母様が高齢のため、入れ歯が合わなくなってしまった。噛むことが不自由になり、噛んで食事することが出来なかった。それでも、あきらめないで、もがき苦しんだ。やっと良い先生と出会え、母親は自分で噛んで食べることが出来るようになった。その時の母親を見ていて、噛んで食べることが健康の基本!という当たり前のことを身に染みて感じたと。

 

「フレイル予防」という新しい介護予防があるそうです。「フレイル(虚弱)とは健康と要介護の中間点の意味で、早く気づいて努力すれば健康から要介護への一方通行ではなく、その逆もある。要介護から健康に戻れる。そのためには「身体」だけの予防でなく「社会性」「精神心理」を多面的に予防していくことが必要だ」と。

このフレイル予防は日本老年医学会の教授が中心になって取り組みをされています。面白いのは、元気な高齢者の方にそのフレイル予防の担い手になってもらうという発想。高齢者が高齢者に対してフレイルサポーターとなる。どこかで聞いた話だなあと思い調べてみたら、この学会は本年1月に、高齢者の定義を75歳上に引き上げるべきだ、元気な高齢者には担い手としての役割を果たしてもらおう、との提言を出された学会でありました。もう一度『おばあちゃんとは呼ばせない』を参照ください。さらに、「フレイル予防」では介護予防を”街ぐるみ”でやろうと、高齢者が社会参加できる街づくりを目指した活動を進められている由。

このブログで取り上げた自分の関心があるテーマが、イロイロな接点・広がりを持っていることを発見するとこれも楽しくなります。何かの輪が広がるような気がします。

 

全くのわたくし事ですが、4月初めの日曜日に息子の結婚披露宴がありました。良いお天気の日でした。家族・親戚の皆さんに集まってもらいました。実は新郎新婦ともにまだ学生です。医学生です。二人とも所謂文系の人間ですが、新郎は30歳を超えてから、新婦は20代後半になってから、それぞれ思うところがあり、医学を学びたい、お医者さんになりたいという強い気持ちから医学部受験に挑戦。この4月で新郎が5回生。新婦が4回生。大学で二人の出会いがありました。

僕は、最近特に涙もろく、長女、次女の結婚披露宴の時はボロボロと泣いていました。さすがに新郎の父親の立場では、カッコつけてしっかりしたフリをしなければと思っていたのですが、最後に新婦から母親に送るメッセージの時には涙が出てしまいました。その後に、親族代表で皆様へのお礼のあいさつをする訳ですからたまったものではありませんでした。

ご参加いただいた皆様へのお礼の挨拶になったのか、医学生の二人が無事に卒業するようにエールを送ったのか、スピーチの内容はともかくとして親としては大変に嬉しい一日でした。全くの親バカです。

 

その結婚披露宴の後で、この本を読みました。二人が無事に卒業出来た暁に、どんな分野に進もうとするのか全くの本人次第ですが、この本を読んで、改めて、患者さんに寄り添って、患者さんが幸せに生きる、それをサポートするお医者さんになってほしいなあ、と思いました。日野原先生のように志を高く持って、高齢になってからも元気に活躍して、自分の生き様を通してみんなを元気にすることが出来れば最高ですね。

  

美味しく食べる、元気に喋る、楽しく笑う。噛んで食べることが健康の基本!大切にしたいと思います。

 

オマケ。孔瑠々の台所俳句?です。ご笑納下さいませ。

●大盛りの納豆チャーハン春うらら

●正月にネギチャーハンを二人分 

七草の粥のつもりが雑炊に 

●煮え端が食べごろなりと講釈し 

●よく噛んで食べて笑って輪が広がりおり

 

f:id:hayakira-kururu:20170405115404j:plain

f:id:hayakira-kururu:20170405115447j:plain 東京、千鳥ヶ淵の桜。4月3日・月曜日撮影。この当たり前に平和な日本を大切にしたいです。

 

台所俳句

小川軽舟さん著『俳句と暮らす』という本があります。中央新書、2016年12月25日発行。本屋さんで立ち読みをしていてパラパラと頁を捲ると、第一章の最初の頁に,

●レタス買えば毎朝レタスわが四月 軽舟

という句があるのが目に入りました。「おお、これは僕と感性が近しい方に違いない!」この句を見て即買いました。この方は俳人ですが、同時に単身生活のサラリーマンです(であった。過去形かも知れません)。1961年(昭和36年)生まれですから、僕よりも一回りほどお若い方。俳句雑誌「鷹」で藤田湘子に師事。湘子の逝去に伴い「鷹」の主催を引き継がれたそうです。

「俳句は日々の生活から離れた趣味の世界としてあるものではない。日々の生活とともにあって(中略)その大切な思い出を共有することができる仕組みである」という考え方をされています。それで本の題名も『俳句と暮らす』とされた由。読者にも「俳句と暮らす」生活を提案されています。

宣伝の帯には「平凡な日常をかけがえのない記憶として残すための俳句入門」と書かれてますが、筆者は「記憶を残すため」以上のものを俳句に対して持たれていると評価したいです。

 

第一章は「飯を作る」。単身生活、自炊=料理と僕が興味を持っているテーマですのでそれこそ一気に読みました。僕の感じていること、また、言いたいことと一致していることが多かったので嬉しくなります。それをサラッっと文章になさっている。さすがにプロの俳人。表現が適格だと思います。第一章だけでなく、それ以降の各章も大変に面白かった。僕の言いたいことをすっと心に入ってくる言葉で書いてくれているような気がするくらい。思わず「そうなんや、それを僕はいいたかったんや」と膝を打って感心しました。

 軽舟さんは「自然な流れ」で自炊の生活に入って行かれた由。「私は料理を趣味とする者ではない。『男の料理』という言葉が今一つ苦手である。私の料理は自分の好きなモノを食べるためのもの」と。そして「その生活を新鮮に感じることができるのが、俳句のおかげ」「台所に立つようになり、季節との出会いが更に新鮮に感じられる」とのことです。羨ましいほどに素晴らしい感性を持たれているのでしょう。

