クルルのおじさん 料理を楽しむ

「俳句」のお話、その2.

 

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名古屋の隠れ家のベランダから見えるモクレン。朝、ふとカーテン越しに見ると満開でした。一瞬、ボケっと生きてると見過ごしてしまう、と反省しました。気が付いて良かったです。世の中、コロナ騒ぎで鬱陶しいですが自然は力強いですねえ。2020年3月25日、撮影。

 

 

前回の続きです。自分の俳句の”勉強”のつもりでまとめています。よちよち歩きの初心者にお付き合い頂ければ嬉しいです。金子兜太さん著「自分の俳句をこう作っている」の感想です。

 

 

兜太さんは怖そうなお顔に似合わず、後輩の指導に熱心・丁寧であったそうです。あの下重さんが言ってるのですから僕は素直にそう信じています。以前、兜太さんと故日野原さんとの対談の本を読んだことがありますが、その時も、年長の日野原さんをちゃんと立てて真摯な素直な対応をされていて、良い印象が残っていました。また、それ以前に、もっとズーッと前のことになりますが、何かの折に兜太さんの句、

 

  梅咲いて庭中に青鮫が来ている  兜太

 

を読んで大変に驚いたことを覚えていました。”へえー、こんなイメージの景色を俳句に読めるんだわ、凄いなあ ”とビックリして感心しました。その時の解説?には「前衛俳句、云々」と書いてあって、写真を見た時には(多分、その時が、兜太さんを初めて見た時だと思いますが)、”エライ強面のおっさんやなあ、とっつき悪そう””と感じたのですが、この句は僕のお気に入りとして兜太さんの名前とともに記憶に残りました。

 

 

この本の冒頭「文庫版まえがき」には、「いまの(兜太さんご自身の)句作のありのままを伝える気持ちで書いています---所謂、俳句の入門書とは違います」と記載されています。「五・七・五字(音)は、驚くほど強靭で不思議な詩形です。表現の喜びを、おおかたはささやかに、しかし、ときには大きく満たしてくれる”生きもの”でもあります」と。読んだ後には、これが兜太さんのありのままの気持ちなんだと感じるようになりました。例によって、目次を概括しておきますと、

第一章 「実感」を俳句に生かす

第二章 俳句は言葉をリズムで整える

第三章 写生と主観、作句法のあれこれ

第四章 喩え・もじり・なぞり

第五章 ありのままのこころを伝える

俳句の上級者の方が一覧されれば、兜太さんが何を言わんとしているか、これだけで理解出来るんじゃないかとも思います。

 

 

第一章の初めに「有季定型」についての兜太さんの考え方が記載されています。俳句の世界では大半の先生が「季語は『約束』以上の必要条件、五・七・五字の『定型形式』も同様(必要条件)、この二つのうちどちらがなくてもそれは俳句ではない」とおっしゃるそうです。

これに対して、兜太さんは「『有季定型』は俳句の伝統であり約束である、という意見に反対ではない。問題はその程度である。五・七・五字を必要条件とすることには賛成であるが、季語を必要不可欠(な必要条件)と決めてしまうことには反対。『約束』と言うのは、もう少し自由であるはず」とのご意見。

別途、稲畑汀子さんの「俳句入門」の感想も書きたいと思っていますが、確かに、こちらの本には「正しい俳句の条件とは『有季定型』を守ること」と明快に規定されています。イロイロあって面白いなあと思うのですが、兜太さんの記載で面白いのは、「季語は必要条件である」ということに反対しながらも「季語」を高く評価していること。曰く、

「季語には長い歴史がある、そこらにゴロゴロしている言葉より、ずっと味わいがある。季語を捨ててしまうというようなことは、もったいなくて出来ない。捨てるどころか大事に使いたい」との記載がありました。それを必要条件と縛ってしまう、規定されるのには反発されているのでしょうね。一方、兜太さんが「五・七・五字を必要条件とすることには賛成である」と記載しているのには、驚きました。僕が最初に接した兜太さんの青鮫の句!、”これのどこが「五・七・五字は必要条件」やねん。どう数えても五・七・七やないか”。後に記載がありましたが、兜太さんの考えは「俳句の基本は三句体=三つの区分け、と、奇数字(奇数音と言っても良い)」という事のようです。更に「自由律俳句」とか「口語俳句」も否定されている訳ではありません。

