クルルのおじさん 料理を楽しむ

料理自慢

沖永良部島のユリ。今年も豪華に咲いてくれました。2016年に植えたものが毎年6月になるとキレイに咲いてくれます。神奈川の自宅の庭で、2019年6月13日、撮影。右後ろに見えるのが平兵衛酢の木です。相変わらず、名古屋の隠れ家の鉢植えのほうが大きく育っています。

 

 

鯱城学園の講座のまとめです。二週分続けてご紹介します(=僕の備忘録です)。

 

 

その1.お題は「ドラマが生まれるとき・・歓びと哀しみのはざまで・・」、5月29日の講義。講師は演出家の伊豫田 静弘(いよだ せいこう)さん。NHKで数多くのテレビドラマを演出された方。大河ドラマ国盗り物語」「勝海舟」「草燃える」「いのち」を演出された方と紹介されると”すごーい方なんだ”という空気が会場に漂いました。

前半はギリシャ悲劇「オイデイプース王」を例にとり「ドラマとは”矛盾”と”葛藤”」であることを面白く説明されました。

後半は「自作を語る」と題してスクリーンに一部分を映しながら三つの作品を紹介されました。三作品共に、脚本・山田太一、演出・伊豫田静弘。高名な山田太一さんと作品作りをされており大変な立派な演出家さんなのだとの認識を更に強くしたのですが、この時点で、僕は、山田太一さんと山田洋次さん(「男はつらいよ」の原作・監督の方)をごちゃまぜにしておりました。恥ずかしい話で申し訳ないことです。失礼しました。それでも、山田太一さんが良い作品を沢山作っている脚本家であることに間違いはありません。

紹介された作品は、

①「ながらえば」1982年。主演は、笠智衆宇野重吉長山藍子

②「鳥 帰る」1996年。主演は、田中好子香川京子杉浦直樹

③「いちばん綺麗なとき」1999年。主演は、八千草薫加藤治子夏八木勲

ちなみに「いちばん綺麗なとき」が伊豫田さんの卒業作品であった由。”60歳の時の作品”とのお話がありましたので逆算すると現在80歳。講義されている姿・形、声の張り、驚くほどの若さです。ほんとにこの学園の講師さんは高齢ながら素晴らしくお元気な方々が来られています。僕にとっても大変によい刺激を頂いていると嬉しくなります。

作品の上映は、それぞれ10-15分程度、サワリの部分だけでしたが、説明を受けると”なるほど!”と演出の面白さを堪能することが出来ました。興味深かったのは、タイトルの付け方です。それぞれに元になる詩歌があるとのこと。そして、その詩歌の趣を作品の中にうまく表現されています。

①は新古今和歌集から「ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂しとみし世ぞ 今は恋しき」藤原清輔朝臣。②は安住敦さんの「鳥帰る いずこの空も さみしからむに」。ちなみに「鳥帰る」は春の季語とのことです。③が最も衝撃的でした。茨木のり子さんの詩。のり子さんは昭和元年生まれ、戦争の時代に青春を過ごされた方です。昭和33年に出版された詩集とのこと。長くなりますが、全文引用します。

 

『わたしが一番きれいだったとき』

 

わたしが一番きれいだったとき

街々はガラガラ崩れていって

とんでもないところから

青空なんかが見えたりした

 

わたしが一番きれいだったとき

まわりの人達が沢山死んだ

工場で 海で 名もない島で

わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

 

八千草薫さんと加藤治子さんの演技が見事なものでした。「ドラマとは”矛盾”と”葛藤”」とおっしゃるのが少しは理解出来たような気がしました。

 

 

その2.お題は「笑いと健康」。この学園の定番テーマの一つですね。6月5日の講義です。講師は、上越教育大学名誉教授・医学博士の三浦望慶(もちよし)さん。三浦さんは佐賀県出身、現在は名古屋市昭和区にお住まい。大学の名誉教授さんなのですが、なんと腹話術の師範をされている方。登壇された時も、きらきらと輝くスパンコールのステージ・ベスト姿でした。もちろん腹話術に使う人形も持参されての登壇です。「トランプJR」と命名されている人形との掛け合いをしながら楽しく自己紹介、笑いの大切さをお話されました(申し訳ありませんが、僕はこの人形と同じ名のどこかの国のエライ人はキライなので、このネイミングは余り良い趣味とは思いませんでした)。この講師の方のお年は又しても80歳。ノルディックフィットネス協会の名誉会長もされているそうで、身のこなしも軽快そのもの。腹話術をされるくらいですから、声も綺麗によく響く。その1.の伊豫田さんといい、この三浦さんといい、僕よりもほぼ一回り年長さんですが、そのお元気な様子には改めて感服しました。第二、第三の日野原先生がお元気にご活躍されているのを見て嬉しい限りです。

 

サミュエル・ウルマンの有名な「青春」の詩を引用して、豊かなシルバーエイジを紹介されていました。曰く「青春とは、人生のある時期のことではない。それは心のあり様を言う」「歳月を重ねるだけでは人は老いない。理想を失った時に初めて老いるのだ」。

 

「笑顔エクササイズ」(=「口角を上げる」と楽しくなるそうです)を紹介され、それから、「アウエオ体操」(=アウエオといいながら笑顔を。鏡の前でやる。楽しくなるそうです。なぜ、「イ」を飛ばしているのか聞き漏らしました。)を紹介されてから、最後の締めは「人生最高の大笑いで締めましょう」と。

「ワアッ、ハアッ、ハアッ、ハアッ、ハアッ」と会場の皆さんと一緒になって大きな声で大笑いしての締めでありました。

いやはや、一回り近い年長の講師さんから大変な元気を頂戴しました。負けないように体調管理には十分に注意したいものです。

 

 

 

備忘録が長くなりましたが、ここからが本日のメインテーマです。 

お弁当シリーズです。例によって、”のり弁”に、ぶりの照り焼き+しし唐とインゲン煮をのっけ。南高梅を真ん中に。照り焼きの”照り”が出ていないのが残念。

おかずは、ウインナーとブロッコリー炒め。キムチ(これは市販のものです)。それから自慢の「鶏ハムとザワークラウト風キャベツの酢煮込み」。これが見事にマッチしました。自画自賛。鶏ハムは、以前、紹介した炊飯器料理。味付けを濃い目にしてみました。クミンシードを加えて。弁当を食べるときにはお酒は飲みませんが、これはワインのつまみにもグーです。2019年6月17日、撮影。

前日の残りモノがほとんどでしたので料理の時間はかかりませんでしたが、ご飯を冷やすのに時間がかかるのを再認識しました。保冷剤を上下にあてました。 写真に撮ると”色彩が少ないのは寂しい”ということに改めて気が付きました。研究の余地がありそうです。

 

 

そして、これが本日のメインイベント!!です。 

題して「タカトのピザ」。今回からは母親(僕の次女)の許可を頂き名前を記載出来ることになりました。孝斗くん、現在4歳半。彼に画才があることは以前に紹介した通りですが(本年2月10日『読書三昧』の彼の自画像をご覧ください)、最近は料理に関心を持ち出した由。ピザ生地は市販のモノとのことですが、母親が材料を揃えたら自分で工夫してのっけたそうです。想像力が豊か!、料理も天才か⁉・・・爺バカです。

 

爺バカついでに彼の特技を紹介します。なんとエアコンに興味を持っている。それも本体だけでなく室外機にも、それと家電・エアコンメーカーのロゴにも。近くの量販店の家電コーナーを通り過ぎる時には何時も一人立ち止まり、じっくりと観察をしている、エアコンを。何回も見ているので、お店の人から「あっ、タカちゃんが来てる。」と覚えてもらうようになって「家電ボーイ」という愛称も頂戴しているとか。エアコンメーカーには専業のメーカーさんも沢山あります。そういう普段我々大人も余り目にしない専門メーカーのロゴも頭に入っていて、お店の人に「これはxxx(メーカーの名前)」と可愛い声で話して驚かせているとか。