また「面倒が高じて自炊が嫌になってしまわない」工夫をされています。「食材に興味を持つ、買い過ぎない、洗い物を増やさない」。掲題句はその精神に沿ったものと。材料は買い過ぎはしないが「覚悟を決めてまるまる一個買うのが王道だ」とおっしゃってます。若干の流儀の違いはあるものの考え方を共有できる。これは同志だと感じました。俳句の感性、言葉の感性には羨ましさを感じますが、単身おじさんの俳句と自炊の生活に拍手を送りたいと思います。

 

俳句の世界に「台所俳句」という言葉があるそうです。高浜虚子が女性の「雑詠(ざつえい)」を募ろうと工夫した。当時、女性は只々家の中にいて家事に専念するのが当然という時代ですから、女性に雑詠させようというのは「開明的な発想であったもの」だそうです。「ホトトギス」に「台所雑詠」の欄を設けた。大正5年です。「具体的な題が例示されている。例えば、台所、鍋、七りん、俎板、水瓶・・・灰神楽、煮こぼれ、居眠り、下働き、お三」と題を見るだけでも時代が感じられます。主婦が台所仕事に一日のかなりの時間を費やしていた時代。台所仕事=女性・主婦の一日という構図ですから「台所俳句とは女性が日常そのものを詠む、ということであった」。時代の流れを俳句で紹介されています。台所仕事が大変な大正の時代から年号が変わり昭和になると、

●秋雨の瓦斯が飛びつく燐寸かな 中村汀女 (昭和10年作)

「苦労して薪や炭を焚かなくても簡単に煮炊きの火が得られるガスの便利さとなった」。これが更に平成になると、

●朝ざくら家族の数の卵割り 片山由美子

「もはや女性が台所に押し込められていた時代とは全く違う。『台所俳句』というレッテルから自由になった時代の句に」なっていると俳句を通じて台所の歴史を解説されています。確かに台所仕事が主婦のムチャクチャな負担であった時代は遠い昔になっていることが俳句から感じ取れます。

 

一方、「『男子厨房に入らず』という戒めの時代は変わった」。ダンチュウが普通の日常になっていますが、筆者によると、それにも拘らず男性による台所俳句の成果は意外と乏しいらしいです。台所を重要な生活の場と認識されている筆者は、そのことを残念に思っています。僕はこの本で「台所俳句」という言い方を初めて知ったくらいですが、料理を楽しみたいクルルおじさんとしては、確かに、元気が出るような、ほんわか気分をもらえるような台所俳句に出会えれば楽しそうに思います。面白いと思った句は、

●オムレツが上手に焼けて落ち葉かな 時彦

筆者が「男の台所俳句の先輩として私淑する」のが草間時彦。「俳句の取り合わせ(配合)で広がりと奥行きのある情景」を評価しています。

●春めくや水切り籠に皿二枚 軽舟

筆者の句。皿二枚ですから、久しぶりに奥様が来られた時と読めばいいのですかね。夫婦の間合いについても中々適格なコメントがあります。後述します。

 

ところで、2016年は日本の「エンゲル係数」が29年ぶりの高水準になりそうとのことです。食品価格の値上げが一服したあともエンゲル係数は上昇している。人口構成の変化、ライフスタイルの変化が背景だという解説です。高齢者の増加、食のレジャー化で「食の外部化」が進んでいると(2017年1月26日、日経)。消費支出に占める飲食費の割合は増加しているが、素材を買ってきて台所で料理することは相対的に減っているということのようです。台所俳句の観点から言えば、台所に立つ機会そのものが減少している訳ですから、ますます成果を期待するのは難しくなっているのかも知れません。大きな括りで言えば、食の俳句、食べ物の俳句というのは存在してますから、その中の「台所俳句」というのも是非ガンばって欲しいモノです。

 このまま書いていくと際限が無くなりますので、以下、印象に残る句と筆者の感性が感じられるところを抜粋します。

 

第三章は「妻に会う」。「単身赴任者にとっては妻とは『会う』もの」。奥さんが「鞄に一泊着替えを詰めてやってくる。(台所に立ち)何度も台所道具や調味料の場所を聞いてくる」「相手と過ごすのがいやなわけではあるまい。ただ、一日中一緒にいるのはちょっとしんどい。自分の知らない時間を過ごした夫に、あるいは妻に会うのが新鮮でたのしいのだ」。奥さんとの間合いをこう書けるのは凄いなあ、と感心します。

第四章「散歩をする」。いい表現がありました。「前に進み続ける時間がある一方で、四季をめぐり循環する時間がある。」これは良い言葉ですねえ。「俳句が季語を必要とする理由。俳句は、その時間の交わりに生まれる詩だから」と。

第五章「酒を飲む」。師匠である藤田湘子の句、

●君達の頭脳明晰ビアホール 湘子

先生が弟子たちとビアホールで楽しく飲んでいて詠んだ句だそうです。関西風にチョットいじくって遊び解釈をすると、「お前らはビアホールでビール飲んでる時だけは頭脳明晰やなあ。ようこんなアホの弟子ばっか集まったもんや」と楽しく嘆いているような。川柳ですかね。茶化してどうもすみません。蛇足の注釈、湘子先生は男性ですから、念のため。

そして本の最後の方には、味わい深い句が出てきます。

●死ぬときは箸置くように草の花 小川軽舟

 

俳句を詠んでみたいと感じたのは、吉田拓郎の「浴衣のきみは ススキのカンザシ 熱燗徳利の首つまんで (中略) ひとつ俳句でもひねって」を聴いた時かも知れません。あの怒鳴り狂って歌っていたた拓郎がこんな唄を歌うなんて。拓郎の影響力は凄かったのかも。いまの拓郎さんに「台所俳句」の唄を作ってもらうのも面白そうですね。僕もボケ防止を兼ねて乏しい才能を掘り起こして台所俳句に挑戦してみようかしら。もっとも、『ごちそう様が聞きたくてvs単身おじさんの朝ごはん』で書きましたが、自分が食べたいものを食べるための料理だけでは、気の利いた・面白味のある俳句は生れてこないのかも知れませんねえ。独りよがりというのはやはり面白くない。料理を楽しむ=台所を楽しむ「台所を詠む」ということになるとやはりその対象が必要なのかも知れません。ニンゲンは一人では生きていけないもののように思います。