  せきをしてもひとり   尾崎放哉

  鉄鉢の中へも霰     種田山頭火

の句に対しても「三句体に読めて、奇数字中心だから、俳句の基本に収まっている。私(ご自身=兜太さんのこと)などは、九字(三・三・三)から二十一字(七・七・七)、時によっては、二十七字(九・九・九)も許容します。」とシャーシャーと記載されていますから、最初に記載があった「五・七・五字を必要条件とすることには賛成である」と言うのも、「五・七・五字を約束である」と理解するのが妥当かなあと。えらいエエ加減なオッサンのようにも思えますが、この方、憎めないですねえ。「有季定型」は俳句の伝統であり約束である(必要条件=規定ではない)、そして俳句の基本は三句体と奇数字(音)である、ということに煎じ詰まると理解しました。

 

「理屈よりも今の生活実感を大切に」、そしてその「実感」を情景の奥に秘める、具体的に「物」をつかむ、そして、その「実感」「物」を生かす言葉をさがす=「生活実感、物、言葉の三位一体」を忘れるな、とのことでした。

 

 

第二章以降では、俳句独特の表現方法について説明もされています。その説明の言葉使いが面白い。「切字」は「断定と余韻を持った省略!」であると。言葉に”キレ”があるなあと思いました。「説明にとどまることなく、響きを出す。言いたことをボンボンぶつけていって、それをリズムで整える」。

「二物衝撃」と言うのは、二つのモノをぶつけて、一つの世界を作り出す方法のことを言うそうです。これも「切字」が重要な役割を果たすと。例句として、僕の大好きな芭蕉の句を取り上げて説明がありました。

 

  荒海や佐渡に横たふ天の川   芭蕉

 

「『荒海』と『佐渡に横たふ天の川』の二つのモノが、切字『や』で結びつけられている。これは『ぶつけられている』と言う方が正しい状態である」と。この句は迫力のある句ですよねえ。これを生み出しているのが、切字「や」、であると指摘されると”なるほどなあ”と改めて感心・納得致しました。

 

 

おさらいになりますが「発句を独立させて、これを俳句と名付けたのが正岡子規」、そして、「その弟子の高浜虚子が十七字と季題という拘束を設けて、俳句は有季定型なりと規定した」と。「規定の良し悪しはべつにして」と兜太さんはよくよく拘束とか制約とかには反発されているようですが、虚子の功績は高く評価されていました。虚子が「十七字という定型の形式をはっきりさせたこと」に対しては最大級の評価。虚子がこれを現したのは大正3(1914)年のことだそうです。虚子の句、

 

  流れゆく大根の葉のはやさかな

 

について「この句こそ、十七字の形式なしには存在しない」と。季題の規定には強く反発しながらも、俳句の形式を明確にした虚子を高く評価されているようです。

 

 

さらに、「俳句は十七字を基準とした定型詩なり」=「俳句は韻文なり」との主張を強くされています。桑原武夫が昭和21(1946)年に「第二芸術ー現代俳句について」で俳句・俳壇を批判したことに関しても、「(俳壇に安住している)党派性に甘えている大家・中堅をこっぴどく叩いたのは有意義」と評価する一方、「この論文の最大の欠点は、俳句を散文扱いしたところにある」と厳しい指摘をしていました。

 

 

第三章は、いよいよ「写生」と「主観」について。 

子規が「何よりモノをよく見る、見たものを描き取る」と言ったこと、それを更に虚子が「写生」「客観写生の技」に昇華させたことを紹介して、「虚子のいう『客観写生の技』、私(兜太さん)の言い方では『描写』に熟達することが俳句の第一歩であり、俳句の基本である」と。

 

  桐一葉日当たりながら落ちにけり  虚子

 

を例にとり、「葉に日の当たるさまを見てとった」ところがポイントであることを「見るだけでなく見つける」、その客観性が素晴らしいことを説明しています。説明がお上手なので納得できるのですが、理解は出来ても自分で見つけられるのか大変に重く難しく感じてしまいますね。この辺り以降になると、読んでいて理解が正しく出来ているのか、分かったような気分になっているだけなのか、不確かになる件が多々出てきます。残念ながら、僕の今のレベルではついていけない話なのかも知れません。

 