僕はピアノのレッスンを受けていますが、名古屋の隠れ家で自画取り録画をして家族に送ったことがあります。みんなから、それなりの反応が返ってきたのですが、次女からは「タカトに見せたら、背景に映っていたエアコンのホースが長いことに注目していた」と(註;これは隠れ家のマンションでは室外機を設置する場所に制約があるので、エアコン本体までの接続ホースが壁沿いに長くなっているためです)。開口一番、彼が言ったことは「なぜ、あんなにホースが長いの?」。僕には部屋の景色のなかで埋没している一部分に過ぎないのですが、彼の審美眼には合致しなかったのでしょうか。それともエアコンの設置は”かくあるべし”との信念があるのかしら。面白いなあ。面白いところに目が行くもんだ。

その後は、ちゃんと録画を見て僕のピアノ演奏を聴いてリズムをとって喜んでくれていたそうです。・・・嬉しいですねえ、おじいちゃんに元気を与えてくれる可愛い孫です。

今日のお題は、『”孫の料理”自慢』でした。

 

 

円空さん

 

 

荒子観音寺の山門(仁王門)。向かって右に「阿」像、左に「吽」像が。共に3m以上の大作です。円空さん、1676(延宝4)年の作品です。円空さんの像のなかで最大のモノとか。2019年6月8日、撮影。

 

 

荒子観音寺の円空さんのところに行って来ました。毎月第2土曜日の13:00から16:00の間は一般公開されています。午前中に鯱城学園・園芸学科のアグリパーク南陽に水遣り登板で行った帰りに立ち寄りました。最も、前日が久しぶりの大雨でしたから、水遣りの必要はありませんでした。前回の農園実習は欠席しましたので、班の方が追加の作物の植え付けをしてくれたので、その様子を見に行きつつ(そもそも、どの畝に何を植えているのか、何回も説明を聞いているのに、いまだにピンと理解できていない)、自分の作物に支柱を立てたり、わき芽を摘んだり、若取りをしてきました。若取りというのは、なす、ピーマン等、植え付けの後すぐに実がなりますが、苗を大きく育てるため、若い実をもぎ取ることです(皆様ご存じのことでしょうが、僕はこんなことも知らないレベルです)。若取りした実も勿論食べることは出来ます。

 

 

『平成最後の日々に「梅原猛」を思う』で記載した通りですが、僕は梅原さんの影響を受けた円空仏のフアンです。荒子観音寺は以前から行ってみたいと思っていました。良い機会なので、行く前に梅原猛さんの「歓喜する円空」を読み直しました。この本は、2004年に「芸術新潮」に連載された「梅原猛円空巡礼」をベースにして加筆されたもの。文庫版は2009年7月に初版発行。僕が買ったのは2009年9月とメモ書きしてありましたから、文庫化されたものをすぐに買ったようです。当時のメモ書き、線を引いた跡があちこちにあるのですが、ほとんど、記憶にありません。情けない話です。

 

 

再読して、円空仏の面白さとは別に、梅原さんがどれだけ円空さんに入れ込んでいたかを再認識することが出来ました。「梅原、生きるにあらず、円空、我がうちに生きるなり!」文庫本の帯にも記載されていますが、円空さんが梅原さんを通して語っているかのような記述と、それ以上に、梅原さんが円空さんと一体になり自分自身について語っている件を改めて興味深く読むことが出来ました。円空さんは「まつばり子=私生児」であった由ですが、梅原さんは「婚外児」で、梅原さんの言い方では「同じ星の下に生まれてきた」と。そして、二人ともに幼くして母親を亡くしています。そのことが、お二人を強く結びつけていると良く理解できます。また、円空さんが木曽三川と深い繋がりがあったことを改めて認識することが出来ました。

円空さんのお母様は、1638(寛永9)年、円空さん7歳の時に木曽川の洪水で亡くなられたそうです。円空さんご自身は1695(元禄8)年、64歳の時に入定しますが、生まれ故郷の岐阜県羽島市から40㎞上流の関市池尻、長良川畔で亡き母を思いつつこの地域の安寧を祈願しての入定であったそうです。

 

 

話が横道に逸れますが、実は『学園生活』(木曽三川・今昔)を書いた後に、ドラゴン先生から大変な反応を頂きました。先生のことは『交遊録、ご飯が美味しい』で説明した通りですが、まさに、武芸百般、僕の敬愛する師匠のお一人です。常日頃から、僕のブログに対して、厳しいツッコミ、容赦の無いコメントを頂いていたのですが、この時は今まで以上にビビットな反応。それもそのはず、よく考えれば当たり前なのですが、先生は岐阜県大垣市の方ですから、ご自分のホームに関するテーマです。それこそストライクゾーンのど真ん中に直球を投げ込んで、ものの見事にバックスクリーンに特大のホームランを打たれてしまった、というところでしょうか。

 

嬉しいことに、僕のブログ記事が切っ掛けになって”自分ももう一度木曽三川を勉強しようと思った。ついては、興味があるなら現地視察をしよう”というお誘いを頂き、7月に先生の車で「木曽三川、歴史の旅」と称して大人の遠足をすることになりました。そして”遠足に行くからには、勉強しとけよ!”とイロイロと宿題が出されました。

 

 

その一つが、木曽三川の治水と西高木家の関わりについてのもの。高木家は、戦国時代に養老山地の東武一帯に勢力を張る土豪関ヶ原合戦での功績により、現在の岐阜県大垣市を任される旗本に。江戸に常駐した一般の旗本とは異なり、知行所に在住して参勤交代を行う交代寄合として大名並みの殊遇を受けていた由。西家・東家・北家の高木三家は明治維新まで同地を支配していたとのことです。寛永年間の1624年以降は、幕命を受けて川通御用の役儀を務め、1705年(宝永2年)以降は、水行奉行に。近世を通じて木曽三川流域の治水に重要な役割を果たした。

この旗本西高木家の古文書が、名古屋大学附属図書館に「高木家文書」として所蔵されています。既に52,000点以上が整理され「高木家文書目録」が刊行されており、2019年3月には重要文化財指定に。名古屋大学の資産が重文指定されるのは初めてのこととか。ドラゴン先生のご指導を受け、名古屋大学の附属図書館に足を運びました。

 

図書館の閲覧室の受付手前に、「高木家文書」専用の常設展示室が設けられており、古文書、古地図の展示・解説がされています。 俄か研究ながら僕の受け止め方です。

 

薩摩藩に「濃尾川普請御手伝」が下命されたのは1753年(宝暦3年)のこと(いわゆる宝暦治水の開始)。高木家はそれを遡る1705年(宝永2年)に水行奉行に。その後1735(享保20)年に、高木奉行、笠松郡代、地元庄屋の嘆願書を受けて井澤為永が幕府に対し治水を提言。この提言への幕府の反応が薩摩藩に対する「御手伝」の下命に繋がっています。ちなみに、円空さんが入定した1695年(元禄8年)は、高木家が水行奉行になる6年前のことです。ほぼ、同時代のことだったのですねえ。

 

 薩摩藩士の宝暦治水の話が世に知れるところとなったのは明治になってからのこと。現在の桑名市揖斐川沿岸の村の庄屋であった西田家の十代目、西田喜兵衛さん(1845年~1925年)が薩摩義士の顕彰に人生の大半を捧げて、碑の建立、誌の編纂に尽力された結果です。宝暦治水の当時、西田家当主はその地域の代官職であり、薩摩藩に協力を惜しまず、土地不案内であった平田靱負の良き相談相手であった由。「薩摩藩の恩、忘するべからず!」との記録を子孫に残したそうです。明治になり、先祖の意思を継いだ西田さんが「濃尾勢三大川・宝暦治水誌」を編纂し刊行したことによります。小林誠一さん(研究者)によるこの本の復刻版が、附属図書館に収められています。1998(平成10)年の版です。