 

 

f:id:hayakira-kururu:20170329223712j:plain

 お気に入りのお皿と小鉢、宮崎県一ッ葉焼。反対側(裏から)見ても同じ模様が見えます。

 

 

3・11

2011年3月11日には千葉にいました。碧南・名古屋から出張で、会社の仲間と一緒に千葉港にある食品会社さんの工場を訪問しておりました。昼過ぎに工場に入り、会議室でお互いの挨拶を済ませ会議に入ろうとした時でした。地震。それもかなり大きな地震。いったん収まったと思った後も何回か大きな揺れが続きました。テレビのニュースで震源地は三陸海岸沖と知りました。来客用のヘルメットの配布を受け、屋外の避難場所に移動。その会社の社長さん自らが陣頭指揮され、ハンデイマイクを駆使して落ち着いて指示されるのを見ていました。工場の煙突も大きく揺らぎ、倉庫の壁の一部は崩落。千葉港の反対側の工場では大きな爆発音が聞こえました。我々も自分たちの工場のことが気になり手分けをして連絡を入れようとしていましたが、なかなか通じません。しばらくしてから、碧南の工場ではかなりの揺れはあったものの全て無事であることを確認出来ました。留守部隊が冷静に決められた通りの適切な対応をしているとの報告を受け一安心しました。日向の工場も無事でした。

避難場所での人員点呼、安全の確認をしてから、揺れが収まったので会議室に戻りテレビのスイッチを入れました。津波を目の当たりにしました。川が逆流している。田んぼ・畑を濁流が覆いつくしている。道路にいる車が飲み込まれたような。信じられないとしか言いようがない中継映像でした。時の経つのを忘れずっとテレビに釘付けになっていました。

千葉駅近くのホテルを予約していましたが、駅周辺でも一部は液状化が見受けられました。ホテルのロビーは解放されており、帰宅困難な方々が多数体を休めていました。エレベーターは休止状態。10数階の客室まで階段を上りました。翌日は、とにかく、名古屋に戻ろうと(留守宅の無事は確認出来ておりましたので)必死でした。交通機関は大混乱しておりましたが、なんとか無事に戻ることが出来ました。

 

東日本大震災の被害状況は、警視庁のまとめで、死者 15,893人。行方不明 2,553人。震災関連死 3,523人。避難 123,168人。仮設住宅での暮らしを余儀無くされている被災者は、1月末時点で岩手・宮城・福島の三県で約3万5千人。阪神大震災では5年で解消したが、いまだ解消の見通しは立っていないとのことです(日経、2017年3月11日)。地震津波、更には、原発事故まで加わってしまい、未曾有の災害となりました。あれからもう6年です。

 

地震発生の翌日、会社の仲間にはメールを発信しました。被災地、被災者の方々を真摯に思いやる気持ちを大切にして行動したい。春の社内行事の自粛・取り止め、義援金の取り扱いの仕方等々、離れていても何か出来ることがあるはずだと焦りを感じました。当たり前の日常がどれほど大切なことか痛いほど感じさせられました。

今、改めて振り返ってみると、結局は、必要最低限のことしかやっていなかったのでないかと忸怩たる思いが残ります。

 

福島第一原発(1F=イチエフと呼ぶそうです)が及ぼす影響は広範囲に亘っています。今でもそれが続いている。原発避難者(特に自主避難者)への支援の在り方、避難者へのイジメ、避難者のストレスへの対応。溶けた核燃料=デブリの実態把握が廃炉作業の第一歩とのことですが、サソリ型ロボットでも近づくことが出来ていないという現実。一方では、7,000人の作業員の方が暖かいランチを食べられるようになったのは、ようやく一昨年の3月からとか。昨年3月には休憩所にコンビニがオープン、甘いシュークリームが一番人気とのことです。そして、昨年から甲状腺ガンが増える時期に入り、検査の在り方、報道の在り方が改めて問われています。因果関係に関する専門家・研究者の意見に相違が見られる。立場の違いが意見の違いに繋がっているのか。それが被災者の方の不安・ストレスを更に高めてしまう。以上は中日新聞からの抜粋です。同紙は、「福島に寄り添う。忘れない。『何が本当のことなのか』を見極めて報道していく。」と社説に記載されています。

当時の政権の対応ぶりに対する絶望的な思いが今でも尾を引いているのか、行政への期待と失望。それでも行政に頼るしかないという歯がゆさ。もともと復興には時間がかかるものでしょうが、行政の怠慢がそれを助長させないように、行政の適切な対応で一日でも早い復興に繋がるように。マスコミ・メデイアの取り扱いのあり方は大変に重要だと痛感します。

 

この5年間で被害の大きかった宮城、岩手、福島の3県では総額7兆円の公共事業費が投入されたそうです。インフラ復旧が進み、遅れている高台移転や災害公営住宅の整備も本格化している。奇跡の一本松の海側には高さ12.5m、全長約2㎞の防潮堤がほぼ完成したとの写真記事も出ています(2017年3月11日、日経)。「記憶を風化されてはいけない」との注釈のような記載もありますが、資金を投入して復興が進んでいると言われると、なにやら政府広報の記事のような気がしてしまいます。

 

一方では、嬉しくて涙が出る、感動する話が沢山あります。こちらまでもが元気をもらえるような。『絆』が2011年の「今年の漢字」でしたが、この年の漢字の選考は本当に良い言葉を選んだと思います。

 