兜太さんは、写生だけではなく主観を加えることを自然に、当たり前に大切なことである、と言っていると思うのですが、「物とか主観とか区別してあれこれ考えたりいじくったりしているうちは、まだ序の口です」と言われると、”いやあ、まさにその通りなんでございましょう”、としか突っ込めなくなります。

「景色に主観を加えようとするとき、それによって、景色がふくらみ変化しないといけません。逆に景色が縮んで小さくなるときは、主観そのものがつまらないものなのか、加え方に工夫がたりないのか、そのいずれかです。そこにご注意を。」と丁寧な(難しい)ご指導が記載されていました。下重さんが兜太さんのことを熱心・丁寧な指導者と言われるのはその通りだと改めて思いました。問題はその指導を理解できるか、自分のモノにできるかということなんでしょう。その人の技量と感性が問われることになるんでしょうねえ。

 

  

本題とは関係ないですが、面白いと思った件を紹介しておきます。第四章では「本歌取り」を「もじり」と「なぞり」に分けて説明されているのですが、中村草田男の句、

  降る雪や明治は遠くなりにけり  草田男

の本歌の一つが、

  獺祭忌明治は遠くなりにけり  

であることを紹介しています。読んだ後で”そういえば、昔、この話は聞いたことがあった”と思い出しましたが、獺祭忌は正岡子規の忌日で明治35年(1902)年9月19日のことだそうです。兜太さんがこの句を引用したのは、「本歌取り」の説明のためなのですが、僕は、この時にずっと疑問に残っていたことの一つが解決出来て、大変にスッキリした思いになりました。

 

今や、人気の日本酒「獺祭」ですが、もう何年も前このお酒が出回り始めた頃の話です。立派な料亭で会食の機会がありました。「今、人気のお酒です」と恭しく席にもってこられました。”難しい名前のお酒やなあ”と思いつつ”どこかで見た言葉やなあ”と思ったのですが記憶は蘇りませんでした。会食の席では「獺=カワウソが採った魚を川岸に並べる様を、先祖への供物と見立て祭儀になぞらえた」とのウンチクをお聞きして”なるほど”とそのまま理解しておりました。今回、再認識出来たことは、子規が自分のことを「獺祭書屋主人」と号していたのでした。そのことから、正岡子規の忌日は獺祭忌と呼ばれるようになっていた。お酒の「獺祭」はこれも掛けたネーミング、”そうやそうや、これやこれ”、昔のかすかな記憶の謎が解けた、大変にスッキリした思いでした。

 

 

第五章では、「俳諧」とは何か、について書かれています。「『滑稽』と言われたり、『意外性』と言われたり、『アイロニー(反語性)』などとも言われ、いまだに決定論が無い」とのことです。中国古辞書に「俳、戯也」「諧、和也」とあることを原義とすべきとの説があり、兜太さんもその説に賛成とのことで、兜太さんは「俳諧とは、戯れ和するための言葉の工夫=心情を伝えるための工夫のすべて」と受け取っているとのことです。

江戸期に入り、俳諧は二つの流れに。一つは、川柳への方向=世事風俗をそのままの姿で、面白おかしくとらえていく方向。いま一つは芭蕉の生き方。芭蕉は「俳諧」を「詩」として庶民の中に定着させる努力とした、との見方です。面白いのは、二つの相反した道の合流点に、兜太さんは「小林一茶の世界をおいています」と。

この本の最後は「俳諧は、自然に極まる、と言い切っても良いのです。いや、俳句を書くということの行きつく先もここにある、と言い切っておきたい」と締め括られていました。

 

 

文庫版150頁の小さな本なのですが、中身がテンコ盛りで、お腹がいっぱいになりました。早く消化しないと、句が出てきそうにありません。改めて、兜太さんって面白いオッサンやなあと思いました。やはり、俳句は奥が深い(当たり前か)。僕自身は、二つの流れの”面白おかしい世界”の方に行ってしまうのではと自分が心配になりますが、いま少し、努力を続けてみたいと思っております。自然体で楽しむことを大切にすれば良いはずですよねえ。

 

 

世の中、コロナ大騒動が続いています。山中先生の話では長期戦を覚悟して日常生活を設計していく必要があるとのことです。ワクチンが出来上がるまで、ダマシ騙しでも感染しない生活を維持していきたいものです。鯱城学園は3月に続き、4月いっぱいも休校となります。皆さまもくれぐれもご自愛のほど。