 

長い間、地元の方々は、治水対策に苦労を重ねてきていた。それを理解しつつ、薩摩の方々に思いを馳せるのが、正しい、真っ当な歴史認識なのだなあと感じております。遠足は、まだ一か月先、あと何回附属図書館に足を運べるやら。僕としては、梅原さんに紹介してもらった円空さんと、特大ホームランを打たれた「木曽三川流域治水」の2つのテーマが結びついていることを認識することが出来て、驚き=感動!に近いモノを感じているところであります。

  

 

荒子観音寺の円空仏ですが、展示スペースが限られていて、やや残念な印象を受けました。円空仏は現在、全国で約5,340体残っているそうですが、そのうち、1,250体が荒子観音寺にあるそうです。梅原さんが「荒子観音寺は円空仏のワンダーランド‼」と書いているのもよく理解できます。ボランティアの方が沢山おられて、円空仏の紹介を丁寧にされていました。また、別棟での「木端会」で円空仏の木彫りの体験・指導をされています。円空さんに対する畏敬の念と親しみの気持ちが一体になったボランティア活動だと感じました。僕にとっては残念ながら、お寺のパンフレットには梅原さんのことについて何も触れられていませんでした。

 

木端会の部屋に置いてある円空仏のレプリカです。こちらは写真撮影「可」。梅原さんの分類では、円空さん第二期=1672(漢文2)年から1679(延多から)年の作品で、梅原さんに言わせると護法神円空オリジナルとのことです。第三期の前衛的な円空仏も好きですが、この時期の護法神も味わい深い作品だと思います。2019年6月8日、撮影。

 

 

 おまけ;お弁当、三回目。相変わらずの海苔弁に、南高梅とボロボロ卵焼きのっけ。人参・ナス・玉ねぎの揚げびたし、ソーセージ炒め、きゅうり竹輪、大根クルル漬け、らっきょ酢漬け。アドバイスを受け、ちゃんと冷ましてから詰めて、保冷剤を押し当てて持参。自己評価:上出来。ビジュアルもまあまあ。卵はソボロよりもこれくらいの大きさの方が食感が良いように思われる。2019年6月5日、料理と撮影。

 

 

 

学園生活、その2.

平兵衛酢の花が咲いていました。昨年3月、名古屋の隠れ家のベランダで苗木を大きな鉢に植えたものです。早いモノで1年強が経過しました。花は初めて見ました。意外と可憐な花でした。神奈川の自宅では庭に直植えしましたが、そちらの方が育ちが悪いように感じます。(『平兵衛酢の苗木』(2018年3月31日付け)を参照ください。)

 

 

5月22日(水)、鯱城学園での共通講座の第二回目です。今回のお題は、「人・物・事、出会い重ねて健康寿命」、まさにこの学園の設立の趣旨そのもののようなテーマです。 中京大学名誉教授の小林義雄さんの講義です。ちなみに、このタイトルは全国生活習慣病予防協会が募集したスローガンの最優秀の入選作品だとか。

 

 

ご存じの通り僕は故日野原重明先生の大フアンです。日野原さんは、75歳以上の高齢者を”新老人”と呼ぶことを提唱して元気に自立しよう!とエールを送ったり、新老人のモットーは「愛し・愛されること、創めること、耐えること」と言い切ったり、そもそも、成人病を「生活習慣病」と言い換えたのも日野原さんでありました。お医者さんとしての知識と経験から「人は心と体と(そして)魂の三つで出来ている」と考えておられたと理解しております。

 

日野原さんのことはこのブログで何回も書いてますが、●2017年7月31日付け「日野原先生のこと」、これは逝去された時のものです。●2017年12月31日付け「感謝;スピリットを揺さぶってくれる方々へ」、そして、●2018年9月30日「日野原先生のこと、その2;讃歌」を参照してもらえれば嬉しいです。

 

 

という訳で、今回のお題については講義をお聞きする直前までは、頭のなかで勝手に、今までに読んだ日野原さん本の内容と比較しようとしている、日野原さんと比較して評価をしてやろうという意地悪な気分になっておりました。”講師の方のお手並み拝見”と構えている嫌味な聴講生ですね。ところが、講義が始まる前には、”嫌味な聴講生ではこの学園に入れてもらった意味が無い、もっと素直に拝聴しなければ”と考えるようになっていました。”少しは自分も成長したのか”と思いましたが、さにあらず。これは近くの席におられる年配の方の聴講の姿勢に感化されたものでした。年配の同期生の方。多分、僕よりも一回り以上の年長さん。園芸の専門講座でもそうですが、熱心に質問もされるし、元気な声で挨拶もされる。見ていて清々しい気分を感じさせて頂ける方です。年長の同期生から自然に教えられる、ということもこの学園の良いところだと思います。ちなみに、共通講座は鯱城大ホールで行われていますが、座席は各専門講座の固まりごとに席のブロックが指定されています。共通講座を聞きながらも、専門講座メンバーどうしが自然に交流出来るように設計されている訳です。

 

 

結論的に言えば、内容の濃い、面白くてよく纏まった講義でした。僕自身の備忘録として概要を記載します。

●講義はソクラテスの言葉から始まりました。曰く、

「夢・希望が無くて生きていることは、生きているとは言えない」

「人と触れ合わず、人と協力する素晴らしさを知らなければ、生きているとは言えない」

「人はただ生きるのでは、『善く生きる』ことが重要である」等々の言葉を引用され『出会い、触れ合いを大切にしよう』と強調されました。

●その上で、健康長寿を支える三つの要素は

①知的好奇心を旺盛に

②コミュニケーション=相手を思いやる気持ちを大切に

③運動=自分の脚で健康を勝ち取る

ことであると。この先生の専門はスポーツ科学、米国留学を基に「ストレッチ」の重要性を日本に普及された第一人者の由です。ご自分の専門分野からの経験を踏まえ「体の健康と同等ないしはそれ以上に頭=”脳”の健康が重要である」ことを力説されていました。介護が必要になった原因として従来は脳血管疾患が一番であったのが、最近では、認知症がトップになっていると。厚労省が3年ごとに行う「国民生活基礎調査平成28年度)」で認知症が18%でトップ、脳血管疾患(16.5%)を抜いたそうです。上記の①②③は、健康寿命を支える=『脳を活性化させる』!大切な三要素であるとのことです。

●長寿の里、沖縄県大宜味村(オオギミ、と読みます)の紹介をされていました。長寿日本一宣言をしている村。「老いては子に甘えるな」。村民・高齢者の意識として、”生きている限りは現役”、畑仕事は当たり前。一人暮らしの方が多いそうですが、決して孤独で無い。行事・ボランティア活動への参加が極めて高いそうです。

 

盛況のうちに講義は終了しましたが、最後まで日野原先生のことについては触れられませんでした。やや、残念でした。

 

 

前述の通り、日野原先生は「人は心と体と魂!の三つで出来ている」と言われていましたが、ちょうど、この前後に読んでいた本にこの言葉が出てきました。河合隼雄さんの「こころの最終講義」。新潮文庫、2013年(平成25年)7月三刷。もともとは1993年岩波書店刊行の「物語と人間の科学」(講演集)を改題、編集された本です。

河合さんが実際に心理療法に携わりクライアントさんとの対話の中での出来事を通じて、心、体、魂について述べている件がありました。面白いので抜粋して記載しておきます。

「人間を(見る時に)心と体に分割して見るのではない。これは心の問題だから、体の問題だからなどと言わずに、心も体も全体として人間を見ていこうとする場合に『魂』という言葉が大変に強力である。」

「人間は心と体だけでできているものではなくて、人間を全体として、”私も知らない私として”、存在させているものがある。それを魂と考えたらどうか。」

 