舘野 泉さん。ヘルシンキ在住のピアニスト。ヘルシンキでのリサイタル中に脳溢血で倒れられた。後遺症で今でも右半身に麻痺が残るが、大変な頑張りで67歳で左手のピアニストとして再出発された方です。この方は、震災以前から南相馬市民文化会館の名誉館長をされています。肩書だけの名誉館長ではありません。実際に現地に足を運ばれピアノ演奏活動を通じて被災者の方々にたくさんの生きる勇気を与えておられます。震災後の8月には、復興支援を目的としたチャリテイーコンサートをヘルシンキで開催。当初は、舘野さんの第二の故郷であるヘルシンキで演奏活動50周年記念イベントをやる予定であったもの。舘野さんの主旨に賛同した主催者、演奏者がボランティアでコンサートに協力、義援金をこの南相馬市民文化会館の復興に寄付されています。(舘野泉さんの本:『命の響き』・・左手のピアニスト、生きる勇気をくれる23の言葉。集英社。)

 

石巻市雄勝町に「雄勝ローズファクトリーガーデン」という庭園があります。ボランティア団体「雄勝花物語」の活動拠点となっているローズガーデンです。震災前、この場所は、この活動の代表理事をされている徳水さんの生まれ育った家があったところ。津波で周辺の家屋・建物も全て流され、徳水さんのお母さまを含め61名の方が犠牲になられた。徳水さんは震災から5か月過ぎた時にその土地に花壇をつくることを決意。「つながりの場所」を作りたかったと。「受け身で支援を受けていた時には前を向くことができなかった。このローズガーデンを作り始め、雄勝町の方々に喜んでもらえるようになって少しづつ元気になることができた」と記載されています。この活動には、日本だけでなく「9・11米国遺族会」、「together for 3.11 anniversary memorial (ニューヨークは忘れない!)」と世界中から励ましが届いています。被災者の心のケアに重点をおいた活動情報誌は地元(ご近所)出身の医学生のお嬢様が英訳されたものを小冊子にまとめられ感謝の気持ちを込めて関係者に配布されています。

 

僕の務めている会社では、震災後に非常食の備えを厚くしました。非常食にも賞味期限がありますから、その都度、買い直して更新備蓄します。期限切れの近いモノは無駄にするわけにはいきませんから、社内配布して各家庭で試食してもらいます。今日は、配布を受けた「大豆ひじきご飯」を頂きました。お湯か水を注ぐだけ。お湯の方が美味しいのでしょうが、それでは非常食の試食にならないから、水でやってみました。水だと60分かかりますが(お湯では15分)、十分に美味しく頂けました。日本の食品技術に感謝です。

 

f:id:hayakira-kururu:20170317092322j:plain

 『雄勝花物語』です。

『ごみと日本人』

『食品ロス』『食品ロス、続き』で食べ残し、賞味期限について記載しましたが、その後も新聞を見ていると、この問題に対する世間の関心が高いことを反映した記事がよく出てきてます。

「残さず食べよう!30・10運動」(サンマル・イチマルと読みます)といって長野県松本市が提唱されている運動があります。2011年5月から活動されているそうで、趣旨を記載したコースターを居酒屋、宴会場に配っているとか。「乾杯してからの30分と宴会が終了する最後の10分は席に着いてチャンと料理を食べて下さい。宴会での食べ残しを無くしましょう。」という取り組みです。福岡県、厚木市佐賀市宮崎市など多くの自治体でも推奨されていると。(1月9日の中部経済新聞より抜粋)

宴会の幹事・進行役さんがキーのようです。幹事さんが運動の趣旨を説明して号令をかける!、効果は予想以上に高いそうです。海外では「ドギー・バッグ」が当たり前ですが、日本の宴会料理は生モノが多く持ち帰りには不適切のことが食べ残しの多い原因の一つになっていますから、やはり、出されてものはチャンと食べる、食べられる量を注文するというのを徹底する必要があるのでしょう。少なくとも、締めのご飯をちゃんと頂いておけば、宴会が終わって更に二次会の後に「小腹が空いた、ラーメンを食べに」行く回数も減るでしょうから、間違いなく健康にはプラスですね。

賞味期限のほうでは、従来の「年・月・日」表示から、「年・月」表示への変更をする動きが出ています。食品最大手の味の素さんは本年二月から段階的に「年・月」表示に切り替え、2019年には賞味期限が1年以上の全商品に原則導入する方針と。食品他社も追随する動きで、業界全体で取り組めば「食品ロス」を2%削減することに繋がるとの見方があるとか。メーカー・流通にとってはコスト削減効果も期待されるでしょうから、是非、その方向に進むと良いなあと思います。(これは、1月25日の日経記事より抜粋)

食品ロスには直接結びつかないかも知れませんが、「ジビエ料理」に人気が出ているのも面白いと思います。獣害は増える傾向にありますが、捕獲した野生動物の処理方法がまだ十分に確立されていない。お肉も下処理が難しいこともあり食用に使われるのが限られていた。 イノシシ、シカ等は生活環境の変化への対応力が強く頭数はどんどん増えていく傾向にあるとのことで、獣害駆除を進める必要はあるものの費用がかかることから対応が十分ではない。それが、ようやく処理業者・加工販売業者・調理する方が工夫して「旨い!」という食べ物になりつつある。ジビエ料理のフアンも増えてきているそうです。駆除された動物も、「美味しい!」と言って食べてもらえて、日本国の食料自給力の向上に役立っていると思えばさぞかし満足するのではと。ニンゲン様の勝手な思いです。

 

『ごみと日本人===衛生・倹約・リサイクルからみる近代史』、稲村光郎著、ミネルヴァ書房、2015年6月第一刷発行。「ごみの歴史はリサイクルの歴史、ごみ問題は、日本の近代化・産業発展と表裏一体の関係、『もったいない』は戦時用語?」等々の見出しが面白くて発行後すぐに読みました。面白いエピソードがたくさん紹介されてます。

●近代日本は、1859年(安政6年)米国、英国等との通商条約により横浜等の港を開港したころから始まるそうですが、日本では捨て値同然であった木綿のボロが西欧向けの輸出商品になったそうです。何故か?。答えは西欧で当時活発になっていた洋紙製造の貴重な原料となったから。その後、明治になり国内でも洋紙生産が盛んとなり、それまでさして需要の無かったボロに新たな需要が生まれた。ボロの値段が高騰し、屑買いの元締めは大儲けしたそうです。これが「ボロ儲け」。