 

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名古屋市西区にある「ノリタケの森」公園。恒例の陶器市に行ったのですが、大騒動のお陰でこれも中止となっていました。残念。のんびりと周辺を散策して帰りました。洋食器で有名なノリタケ、創立100周年の記念事業として2001年にオープンした公園です。名古屋駅から徒歩で行けるところで、今、更に大規模な開発計画、テーマは「美しい名古屋の本命に!」が進行中のようです。2020年3月22日、撮影。

 

 

「俳句」のお話

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名古屋市東山動植物園の正面玄関。日曜日の昼過ぎなのに入場者はやはり少な目です。園内の屋内施設は閉鎖されているところが多い様です。ここまで隠れ家から桃源寺、おちょぼ稲荷を経由(大回り)して45分程度のウオーキングです。ここから動物園周辺の東山公園1万歩コースに挑戦しました。2020年3月15日、撮影。

 

 

今年に入り俳句に再度、挑戦中です。小さなノートを買ってきて作った句を書き残すようにしています。それから、NHK俳句という月刊誌を1月号から買って読むようにしました。同時に番組を録画して見ています。日経新聞の俳壇の欄を切り取ってメモしたり。はたまた、本棚にある(昔買った俳句の)本を読み返したり、本屋さん巡りして面白そうな本を新しく物色したりしています。このところ、幸か不幸か家で一人でいる時間をたくさん確保出来るようになっていますので、読書量も一気に増えました。

 

 

今のテーマの一つは、俳句作りそのものとは別に、どうすれば俳句作りを楽しむことを持続させることが出来るか?。我ながら変なテーマだと思うのですが、考えてみると、今までにも何回か俳句に興味を持ったことがあったのですが、その都度、継続することが出来ず、中途半端に終わってしまったことの繰り返しです。淡白というのか、飽きっぽいだけなのか、エエ加減な性格のせいなのか。

 

 

旅行で初めての景色を楽しんだ時とか、何かの出来事に感激した時、はたまた、日常生活の中で季節を感じて新鮮な気持ちになった時に、その感動、感激を残しておきたい、感じたことを素直に句に書き留めておければ楽しいなあ、と極めて単純な気持ちで俳句を作ってみたいと思うのですが、いつも尻切れトンボで終わっています。感動する気持ちが持続すること自体が難しいようにも思いますし、句になるような感動を探そうとすることにも疲れてしまう。自分の感動発掘能力の低さ加減が嫌になってしまう、ということでしょうか。

 

気持ちの盛り上がりがピークアウトした後で考えると”そりゃそうだろう、自分の身の回りに感動・感激がゴロゴロしている訳が無い。毎日、句を作り続ける気分に欠けることになるんやから継続出来ないほうが当たり前や”と自分を慰めておりました。

 

 

NHK俳句の3月号に面白い記事がありました。何回目かの目から鱗かも。「お悩み相談室」。この種の雑誌によく有る、読者からの相談・質問・悩みに先生が答えている欄です。回答者は岸本尚樹さん。2018年度のこの番組の選者の方。質問は「俳句を毎日作りたいが、感動の無い毎日です」。まさに僕の尻切れトンボの気持ちそのもの!。

先生の回答は「俳句は感動の結果ではなく、俳句を詠んだ結果、感動するもの。---感動のない毎日だからこそ、感動するために俳句を作る。---感動とは別なところで俳句で遊ぶことを面白がる。---句にしてみたら面白かった、そういうものを毎日探すことを私は心掛けています」とのことでした。

 

 

理屈っぽいですが根が単純な僕は、この回答に痛く感激「そうそう、そうなんや。これ僕の思っているテーマの答えですわ、ありがとさん」。と思った時に、”昔、同じような気持ちになったことがあったなあ、ブログにも書いたことがあったはずや”ということを思い出しました。  

 

 

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もう三年も前の記事ですが、小川軽舟さんの『俳句と暮らす』を読んだことを記事にしたものですが、いま読み返しても結構まともなことを書いていたように思います。その時々の気持ちを書き残しておく、というのは大切ですね。ブログを継続していてよかったなあ、と思いました。

僕の俳句のテーマは「平凡な日常を俳句で遊ぶ」ということにしようと思っています。

 