河合隼雄さんも、僕のブログにはよく登場して頂いてますが、改めて調べてみましたら2007年(平成19年)7月に逝去されていました。79歳でした。もう12年も経過するのですね。もっと、最近までご活躍されていたように感じておりました。沢山の著書を残されていますから、本の力ですね。改めてご冥福をお祈りします。

 

 

2回目のお弁当。前回同様、ご飯は2段重ねノリベン(ご飯→千切り焼き海苔→ご飯→焼き海苔)、4種ハーブ入りのソーセージ炒め、卵焼き(卵2個に千切り海苔を加えて。形が整わず、残念。)、絹さや。おかずは、カボチャ・豚肉炒め(黒砂糖、しょうゆ、お酒で味付け。黒砂糖を入れ過ぎた、反省。)、ミニトマトスナップエンドウ南高梅(=平成29年6月漬け込み=四国の親分に戴いたものです)。

自己評価:まずまず。見かけは今一歩ながら美味しかった。2019年5月29日、料理と撮影。

結構、「お弁当作り」というのも面白いモノですね。まだ、要領が悪くて時間がかかりますが、その分、早起きするようになっています。左のおかず入れは、神奈川の自宅にあった(かつてカミさんが子供用に使っていた)モノを拝借。

 

 

 

学園生活

体験農園”アグリパーク南陽”。僕たちの畑の手前に水田があり、この日は、近隣の地域の集まりで親子・家族の体験田植えをされていました。都会の子供達は田植えをしたことがほとんど無いでしょうから、きっと、記憶に残る体験になるのでしょうね。週末に、水やりに行った時の風景です。2019年(令和元年)5月12日、撮影。

註:写真を見る限り子供たちが余りいませんが、あぜ道には泥んこになった沢山の子供たちがいました。田植えよりも、この反対側にある水田でプラスチック板を利用した簡易ボートで水遊びをしていた子のほうが多かったのかな。

 

 

大型連休明けの5月8日・水曜日、鯱城学園の共通講座の第一回が行われました。お題は『木曽三川・今昔ーー”弧愁の岸”を行くーー』。郷土史家、林 孝之介という方のお話でした。今年度の初めての共通講座、そして、新しい年度=「令和」になって初めての講座ということで、司会の方も、講師の方も”大変に記念すべき講座になった”ことを強調されており、聞いている方も何やら緊張するような雰囲気でありました。

講義は、10:00から11:30までの一時間半。鯱城ホールが7-8割方はいっぱいでしたから出席している学園生約500名を相手に、一時間半、立ちっぱなしでの講義です。講師の方は僕たちと同じくらいのお年(昭和20年生まれとのことでした)ですから、体力・気力ともに充実された方だと感心しました。この学園の本年第一回の講師に相応しい方ですね。

 

 

お話の内容も興味深いもので、途中、睡魔に誘われることも無く、最後まで楽しく聴講することが出来ました。徳川幕府木曽三川の治水工事を薩摩藩に下命したことは以前から耳にしておりましたが、今回の講義では、そもそも、この地域の地形の説明から洪水・治水の歴史をお話され、なるほどと納得させられました。ブラタモリ的なレクチャーです。

 

濃尾平野は東高西低の地形をしているそうです。知りませんでした。木曽三川は、東側から木曽川長良川揖斐川の順ですが、一番東側の木曽川の水位は、一番西側の揖斐川の水位よりも2.4m高いそうです。この三川は多くの支流を持ち、それらが互いに連なっている。木曽川が流域面積、延長流路ともに最大。通常、降雨は西から東に移動することが多いこともあり、三川の出水は、まず揖斐川に起こり、次いで、長良川、最後に木曽川になる由。豪雨の時の言葉として「四刻八刻十二刻」というのが残っているそうです。豪雨が続けば四刻=8時間で揖斐川が氾濫する。八刻=16時間で長良川が、十二刻=24時間では木曽川も氾濫すると。「しとき・はっとき・じゅうにとき」と読むそうです。木曽川の水は洪水となれば、長良川に、更には、揖斐川に流れていく訳ですから、揖斐川=美濃の低平地は洪水の最初から最後まで、その脅威にさらされていたそうです。

 

1609年(慶長14年)の「御囲堤(おかこいづつみ)」の治水工事は家康の命によるもので、この時には、木曽川の東側に堤防を築いたと。関ヶ原の余韻が残っている時代で、とにかく尾張徳川側の農耕地を安定させる、そして徳川幕府として「西」に対する防衛線を強化することを狙ったそうです。そのため、この堤防により、それ以降の豪雨・洪水の時には、美濃側の被害はかえって増大したと。トランプ大統領の「アメリカ・ファースト」を醜いと笑っている訳にいかなくなりますね。

 

薩摩藩に「濃尾川普請御手伝」が下命されたのは、1753年(宝暦3年)の時だそうです。外様大名であり大変な勢力・影響力を持っている薩摩藩=「南海の潜龍」の牙を抜く=弱体化を狙ったものとか。薩摩では「対決か恭順か」の激論があったそうですが、薩摩藩士の本文は「島津家の安泰」であると、薩摩藩士947人が美濃に向かい、87人が犠牲になった。総責任者=担当家老の平田靱負(ゆきえ)は、すべての工事を終了し一隊が薩摩に帰任するその日に、犠牲者に対する責任を取って一人割腹したそうです。明治になり「宝暦治水之碑」が建立され、1938年(昭和13年)には「治水神社」が建立、平田靱負が祀られている由。神社には薩摩の家紋(ご存じ「丸に十」)の旗が立てられていると。

ちなみに副題の「ーー”弧愁の岸”を行くーー」というのは、杉本苑子さん著「弧愁の岸」を引用されたもの。1962年(昭和37年)の直木賞受賞作品です。

 

 

 

2019年5月12日、日曜日に、ブラっと畑に水やりに行きました。隠れ家から地下鉄とバスを乗り継いで一時間半ほど。名古屋市の東部からほぼ西の外れへの移動となります。バスの時間を勘違いしてかなり長い待ち時間となりました。バスは一時間に一本しか動いておりません。前回記載の通り、班のなかでは役割分担を決めて、水やり当番も決まっています。当面は二日に一回、当番が水やりを続ける。この日は、当番では無かったのですが、早い機会にこの農園・畑への行きかた、畑での作業手順を確認しておきたかったので(前回、植え付けをした時には、午前中に共通講座があり、その後、学園近くから専用の市バスでクラスの皆さんと一緒に行きました)。

 

一人で行ってみると、分かっていないことが沢山あることを再認識させられて面白い経験になります。この日も、バスを降りてから畑に行く道がしばらくは分かりませんでした。ウロウロしながら歩いていると、冒頭の田植えの場所に出ることが出来て、エイやあーっと直進したら運よく畑に辿り着けました。

班でやれば簡単な作業でも一人でやると何と大変なことか。二つのバケツに水を汲み、自分の班の畝のところに運んでいきます。それから、柄杓で水やり。三っつの畝に水をやるのに、何回往復したことか。”お百姓さんのお仕事はやはり大変なことだ”と、これだけのことで大袈裟に考えてしまいます。一応終了して、バケツを倉庫に片づける時に、ふと見れば、ホースが置いてありました。”授業の時の先生はバケツを使うしか方法は無いと言っていたが、ちゃんとホースがあるやないか!。これ使えば、もっと楽できるやん”と思って、疲れた体に鞭を入れ、重たいホースの束を倉庫の外に持ち出し、水溜めタンクの蛇口につなごうとしたのですが「径」が合いません。それ以上、僕の頭では対応する方法が思い浮かばなかったので、残念ながらあきらめました。

 