●明治後半、廃物利用=リサイクルをしようとのキャンペーンが活発に。国民への倹約を説いて、特に女子教育の場で勤勉と倹約を促したそうです。これに猛然と反論したのが与謝野晶子さん。「廃物利用という世間受けする名目の下、女子を駆って疲労させ、その向上心と活動力の自発を鈍らせ、いつまでも男子の便宜に供しようとしている」と廃物利用キャンペーンを猛烈に批判。「廃物から非実用なモノを時間をかけて作る=時間と労力の経済を考慮しておらず時代錯誤」であると筋の通った批判を展開されたとか。

●昭和に入ると戦時回収です。1937年(昭和12年)7月の日中戦争と伴に戦時回収がはじまった。当時のパンフレット「愛せよ資源 活かせよ廃品」。今でも出てきそうなキャッチコピーかも。更に、鉄くずの回収と統制経済の時代に。永井荷風さんは父親の形見のキセル口金=金製品を「むざむざ役人の手に渡して些少の銭を得るよりは」と隅田川にひそかに捨てた由。世の中、国家の施策におもねる風潮に我慢がならなかったと。1941年(昭和16年)12月、太平洋戦争に。「決戦だ!残らず出そう鉄と銅」。大政翼賛会の標語「『もったいない』を生活実践に」。1943年(昭和18年)、東京市では「食品むだなし運動」。標語を眺めるだけで詫びしく、寂しく、情けないような。半面、笑ってしまうのもありますよね。かくして回収された金属も「実際には十分利用されないままに敗戦を」迎えたそうです。僕の生まれるせいぜい5年から10年前の日本の姿です。筆者は「ごみの歴史は、いわば歴史の裏通り」として、ごみと衛生、ごみと貧困、そして国家の関与に意識して豊富なデータを積み上げて淡々と書かれています。

 

とにかくモノが足らなかった時代にはそれを補う工夫があったんでしょうね。今でも懐かしく思い出しますが、小さい時、近所のほとんどの子供達は膝のところにツギ当てをしてあるズボンを履いていました。セーターの肘のところなんかも。よそのお家に遊びに行って靴を脱いだら靴下にボカっと穴が空いていて恥ずかしい思いをしたり。これは工夫のしようがなかったかしら。鉛筆が短くなると、金属の補助機器があってそれに固定して握りやすくして最後の2-3㎝くらいまで使っていました。短くなった鉛筆を自慢して見せびらかしていたような。ペットボトルは、飲んだ後の処理が大変なモノになってます。ラベルを剥がしてペタンコにしてから専用のごみ袋に入れてごみ収集の場所に持っていく。かつての時代にこんな便利な容器があれば、水筒の代用はもちろんのこともっと貴重な使われ方が考えられたのではないかと思ってしまいます。モノが溢れかえるというのは、ニンゲンをアホにすることなのかもしれませんねえ。

 

と思いつつ、冷蔵庫を見たら「飽食の時代」そのものでした。当分、食材を買ってくるのを控え、在庫を美味しく頂く工夫を楽しまなければと。「『もったいない』を生活実践に」して「食品むだなし運動」を国家の命令ではなく自分の矜持として励みたいなあと思います。

 

f:id:hayakira-kururu:20170306145626j:plain

 

 名古屋、名城公園の彫刻の庭。向こうの建物は名古屋能楽堂。春、もう少し。2017年3月5日撮影。この日、能楽堂では「名古屋伝統文化を楽しむ会」後援の名古屋華舞台、能「巻絹」と狂言「大般若」が上演されました。日ごろお世話になっているドラゴン先生が招待してくれました。風邪気味で薬のせいもあり、僕は気持ち良く幽玄の世界を彷徨っていました。

  

カレーライス

つらつら思い出すと、僕が初めて料理の場に接したのは、小学生の時、夏休みの林間学校で作ったカレーライスでありました。林間学校というのは、都会の学校では自然に接する機会が少ないというので、夏休みにキャンプ場等々に行って、テント生活・オリエンテーリングキャンプファイヤーを体験させるものですが、当時の僕の小学校の林間学校とは、校庭でキャンプファイヤーの真似事をするのがメインイベント。宿泊は同じ小学校の講堂で、板の間に寝袋ならぬゴザ、布団等を敷き詰めて雑魚寝。シャワー・風呂は、もちろん無し。まだ昭和30年代半ばのことで一泊する費用負担が難しい家庭も多数あり、また、学校の予算も十分では無かった。そんな中で、先生方の苦心の企画であったかと思います。その林間学校での食事がカレーライスでした。飯盒でご飯を炊いて。大きな鍋でカレーを作って。先生が指導してくれますが、こういう場面では何かと器用に表に出てきてテキパキと対応する生徒がいるもので、その時も、仕切り役と仕切られ役がハッキリしていたように記憶します。僕も何かお手伝いをしなければと思いつつも、包丁もナイフも使ったこともない、そもそも調理をする場に全く接したことがない人生を送っていましたから、ただ、ボケっとみんなが作業しているのを眺めているだけでした。当時の僕は、おとなしくて目立たない生徒だったと思いますが、イジメられるタイプではなかったように思います。また、幸いなことに、その時代は陰湿なイジメは皆無でした。出しゃばりな子も引っ込み思案の子もそれなりに助け合って楽しくやっていたように思います。最後の段階で、漸くお皿にご飯を盛り付ける役が回って来ました。僕にすると、それすら初めての作業だったはずですから緊張しながら一生懸命にやったように思います。

みんなで作ったカレーライスは大変に美味しかった!というと美しいオチ・思い出になるのですが、残念ながら、そうでは無かった。粉っぽいカレーで、また、お肉がムチャクチャ硬かった。当時は、まだ、カレーのルーはそれほど出回ってなかったのか、多分、小麦粉をベースにカレー粉を加えたものでしょうが、小麦粉の量が多すぎたのか、上手く混ぜることが出来ていなかったのか。お肉はとにかく硬かった、嚙んでも噛んでも噛み切れない。”カレーライスはご馳走である”という思いだけで自分自身にこれは美味しいんだと言い聞かせて食べたような気がします。確かに、その頃は、クジラの肉の方が食卓、給食に出てくる機会も多く、食べやすく料理されていました。牛肉は残念ながら不味い部位しか食べる機会がなかったからでしょう。その後も、小学生の高学年になるまで「こんな不味い肉はない」と大嫌いだったこと記憶しています。

 

 話がそれますが、小学校の裏に神社がありました。お盆の時とか年に2回ほど、映画の上映をやっていました。街に映画館はありましたが、神社でやる無料の映写会は人気がありました。神社の境内にある大きな木の間にスクリーンを張って、チャンバラ映画を中心に上映。東映時代劇の全盛期であったかと思います。映画館で封切り上映されたあとのひとシーズン遅れのものであったかと思います。境内は大人も子供も沢山の観客で一杯に。前の方に子供たちが地面に座り、その後ろは全て立見席。片岡千恵蔵市川右太衛門などなどビッグスターが登場。勧善懲悪!バレバレのストーリー展開ですが、主人公が危機一髪の場面では観客から本気の声援が飛び交う。境内の観客が一体となって、大劇場にも匹敵する歓声が飛び交うもの凄い盛り上がり様でした。僕たちも終わってからの興奮冷めやらず、主人公になったつもりでチャンバラしながら家に帰ったものです。

数年前に母親が入院生活をしている時にお見舞いに立ち寄った際、時間つぶしに、小学校、神社の周辺を散策しました。小学校の校庭も、神社の境内も、それはそれは慎ましいスペースでした。小さく小さくしゃがみ込んで周りの景色を眺めてみたら、それなりに昔の大スクリーンと大観衆の歓声の気配を感じることが出来ました。半世紀以上経ってるんですねえ。

 

名古屋市中区にⅯホールというクラシック専用のコンサートホールがあります。オーナーのMさんは、1948年生れ。一代で日本一のカレーチェーンを築かれた方です。カレーチェーン事業からは勇退され、その後、2007年に私財を投じてこのコンサートホールを設立されました。面白いご縁があって交流するところとなり、会話のなかで僕が調子に乗って「うちの会社のレシピサイトにオーナーご自慢の料理レシピを掲載させて頂戴よ」とお願いしたらトントン拍子に話が進み、レシピ撮影会、兼、試食会をすることになりました。レシピの一つは勿論カレーライスなのですが、肝心のカレーに使うスパイスは「非公開」と。”なんやねん、それ。レシピを書くのに非公開はないやろ。編集者がNGだすで。”と思いつつも楽しく撮影会、試食会をしました。大したもので、お皿に盛り付けるご飯の量を手測りでグラム単位で制御できると。カレーの注ぎ方もさすがにプロの手口。見た目も中身も美味しいカレーを堪能させて頂きました。結局、レシピには「スパイスは非公開!」と堂々と記載して載せることに。編集者の居直りとしか思えない記載です。ご覧になった方は、よろしくご理解下さいますようこの場を借りて改めてお願い申し上げる次第です。Mオーナーはシャレの塊のような楽しい方で、カレー屋からコンサートホールオーナーへの転身を「カレー(華麗)なる転身」と呼んでみたり、「加齢臭はダメだがカレー臭はすばやしい」と言ってみたり、僕よりも2歳年上になるのですが、頭が素晴らしく柔軟で若々しい方であります。お土産にカレーハウスのレトルトカレーも頂いて、物心両面で心豊かになってお開きとなりました。2016年の夏のことです。

 

「野菜いっぱい畑のカレー」というのが僕の気にいっているカレーライスのレシピでした。植松良枝さんという方のレシピ。「野菜をたくさん食べたいなア、と思うときにカレーを作る」というコメント。ご自分で野菜を育ててそれで料理を作ることを実践されてます。2008年から2009年にかけてこのレシピにハマっていました。野菜を沢山食べられる料理がカレーライスであるという考え方が偉く新鮮でした。とにかく野菜をいれる。夏野菜のカレーであれば、ゴーヤー、かぼちゃ、トマト、たまねぎ、ピーマン、オクラ、さやいんげん、なす、ししとうがらし。とにかく沢山の新鮮な野菜。野菜の味を生かすのには出汁で煮るのがポイントとか。ご飯は玄米ご飯を使います。僕の料理メモ帳を見ると最初はこのレシピ通りに作っていましたが、ちょっと慣れてしまうと自分なりのアレンジをしたくなる(要は手を抜くことを覚えてしまう)。何回目かには定番のジャガイモ、ニンジンが中心になっていたり、出汁の代わりに洋風スープの素を入れてみたり、カレー粉の代わりにルーを使ったり。また、クミンシードとかバジルとかを勝手に投入して粋がっていました。ちなみに(ご存知の通り、僕はお酒・ビール、アルコール大好き人間ですが)カレーライスには美味しい冷たいお水が似合うと思っています。

 

Mさんからもらったレトルトカレーをどうやって食べるのがよいのかを思い悩んでいたとき、以前、図書館で読んだ料理の本のなかにヒントになるレシピがあったことを朧げに思い出しました。見つけ出すことが出来るかどうか、挑戦するために同じ図書館に行きました。ビンゴ!。

 

「手間はかけたくない、冷蔵庫の中の残り野菜を早く使いたい・・・カレーは便利だ。玉ねぎ、セロリ、にんにく、しょうが、残り肉を炒める。ニンジン、じゃがいも、ピーマン、ナス、リンゴ、を適当な大きさに切り、さっと炒め、水をひたひたに注ぐ。スープの素を一個いれる。野菜がやわらかくなるまで煮る。缶詰またはレトルトカレーを加える。味は、塩、こしょう、または、カレー粉で補う。さらに、ケチャップ、ウスターソースなどを加える。・・・これで、濃厚・複雑な味の自分だけのカレーが出来る。」「おいしく食べて元気に老いる」吉沢久子、高見澤たか子、大和書房、2001年9月第一刷より抜粋です。

 