帰路は最寄りの地下鉄の駅まで歩きました。帰りのバスの時間をチェックするのを忘れており、バス乗り場まで行ってから待ち時間が長すぎることになるのは嫌だったので。最寄りの駅と言っても、グーグルマップで検索する限り徒歩で50分ほどかかりそうな距離です。”まあ、この辺りは今まで散策する機会が全く無かった地域やから、ちょうどエエ機会やおまへんか”と自分を騙して前向きな思考を心掛けました。

途中、南陽大橋という大きな橋を渡りました。西側が新川、東側が庄内川、二つの川を跨いで架かっています。”木曽三川”の講義を聞いた後だったので、この辺りも昔は洪水に悩まされていたのかしらと思いました。もっとも、こちらは名古屋市内を流れている川ですから、洪水懸念よりも都市の物流・水運に機能している川であったのかもしれません。地下鉄の駅は、荒子川公園駅荒子観音寺に行くときの駅かと思いましたが、そうではありませんでした。同じ荒子ですが、荒子観音寺の最寄りの駅は荒子駅。この沿線です。荒子観音寺は、円空仏で有名なところ。一度は行ってみようと思いながら、まだ行ったことがありません。調べたら、毎月第二土曜日の13:00-16:00のみ一般公開されている由。次回、水やりを土曜日にやることにして、その帰りに見学に行ってみようと思っています。

 

  

 2019年5月19日、お弁当を初めて自分で作りました。この日は、鯱城学園のクラス別のオリエンテーション。自己紹介、今後の日程・行事の確認、学園・クラスの役割を決定、クラスの記念写真の撮影。今までの数回は、近くの食堂等々でお昼を食べていましたが、ふと、お弁当作りをしてみようと思い立ちました。やはり学園生活にはお弁当が似合う!?。

第一回目のお弁当。「鶏そぼろ、炒り卵の海苔弁」。海苔は食べやすく千切ってからご飯の間に二重に敷き詰めて(ご飯+のり+ご飯+のり)、その上に鶏そぼろと炒り卵のっけ。きゅうり&竹輪とトマトを別途タッパーに。上出来でした。

 

 

休憩時間に同じ班の畑仕事熟練の様子の生徒さんに”水やりにホースを使うこと”についてのご意見を聞いたところ、ホースと蛇口の「径」以外にもいろいろと問題があると。水タンクの圧力が十分にあるかどうかが最大の問題。「多分、水圧が十分では無い。だから、先生はバケツを使うしか方法は無い、と言っていたのであろう」と。また「柄杓を使うよりもジョウロを使って散水するほうが苗木に優しい。そして効率よく、かつ、疎らにならずに水やりが出来る」とのことでした。水やりにもイロイロな知恵が必要なのだと目から鱗がぼろぼろ状態でした。この方には、ご了解を頂いて我が班の班長さんになって頂きました。

 

前回、鯱城学園の生活がスタートした様子を記載しましたが、結構、反応・関心をたくさんいただきました。僕自身、始まったばかりですが、予想以上にこの学園は、運営の仕組みがよく出来ていると気に入っております。運営のインフラが良く整備されていると思います。 

良い点の一番は、学園の運営を可能な限り自主的にさせようとしているところ。そのための仕組みがしっかりと整備されているように思います。仕組みとしては、①全員参加の共通講座。②縦の繋がりの専門講座=クラス単位での自主的な取り組みを行う。また、③横の繋がりのクラブ活動=これも学園生は全員が何れかのクラブに参加することがマストです。そして、各クラブ単位で自主的な活動を行います。面白いのは、一旦、専門講座、および、クラブを選択すると二年間、原則として異動は不可としている点。クラス、クラブをフラフラ・コロコロと変わることなく、二年間、しっかりと交流を深めてください、という趣旨だそうです。ナント、秋にはクラス、クラブ別の文化祭、体育祭もあり。また、年に二回、個別の研究成果の発表する場も準備されているそうです。

更には、④場所の繋がりというか、自分の住んでいる各地域・区ごとの括りで集まり、また、⑤時系列jの繋がりで、OB/OG会との繋がりを持つように設計されています。学園生が全体・縦・横・場所・時系列の繋がりで相互に懇親を深めながら学園生活を楽しんで過ごせるように、また、目出度く卒業の暁には、地域・区を核にして後輩との接点を持ち続け、地域貢献に繋がるように、社会参加が出来るような仕組みが構築されています。鯱城学園の開学は、1986年(昭和61年)4月。僕たちが第34期生ですから、運営のノウハウ、仕組みが上手く機能するようにブラシュアップされていると感じます。この仕組みを構築された名古屋市の職員・関係者の方々は、エライ!。拍手です。

 

「令和」の時代、スタート

久しぶりに碧南の会社を訪問しました。社友会=OB/OG会に出席。現役の役員・管理職も加わり楽しい時間を過ごしました。有難いことです。会社正門へのアプローチ横の花壇に植えられている”クルル・マーク”が例年以上に鮮やかに満開の状態でした。「クルルのおじさん」の原点です。嬉しくて涙が出そうになりました。2019年(令和元年)5月10日、撮影。

 

 

 

 「令和」の時代がスタートしました。4月30日に天皇陛下が退位され上皇に。5月1日00:00をもって「令和」の時代となり、皇太子さまが同日、新天皇に即位されました。テレビ等での街の様子では、”今年は、年末年始が2回あるようだ”とか、”年越しそば、ならぬ、元号越しそばが大賑わい”とか、「令和」を刻印した記念の和菓子、キャンディーがたくさん準備されていたり、深夜の新元号カウントダウンも派手に行われていました。10連休の影響もあり、歓迎ムード・お祭り騒ぎの中での新しい元号への移行となったと嬉しく思っています。

 

 

上皇様の天皇としての最後のご挨拶も簡潔かつ分かり易いもので「支えてくれた国民に感謝」という言葉を素直に受け止めることが出来ました。上皇様、上皇后様は、5月1日以降は、すべての公務から退かれるとのことです。明治以来では初めて、天皇上皇のお二人が存在することになるので「二重権威」を避けるための配慮がされているとのことです。ややこしい話は別にして、特に、上皇后美智子様には、一国民・一フアンとして、ゆっくりと骨休みをして頂きたいと思います。

 

 

日経新聞5月1日の記事に「令和」の解説が紹介されていました。新元号の考案者とされる中西進さん(大阪女子大名誉教授)が、「令和」の「令」は「うるわしい」という概念であると解説しています。「善」と並び美しさの最上級の言葉であると。「これと「和」を組み合わせることで、ぼんやりとした平和でなく、”うるわしい平和”を築こうという合言葉になる」とのことです。出典の万葉集の「梅花の宴の序文」は、太宰府長官の大伴旅人の作とのことで、当時、左遷され太宰府にいた旅人の「権力者にあらがいはしないが屈服もしないという気概が見て取れる」「不如意のときの見事な生き方を示している」とのことです。「令和」とともに太宰府は大変な人気で連日たくさんの方が訪れているそうです。

 

 

これ以前の4月26日の記事には、改元と新元号「令和」の意味についての海外での報道ぶりが掲載されていました。そもそも西暦とは別に元号を用いるのは日本だけだそうです。外務省が、新元号が決まった4月1日に世界各国に対して通知した文章では、元号にあたる英語は「Era(時代)」が使われているそうです。新元号の漢字の意味までは伝えなかったので、海外メディアの中で素早く報道した英BBCは「令=命令=order、それと、和=平和=peace、または、和=調和=harmony」と解説したと。

これは初めて聞いたときの僕の印象と同じでした。普通の日本語の解釈をする人の一般的な受け止め方として決しておかしくないと思います。令=うるわしい、というのはもう少しよく考えて、”そうか、令息、令嬢の令のことか”、と辿り着けばその意味が理解できるのでしょう。

政府筋は、海外での受け止められ方として「命令」という意味が強調されるのは宜しくない、という観点から、追加の説明として「令和の意味はbeautiful harmony=美しい調和」と発信した由。一定の日本語能力を持つ海外の記者さんも、この「令和」の意味は最初に耳にした時には分かり難かったでしょうね。発表から1か月、ようやく馴染んできたかと思っています。

 

 

 5月1日の即位の日は、当然ですが、新天皇、新皇后にスポットライトが当てられていました。特に、新皇后の雅子さまの表情が明るく晴れやかであったこと。車の窓から満面の笑みで手を振られていたのが大変に印象的でした。無理をして作っている表情では無かったと思います。順調に健康を回復されている証しで何よりのことだと思います。

天皇は、1960年2月23日生まれ。59歳。僕よりも10歳(学年では9歳)年下。若いといってよいのか、エエお年というべきなのか。記録が残っている8世紀後半以降の天皇では、歴代2番目の高齢即位とのことです。ちなみに平成天皇がそれまでの2番目の高齢即位=55歳での即位であった由。8世紀以降であれば、平均寿命も大きく変化しているでしょうから、これくらいの年齢での即位は全く違和感無し、問題なしと思います。

  

 

5月1日、10:30からの 「剣璽等継承の儀」には、成年・男性の皇族のみが参列。前回=平成の時と同様とのことで、女性皇族は参列されていませんでした。皇位継承の証である神器等を引き継ぐ場に女性皇族が出席すれば「女性・女系天皇の容認に転じたととられかねない」との見方があるからだそうです。成年ではない秋篠宮さまのご長男=悠仁さまは参列していなかったので、皇位継承の資格者の数の少なさが逆に浮き彫りにされたように感じました。継承の有資格者は三人のみ。平たく言えば、おじさん=常陸宮様、弟=秋篠宮様、甥っ子=悠仁さまの三人だけ。これ程少ないのは皇室典範天皇の地位は男系男子が継ぐと定められているからです。

  

 

天皇の地位の継承のことを考えていたら、うちの家のお墓のことが頭に浮かびました。お墓の継承。僕の母親の親=僕のおじいちゃんは長男ではありませんでした。当時の慣習では、その一族のお墓は長男が継承し、長男以外の男子は新しくお墓を建てるのが当たり前であった訳です(女子は結婚して婚家のお墓に入れてもらうのが筋であった)。おじいちゃんはその慣習に従い立派な墓を作りました。子供は女子二人であったため、長女(=僕の母親)には婿養子縁組をして家を継がせました。自分が建てた墓を継がせる、家系を大切にするというのが大きな理由であったかと思います。その後、イロイロあり、母親はお墓を改葬。おじいちゃん・おばあちゃんの遺骨も移しました。現在のお墓は神戸の六甲山の一角にある霊園にあります。神戸は百万ドルの夜景と称されていますが、まさにそれはそれは素晴らしい見晴らしの良い場所です。(ちなみに、改葬の手続きは僕が手伝いましたが、これは大変な作業です。二度とやりたくないと思っています。)

 

 

嬉しいことに=故人も喜んでくれていると思えて嬉しいのですが、僕の家族も、兄貴の家族も機会を捉えては墓参りに行っております。改葬した時、母親は”みんなが墓参りに来て近況を語りかけてほしい”と願っていましたが、今のところその願いは叶えられている状態。幸いに兄の子供は男子が二人、さらに、その子供=兄の孫が4人いて、そのうち3人が男子。兄が天皇とすれば、天皇の地位の継承方式を採用しても、僕の継承順位は6番目になりましょうか。当分の間は、墓参りを含め、お墓の継承も問題なさそうな布陣となっています。

 

もっとも、お墓の継承=祭祀財産の相続は、祭祀継承者というらしいですが、法律上の決まりは無いとのこと。慣習として長男が引き継ぐが、①使用権者の遺言・意向、②一族・地域の慣習、③家裁の調停で決めることが出来る。祭祀財産というモノの性質上、複数で分割するものではなく一人に引き継がれるものとされています。

そして、その墓には使用権者と管理者の同意があれば、誰でも入れてもらえるとのこと。僕は次男ですから、昔の流儀であれば自分でお墓を建てることになるのですが、新しく自分のお墓を建てようなどとは全く思っていません。母親が希望していたように一緒のお墓に入れてもらうか、しかるべき時までに周りに迷惑をかけないように決めておきたいと思っています。

天皇の地位の継承ほどの制約は無いですから気楽で結構であると思います。家族のみんながやりやすいようにしていくのが良いのでしょうねえ。まあ、年に一度くらいは、故人を偲び、先人に思いを馳せる時間を持つということは良いことではないかしら、と思っています。少なくとも、大きな負担をかけるものではないでしょう。

 

 

改めて思えば、この二日間は、皇室が話題の中心でありました。生前退位による改元というのは滅多にないことですから、たまには皇室の事をチョットは真面目に考えてみるにはちょうど良い機会であったと感じております。僕の年のせいかも知れません。日本国の有り様を皇室をベースにしてあれやこれや考えてみるのも決して悪くはなかろうと思っています。昭和から平成を経て、その間の天皇ご自身の努力もあって”国民の象徴”という言葉もすっかりと馴染んだように思います。皇室はこれからも継続されるべき存在だと思います。継続することを前提に、その為の問題点をクリアーに、ルール作りの議論をオープンにして。少なくとも、女性天皇は認めるべきではないかしら。真摯な立場での議論であれば国民の理解は得られるだろうと思うのですが。

 

 

 鯱城学園・園芸学科。「令和」とともにいよいよ専門講座がスタートしました。園芸学科講座の実質、初日です。初日から畑での実習。ピーマン、トウガラシ、しし唐、ナス(2種)を一畝に。かぼちゃ、とうもろこしをそれぞれ一畝に、それぞれの苗木を植えました。写真は2年生が育てている場所。僕たち一年生はこの写真の奥にあるまだ何も植わっていない畑を使います。ここは体験農園”アグリパーク南陽”というところです。名古屋市港区西茶屋、イオン名古屋茶屋の南にあります。撮影、2019年(令和元年)5月8日。

 

 

園芸学科のなかでは”班”単位の活動になります。僕たちの班は9名。一人当たり約0.9mx1.8mの畝を合計7-8畝を使って農園野菜を育てることになります。班全体では、0.9mx17mx7-8畝となり予想以上に広い面積!という印象です。初日に第1畝、第5畝、第7畝に植え付けをしました。写真は第1畝にピーマン、とうがらし、しし唐を植えたところ。班で協力しながら水遣り等々を行うことになります。果たして秋には??。同じく、2019年(令和元年)5月8日、撮影。

 

平成最後の日々に「梅原猛」を想う

高尾山山頂から富士山がキレイに見えました。何回も登山している方の話でも”これ程キレイに見えるのは滅多にない”とのこと。ラッキーでした。昨年、1月以来の高尾山です(2018年1月29日付けの『高尾山』をご参照下さい)。今回はカミさんと二人で行きました。前日そして結果的には翌日も季節外れの寒さと雨であったので、思い切って行ってよかったです。下山はケーブルカーでのんびりと。低い山ですが、このケーブルカーの勾配は日本で一番急な傾斜角度だそうです。2019年4月28日、撮影。

 

 

昨年12月末に『平成最後の・・・』(2018年12月31日付け)を記載しましたが、アッという間に4月末、退位の儀式の日を迎えています。 昭和から平成になった時は昭和天皇がお亡くなりになった時ですから、追悼の気分が極めて強く、その前後は派手なことは控えようとの気配が濃厚であったと思い出します。今回は、所謂、生前退位ということでお元気ななかでの退位、そして即位ですから、お祝い気分での改元という感じですね。テレビの番組でも「ゆく時代くる時代」等々、お祭りムードでの放送が予定されているようです。

 

皇位継承儀式で中心となるのは「三種の神器」のうち剣と璽(じ=勾玉)を受け継ぐ儀式だそうです。「剣璽等継承の儀」です。5月1日の10:30から行われます。因みに、三種の神器とは、