 

f:id:hayakira-kururu:20170302130600j:plain

2017年2月23日撮影。久しぶりのカレーライス。「ジャガイモごろごろカレー」。作り方のコンセプトは「おいしく食べて・・・」の通り。レトルトカレーに市販のルーも加えました。クミンシード、バジル、ローズマリーを投入。更に更に・・・後は「非公開」です。確かに濃厚・複雑な味。美味しく出来ましたよ。

 

●もっとカレーに親しくなりたい方へのお薦め参考文献。「インド・カレー伝」、リジー・コリンガム著。400年にわたる異文化の衝突がカレーを生んだ。カレーの成り立ちからインド食文化史。河出書房、2016年3月初版発行。

 

●植松良枝さんの野菜いっぱい畑のカレー「夏野菜と玄米のカレー」は、「食彩浪漫」2008年8月号に掲載されています。

 

●おまけ;「カレーライスの唄」、阿川弘之著。阿川さんは、「アガワとダンフミ」のアガワ=阿川佐和子さんのお父上。1920年生れ、海軍軍人で復員後に志賀直哉に師事し小説家に。代表作に海軍提督三部作がある通り戦争文学を数多く執筆。また、食通・鉄道好きでも有名。この「カレーライスの唄」、原作は1961年(昭和36年)2月から新聞連載されたもの。昨年2016年4月に、ちくま文庫が改めて復刻版・第一刷を発行。本屋さんで偶然に目に留まったので思わず買ってしまいました。文庫で550頁の長編、青春純愛・カレー屋起業奮闘記です。これだけでストーリーが分かってしまうくらいの単純明快な小説ですが、阿川さんの語り口と昭和の良き時代(小説の主人公は、僕よりも10から15歳ほど年上の世代です)が醸し出されており、爽やかに一気に読めました。食通、阿川弘之が何故わざわざカレーライス屋に舞台を設定したのか、時代背景を考えてみるのも面白いカモです。

 

 

 

日本酒

今年の冬はよく日本酒を飲んでいます。外で食事する時、和食の場合には「とりあえずビール」の後、ほぼ間違いなく「やっぱり日本酒」を注文します。恰好つけてわざわざ「ぬるめの燗」と頼む時もあります。家で一人で食べる時も日本酒を燗して飲むことが多くなりました。湯豆腐をする機会を増やしました。要領が分かれば簡単に出来るので大変に重宝してます。豆腐一丁を一人で美味しく食べてしまいます。食事は風呂上りにしますから、食事の準備をしつつ、まず缶ビールを一本飲む。その後、湯豆腐を食べる時に日本酒をやや熱めの燗にして頂きます。湯豆腐はちゃんと作っているつもりです。専用の鍋もあり。腰のしっかりした絹豆腐を買ってきて、鍋に昆布を敷いて。ぐい飲みに刻んだしょうがとネギを入れ出汁醤油を加え、湯豆腐の鍋の真ん中に置いて熱くして。豆腐がフラフラしたところをハフハフ言いながら食べます。一人手酌で日本酒を飲んで、やや寂しいのもオツなものかと。

 

大学を卒業して社会人になった時、勤務地は東京、日本橋本町にありました。JR神田駅から歩いて10分ほど。以前書いた通り関西系の総合商社です。ムチャクチャ残業が多かった。最近は過労死云々が大変な問題になっていますが、当時はひと月に100時間くらい残業している連中が僕も含めゴロゴロいました。逞しい時代であったと思います。神田周辺には飲み屋さんが沢山ありました。地元出身、土地勘のある連中が安くて旨い一杯飲み屋をすぐに探し出して、ほぼ連日飲んでいました。残業が終わってからですから、飲みだすのが夜の9時、10時。とりあえずビールから始まり、後は、やっぱり日本酒です。当時は二級酒ながら人気の高い旨い酒があった時代です。終電の時間があっという間に来ます。短時間に集中して飲んで食って。会社・上司の悪口は当たり前、酒の肴です。でも根は真面目なのか?お酒が回っても結構マトモな話をしていたように思います。定番のツマミは、納豆豆腐でした。今これを書いていて懐かしく思い出しました。豆腐をさいの目に切った上に納豆をかけその上に卵の黄身を置いてネギ・削り節をかけたもの。出汁醤油のような特性のタレで食べたように思います。僕は関西・大阪ですが、納豆はどういう訳か大好きでした。ビールにも日本酒にも合うと思っています。

会社の寮は三鷹市にありました。一緒に飲んでいる連中のほとんどが三鷹の寮住まい、一人の先輩は三鷹がご自宅の方。一人は神田近くに自宅があり。みんなからNTちゃんとちゃん付けで呼ばれている人気者、僕とは同期の桜です。神田駅で一応解散するのですが、三鷹に帰るほぼ全員が「三鷹で飲み直すぞお。NTちゃんも一緒に行こうぜ。」と誘います。気のいい酒の大好きな彼は酔いも手伝い、しぶしぶながらも喜んで三鷹に付いてきます。三鷹の駅近くの、これも常連になっているおでん屋さんに行って楽しく気勢を揚げます。お開きになるのは深夜から早朝。翌朝は「もう二度と日本酒なんか飲むものか、頭が痛い」と言いながら遅刻もせずに、みんな何が何でも出勤したものです。若くて元気があったんですねえ。NTちゃんは「なんで俺が三鷹に泊まってるんだよう」といつも反省しておりました。当時の二日酔いは本当に酷くて、頭の中で釣鐘がゴーンゴーン、キーンキーンと鳴り響いているようでした。このメンバーの頭の中では午前中はいつも除夜の鐘が鳴っていたと思います。

 

「お酒はぬるめの燗がいい、肴はあぶったイカでいい」・・・八代亜紀の「舟歌」です。これは酒飲みにはジーンとくる唄でした。あの当時、八代亜紀さんは全盛期であったと思いますが、今でもその時の舞台姿が一体となって甦ります。

僕のカミさんの親父さんも日本酒大好き人間でした。池袋にある親父さんの会社事務所で飲むときには、まずはスルメと日本酒でした。カンペットという優れものの機械があります。日本酒をいれてスイッチ押せばお燗をしてくれる。一度に2合以上、燗をつけることが出来たと思います。料理が出てくるまでに調子に乗って飲んでしまい、結局一升瓶が空になっていた時もあったかと。まだ結婚する前です。酔っぱらって寮に帰る電車の中で寝込んでしまい降りる駅を通り越し、更に終点でも目を覚まさず往復して最初の乗車駅に着いてから気が着くとか、随分と無茶な飲み方をしていたものです。よく事故・事件に合わなかったことだと思います。改めて日本国が安全なことに感謝しないと罰が当たりそうです。結婚してからカンペットは我が家でも買いました。先日、長女のダンナと家で飲んだ時に使いましたが、ちゃんと動いてくれていました。この時は一升は飲んでないと思いますが。それにしても日本国の家電製品が何んと長持ちすることか、素晴らしいことだと思います。

 

「お酒はぬるめの燗がいい」の「ぬるめの燗」を有名にしたのは 上原浩さんだと思います。1924年生れの酒造技術指導の第一人者。残念ながら2006年に逝去されてました。「酒は純米、燗ならなお良し」の名言を残されています。何年か前に本を読んだことがあったので、本棚を探してみたら見つけることが出来ました。

20歳の時から酒造技術者として酒一筋に生きた方。著書も多数、酒造関係者向けの専門技術書からお酒好きの一般消費者向けの啓蒙書まで。「日本酒とは純米酒である。日本酒とは本来コメと水だけでつくるべき酒である。醸造用アルコールを添加した酒、ましてや三倍増醸酒等は、日本酒と呼ぶべきで無い。」という固い信念をお持ちです。「アルコール添加というのは、戦中戦後の緊急避難策であった。米不足の時代、当時はこれ以外に日本酒の命脈を保つ方法があり得なかった」「ところがコメが余って困る時代になっても、コメの価格は高くアルコールは安いものだからアル添は定着、更に糖類等も添加する三倍醸造も一般化している」ことを痛烈に非難。今日の日本酒ブームの基を作った方のお一人だと思います。技術屋さんらしい説得力のあるコメントがあります。「アル添酒というのは、醸造酒である日本酒に蒸留酒である醸造用アルコールを添加するもの。醸造酒に蒸留酒を混ぜること自体に違和感があろう。本来、日本酒はコメと水だけでつくるもの。これ以上ないほど安全、健康的な食品である。それをアル添により劣悪な酒というイメージに貶めた。」これは正にその通りで、文字通り僕の頭の中でも、日本酒というのは飲みすぎると悪酔い、二日酔い・頭痛に繋がるという悪いイメージが定着しておりました。「アルコール添加の量を減らした『本醸造酒』の登場、更に、高精米と低温発酵を生かした『吟醸酒純米吟醸酒』も加わり、日本酒はようやく食文化の顔を取り戻し始めた。」これらの特定名称が法制化されたのは1990年(平成2年)、級別制度が廃止されたのは1992年(平成4年)のことだそうです。

さらに上原さんに言わせると、「純米酒を燗にすると、ますます味は映える。アル添酒の場合、燗にすると香味のバランスが崩れる。劣悪なモノはアルコール臭が浮いてくる。吟醸酒の場合でも、アル添により吟香を補強しているから、冷や酒なら良いが燗にすると全然ダメになることが少なくない。 」とのことです。更に極めつけは、「燗は、ぬるめの燗がいい」と。「酒は純米、燗ならなお良し」の名文句の誕生です。これは言葉・言い回しとしても良いフレーズだと思います。この名文句を知ったうえで、純米酒を燗して飲むと旨さがアップするような気がします。とは言え、誰でもいつでも純米酒が飲めるわけではありませんし、時には熱燗の方が旨く美味しく感じるときもある。また、最近流行りのコメの40%-50%も削って作る芸術的なお酒は確かに「冷や」で頂く方が旨いようにも思います。 その時々の状況に合わせて自分が美味しい・飲みたいと思う飲み方で楽しめば、今となれば=これだけしっかりした日本酒が定着した訳ですから上原さんも喜んでくれるだろうなあと思う次第。

三鷹まで付き合ってくれていたNTちゃんは、2015年年初に病気のため若くして他界されました。若い時から家族付き合いをしていましたが、最後の一年以上は一緒に酒を飲む機会すら作れませんでした。通夜の席で奥さんから「もう一度ミンナで一緒に飲みたかったねえ」と言われ涙が止まりませんでした。今夜の杯はNTちゃんに献じたいと思います。

 

湿っぽいのが嫌いであったNTちゃんなので敢えて蛇足を入れますが、日本酒の輸出は7年連続で過去最高水準を更新しているそうです。所謂「和食ブーム」に乗り、海外の日本食レストラン中心に取り扱いが増えていると。海外の日本食レストランは 2006年には 24,000店であったものが 2015年には 89,000店に急増しているとか。和食と日本酒の組み合わせ、いいですよね。もちろん、和食と焼酎の組み合わせもいいと思います。日本人に生まれて良かったと思う瞬間の一つです。

蛇足の蛇足ですが、米国人男性がsake作りに挑戦し米国東海岸メーン州で米国産のコシヒカリと地元の水で純米吟醸を仕立てたそうです。米国地酒の純米吟醸!。それがロンドンで開催されたsake品評会で日本の老舗の銘酒とともに金賞を受賞したと。楽しい話題でお酒を美味しく頂けそうです。飲みすぎには注意しましょう。 

 

f:id:hayakira-kururu:20170219132749j:plain

名古屋でお世話になっている居酒屋、英(はなぶさ)さんの入り口。いい顔してますよねえ。家庭料理でちょいと一杯が最高に旨い。筑前煮、おから、飛竜頭なんで絶品です。

 

家にあった上原 浩さんの本です。

●「純米酒を極める」、光文社・知恵の森文庫。2002年12月刊行を文庫化、2011年1月初版。

●「純米酒・匠の技と伝統」、角川ソフィア文庫。2002年ダイアモンド社刊行を改題。2015年3月初版。