鏡=八咫鏡(やたのかがみ)・・・本体の安置場所は「伊勢神宮」、

剣=草薙剣(くさなぎのつるぎ)・・・同じく「熱田神宮」、

璽=八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)・・・同じく「皇居・御所」、

の三つです。”璽”と”八尺瓊勾玉”というのは読めませんでした。 

 

天皇の政治関与等の観点から政治・思想的にはイロイロな議論があったようですが、僕はゆっくりと時間をかけて時代の代替わりの時を迎えるというのもなかなか良いモノだなあと感じています。おまけに(今の僕には余り関係ありませんが)10連休で世の中も少しはのんびりしているようですし。お陰様で、今まで積んであった本を読む時間を心に余裕を持って楽しむことが出来ました。

 

 

 梅原猛さんは今年1月12日に亡くなられました。”93歳、大往生だった”そうです。ユリイカから追悼の臨時増刊号が出されていました。懐かしくなって買いました。しばらく積んだままになっていたのを取り出して読みました。

 

今までに読んだ梅原さんの本の中では「歓喜する円空」が一番印象的でした。名古屋に移ってからのことだったと思います。あの素朴な円空仏、それも数え切れないほど沢山の彫刻群。岐阜城に登った帰りに”これは民家ではないか”と思うような博物館・展示館にぎっしりと並べられているのを見て驚いたものです。それまで円空さんというのは認識があまり無かっただけに大変に新鮮な気持ちで接することが出来たように思いました。

日向で仕事をしている時には、宮崎空港の書店で「天皇家の”ふるさと”日向を行く」を見つけて興味深く読みました。高千穂の天孫降臨の地に足を運んだばかりの時だったので、これも大変に臨場感があり感動したことを覚えています。(この本は、平成から令和に代替わりする時、もう一度、目を通して見ようかと思っています。)哲学者というよりも実際に現地に足を運んでモノを見て日本の歴史を掘り下げた方という受け止め方をしておりました。

 

 

この特別号には息子さんが追悼の文を寄せられています。お父上=梅原猛さんは婚外児であったことを淡々と記載されています。事情があり実父の兄=本家にひきとられたそうですが、本家は愛知県知多郡内海町の名士であったことを初めて知りました。「孤独の深さ」を幼少の時から感じて育ち、中学生の時には養父から出生の真実を知らされたそうです。”「そうだと思っていたことがそうではなかった」という少年の深い傷。出産後すぐに帰らぬ人となった実母は「真理」の探究にたえず参照すべき(そして)知りえない原像として心の奥に鎮座することになったであろう”こと等々。

猛烈な勢いで本を書かれたそうです。その集中力はすさまじかったと。孤独に自閉しているどころか「人たらし」と評した人もいたほどだったと。また「泳げないのに飛び込んでいく人」と譬えた人もいたとか。息子さんの表現では「父は、そう、闇どころか、まったくポジテイブな人であった。・・。自己肯定感の強い、無邪気な人であった。」由。

上の写真はこの増刊号の表裏の表紙ですが、特に、裏表紙のお若い頃の笑い顔を見ているとまさしく息子さんの追悼の言葉を実感できるように思いました。

 

 

梅原さんは、歌舞伎、能にも大変に造詣が深い研究者です。「スーパー歌舞伎」「スーパー能」を創作したことも良く知られています。著書の中に「授業」シリーズというのがあって、その中の一つに「梅原猛の授業 能を観る」というタイトルの本があります。この本は以前に読んだ(見た)ことはあったと思うのですが、全く、記憶に残っておらず。ぶらりと古本屋さん巡りをしていたら、ビンゴ!置いてありました。おまけに、すぐ隣に「小林秀雄対話集 直観を磨くもの」という本もあったのでこれも一緒に買いました。

 

話が横道にそれますが、小林秀雄の「美しい”花”がある。”花”の美しさというようなものはない」という言葉は能「当麻(たえま)」に寄せられた批評文の一節だと思うのですが、それについてこの本のなかに何か書かれていないかなあと期待したのです。この批評文は高校の現代国語の解釈問題で結構使われていた文章であったと記憶するのですが、何やら分かるようでよく分からない。白洲正子さんの本にも記述があったと思います。分かりやすい解釈を求めたのですが、残念ながらこの本の中に記載はありませんでした。梅原猛さんの授業にも「当麻」は記載されていませんでした。改めて、現本を読み直してみようと思っています(「モーツアルト・無常という事」に収められているはず?)。

 

梅原さんの「能を観る」は大変に面白く読むことが出来ました。こんな授業を聞いたうえで、能の舞台を観ることが出来ればモットもっと能のフアンは増えるだろうと思いますね。

 

 

 増刊号のなかには、「奇人たちの遊興」と題して、梅原猛さんと白川静先生とのお付き合いのことをインタビュー記事にしたものの再録が掲載されていました。梅原さんが30歳くらいの時に知り合った由。有名な「道」という字の解釈(=異民族の生首を持って歩くという意味)を例にとり、白川さんが「漢字学」を通して新しい大きな世界観を開いたこと、フィールドワークを大切に、実証することの面白さを語られています。

自分ご自身のことについても「(酒も食事もテレビ(野球と相撲以外は)も特に楽しくない。本を読んで、考えて、そして、ものに書くというほどの楽しみはない」と語っています。僕たち凡人からするとやはり大変な人だったんですねえ。

 

 平成から令和に代替わりの日々に、日本的なモノ、天皇家、伝統・古典芸能に面白い見方を与えてくれた哲学者、梅原猛さんを偲びつつ、ややシンミリと読書を楽しんでおります。それにしても”京都”というところの面白いこと。梅原さんの「京都発見シリーズ」を読みながら、また、ブラリと散策したいものです。

 

おまけです。「上皇」の英語表記の記事が残っていました。『ボヘミアン:ラブソデイ』のアカデミー賞受賞の記事の上部に掲載されていました。日経新聞、多分、本年2月26日の記事だと思います。

 

 

交遊録・ご飯が美味しい

久しぶりに、ドラゴン先生と会食しました。ドラゴン先生は、このブログで何度も登場して頂いてますが、酒を愛し、本を愛し、植木・植物を愛し、料理を愛している方。職業柄、卒業が無い(立場上も卒業が出来ない)お仕事をされているので、まだ、バリバリの現役です。当然、お仕事も愛して(使命感を持って)やってらっしゃっているものと思っています。 嬉しいことにドラゴン先生は僕のブログの熱心な読者です。会食する時には、いつも”酒の肴”にして突っ込んでくれます。この日もいきなりグサッときました。

「庖丁を研ぐのは好きですよ、気持ちが良い、快感ですよ。慣れれば、誰でも簡単に出来ます。」

"ムムッ、あんた庖丁研ぎまでやらはるんでっか、恐れ入りました"、瞬時にして、このおっさんとの既に結構長いことになるお付き合いのことが思い出されました。

 

 

 そう言えば、「戦艦ヤマト」=中華鍋をプレゼントしてもらったのも飲み屋での会話が切っ掛けでありました。今から思えば、全くの料理初心者であった僕が偉そうにパラパラ・チャーハンの作り方を自慢げに話しした(教えてあげた)のが始まりであったと思います。その後すぐに、このオッサンは料理の腕前だけでなく本格中華鍋の扱い方=メンテの仕方を含む料理道具についても半端ない知識と技量をお持ちであることを痛感させられたのでありました。”世の中には何かにつけて造詣が深い方がいらっしゃるのやなあ、完敗、穴があったら入りたい”と恐れ入ったものです。

 

その後のお付き合いで、ドラゴン先生の知識と技量は、料理の分野だけでなく多岐に亘っていることが分かってきました。園芸についても然り。普段は仕事の関係で名古屋にお住まいですが、大垣市にある自宅の広大な敷地(これは僕の想像です。まだ、ご自宅にお邪魔したことはありません)の一角で野菜等の作物を育てたり、植木を楽しんでご自分で剪定をしたり、もちろん、平兵衛酢の苗木も育ててくれています。

 

 楽しく生活を送ることにかけて武芸百般、免許皆伝の腕前ではなかろうかと思っています。更に、この夜は、それらに加えて”庖丁研ぎ”までその守備範囲に入っていることが判明しました。 ”このおっさんは、ひょっとすると僕がこれから興味を持ってやってみようと思うことを、既に、全て自分のモノにしているのではなかろうか?!”、と畏敬の念すら覚えたのであります。

 

 

ドラゴン先生との会食の機会は、僕の卒業後の大きな楽しみの一つです。 僕が現役の時には仕事の話が中心でしたが、最近は、他愛ない話を楽しんでいます。

他愛無いことを真剣に議論する、真面目な話を他愛無くやる、くだらない話を真面目に考える。とにかく会話が楽しい。打てば響く、オモロイ時間を過ごせる。その代わり、オモロ無い話には容赦なくグサッと突っ込みが入ります。

男同士の親しい付き合いでは(でも?)、お互いを称えあいながらも、その実、意識の奥底では、自分の自慢話を相手に聞かせて悦に入ったり、たまには相手を言い負かして内心で快感を覚えたり、はたまた、自分を認めさせようとチョット見栄を張ったり、イロイロと楽しく、切磋琢磨して喜んでいるものです。偶には(滅多にありませんが)相手を慰めたり、心配したりもします。

 ドラゴン先生の方は、卒業後の僕に対して”ボケっと生きてんじゃあねえよっ”と刺激を与えてくれているようにも思います。その分、突っ込みが更にキツイくなっているのかも知れません。

 

 

酒が回るほどに、庖丁談義は盛り上がってきました。

「よく研がれている庖丁はスパッと切れる。キレイに切れたものは繋ぐと元に戻る=見事にくっ付く。ケガする場合も然り、トンッと当たると、既に、指が切れている。そこは慌てずに、切り口を繋げば、すぐに元に戻る、治ってしまう」。

「ホンマかいな。おいおい、刺身の魚くん、”お前はもう死んでいる”と言われても、よく切れる包丁で切られていたら、繋いでもらったら再生するかもよ」。

おじさんの会話も他愛のないものです。

 

 

最近の最大の対立点は、ナント食事についてなのです。ドラゴン先生は、糖質制限の食生活を実践中です。それも、大学の教授だか病院の院長だか、その筋の権威の方の正式な食事療法・指導に基づいた本格的なもの。何事にも真剣に取り組む素直(ガンコ)な性格が功を奏してか、数か月ないし一年程度の食事療法で体重は着実に減少、イロイロな数値も如実に改善していると。”動くのも楽になった、階段の二段飛びなんて屁の河童。食事もお酒も旨い、言いことづくめ”とのこと。

 

 

対する僕は、偏った食事法は体に良い訳が無いと信じているほうです。

”バランスの良い食事をするのが肝要である。そもそも、関西粉モン食文化では、糖質制限などというのは、もはや、文化的な人間の食生活から逸脱している。何を隠そう、僕は、最近、ご飯が美味しい!。この美味しさを味わえることで僕は日本人に生まれて良かったと思うほど。そもそも何か特定のモノを制限というのは、ストレスを生む。ストレスを生じない食生活が大切、腹八分目、腹六分目に全体を抑えればよい。やはりバランスの良い食事、生活が一番大事である。”

これは、僕としては絶対に譲る訳にはいかない重要な事案ですので、激戦の末、この日もドローで終わりました。楽しく歓談をしてお開き、解散。お互い、千鳥足風の軽やかなステップで家路に就きました。

 

 

その時は、開示しませんでしたが、実は、体重がやや増加気味になっているのです。話しなかったのは、もちろん、更に突っ込まれるのを警戒したから。

最近、本当に御飯が美味しいのです。

相変わらず、食事の時にはアルコールを嗜んでますから、オカズ=酒のつまみは、僕の食生活にはマストです。それに加えて御飯が美味しいので、結果的には、体重がやや増加傾向になっているのでしょう。

念のためですが、僕の体重は、過去、数年かけて着実に減少。昨年は、漸く、BMI25以下をクリアーしました。お腹も気持ち凹んだ(はずです)。今年は、更にもう一段の減量をトライ中であったのですが、ここにきて、減少傾向に歯止めがかかっており、逆に反発・上昇の気配。昨対アップが続いているのですが、まだBMIは25以下をかろうじて維持しています。ここが踏ん張りどころと思っているのですが、人に言う割には、腹八分目を継続できるほど意思は強くないもので。スミマセン。

 

 

隠れ家での食事では、「炊き込みご飯」、「炊飯器でピラフ」、「納豆と温泉たまごノッケ丼」、「ご飯と納豆のり巻き」等々を楽しんでいます。新しいレパトリーは最近余りありません。料理をやり始めた当初は、”料理が出来た!”ということ自体を感激して食べていましたが、何回も繰り返すうちに既に料理を作ることそのものの喜びはなくなっており、原点に戻って、”美味しさを追求、チョットひと手間加えて、おおっ旨い!”と感じることを追求しています(書くと大袈裟ですが、実際には大したことはやっていません)。料理といえるかどうか疑問とは思いますが、相変わらず、納豆は大好きです。欠かせない食材の一つです。ドラゴン先生との話の成り行きもありイロイロと工夫してみました。

 

 

その1.久しぶりに『黄身のっけナットドーフ』。かつてのcha師匠のアドバイスを思い出し、ビジュアル重視を試みたのですが。レタスを千切って敷き、豆腐、オカカとシラス納豆を乗せ、その上から刻みネギ、更にその上に黄身のっけ。美味しかったです。ビールにも日本酒にも合います。お腹も結構満足出来ます。豆腐の水切りを良くやったのが良かったと思います。ネギは有次で切りました。図らずも、本日は糖質制限食になりました。2019年4月18日、撮影。

 

 

 

その2.居酒屋ヒデさんの「モッツァレラチーズ冷奴風」。モッツァレラチーズは手で千切ること、生クリームをかけて冷蔵庫で一晩、寝かせること。昆布おかかとネギをたっぷりとのっけて冷奴風に。へべすポン酢で頂きました。日本酒のつまみにグーです。2019年4月18日、撮影。

 

 

その3.僕の創作。『モッツァレラチーズ冷奴風のナットチーズ』 。単に、上の二皿を組み合わせただけですが、結構、美味しかったです。これに”黄身のっけ”しようかと思ったのですが、ビジュアルに不安があり、また、チーズとの相性がいかがなものかと見合わせました。2019年4月18日、撮影。

 

 

オマケ;

ネギを有次で切っているときに指を切ってしまいました。ホントにちょっとトンって当たっただけ。”あっ、やってしもた”と思いましたが、暫くの間、何もなし=血が出てこない。その後、血が滴り落ちてきました。心臓の位置よりも指を上にして血止め。まさかとは思うものの、真剣にその個所を押さえつけて繋いでみました。確かに、今までよりも出血が収まるのが早かったように思いました。気のせいでしょう。完治するのには当たり前の日数はかかったと思います。

 

先日、スーパーで刺身の柵を買ってきて、研いでもらった柳刃を使ってみました。スッとキレイに切れました。確かに、繋げば又くっ付くように思います。その後は、バゲットを3-5㎜程度の細幅にカットするのに使いました。これは形を崩さずに見事に切れました。ちょっと炙ってチーズを載せて食べると旨いです。ワインに絶対に合います。

お魚を捌く事、庖丁を研ぐ事は、まだ、やって(出来て)おりません。庖丁を研ぐ”快感”を体験していない状態が続いています。

 

   バゲットを 柳刃で切り 悦に入り             孔瑠々