 

一人で俳句を作り続けるというのも味気ないので、どうするのがいいのかしらと思いつつ、新しく見つけた本を読みました。「俳句、はじめました」、岸本葉子さん、角川学芸出版、平成22年(2010年)1月初版、同年3月再版発行。著者は1961年生まれのエッセイストで、ご自身が俳句を始められてから、句会に入り吟行に参加して席題にも挑戦、まさに俳句を楽しみながら研鑽を積まれていく様子が生き生き楽しく描かれています。なるほど、こういう続け方が正統派の道なのかとよく理解出来ましたが、逆に「これはアカン、僕にはとんでもなくハードルが高すぎる。その場でそして限られた時間内に何句も作るなんてことはマズ無理や。これは心臓に悪い。」と思ってしまいました。

 

 

句会への参加が難しいと感じてしまう時、それでは他にどんな方法があるのかしら?。NHK俳句の放送を見ている時に、はたと思い当たりました。”そうか「投句」すればよい。これは良い方法だ。自分の自由なタイミングで一方的に提出すれば良いのだから、自分勝手な性格にも合致するやり方だ”と思い当たりました。

調べてみましたら、NHK俳句はパソコンから投稿できることが分かりました。4人の選者の先生の兼題に対して一回に一句しか投稿出来ませんが、平均すれば週に一句を投稿することが出来る。

日経俳壇は週に一回の掲載。葉書一枚に三句まで書いて投稿することが出来ます。兼題は特にない様子。選者はお二人なので最大一週間に6句までを投稿することが出来ることになります。

 

 

気合が充実している時にやろう、”考えこめば出る時は無し”。早速、NHK俳句に二句、日経俳壇に二句、投稿しました。 

その後、NHK俳句の放送を見ていたら、進行役の女性の一人が、先ほどの「俳句、はじめました」の著者、岸本葉子さんであることに気がつきました。さらに、先程の「相談室」の窓口役にも登場されていました。面白い繋がりです。「俳句、大好きの岸本葉子です」とにこやかに挨拶されていました。やはり楽しんで続けることが一番ですね。

 

 

本屋巡りして見つけた別な本です。『この一句---108人の俳人たち』、著者は下重暁子さん。大和書房、初出2013年3月、文庫版2016年12月第一刷発行。下重さんは、以前、このブログで記載したことがありますが、僕の高校の先輩です。

 

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下重さんはエッセイ、評論、小説等々、分筆活動でご活躍されていることは重々承知しておりましたが、俳句にも造詣が深いことは知りませんでした。この本は、江戸・明治・大正・昭和から、戦中・戦後、そして現代に亘る108人の俳人たちの俳句を彼女の感性で選んだもの。現代俳句の章には金子兜太さんの句も収められていました。筆者コメント欄に、「兜太さんが後輩の指導にも熱心であったこと、そして『各界俳人三百句(金子兜太編)』に自分の句が三句とりあげられたことがどんなに嬉しかったことか」と抑えめながらも情熱的に記載されているのが印象に残りました。

 

 

今、金子兜太さんと稲畑汀子さんの本を読んでいます。

●「自分の俳句をこう作っている」、金子兜太著。講談社α文庫、初出は1997年12月、2001年7月第一刷。

●「俳句入門‐‐初級から中級へ」、稲畑汀子著。PHP新書、1998年7月第一刷、2001年5月第四刷。

 

金子兜太さんは1919年の生まれ。前衛俳句運動を主導、現代俳句協会会長を務めた方。2018年に逝去されました。2月20日が命日です。 一方の稲畑汀子さんは1931年生まれ、ご存じ高浜虚子のお孫さん。日本伝統俳句協会の会長さん。

俳句が「有季定型」と言われていることに対しての、ご両者の考え方が拝見できて面白いです。また、別な機会に書いてみたいと思います。

 

 果たして、今回は、俳句を作り続けることが出来るかな。僕の俳句ノートのタイトルは「続くかな?」としております。前回のブログからチト間隔が空きました。コロナで連日、大騒ぎが続いていますが過度に委縮しないで生活を楽しみたいと思っています。皆さま、くれぐれもご自愛くださいます様に。

 

 

おまけです。まずは桃源寺です。  

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名古屋市千種区にある桃源寺。地下鉄本山の交差点から名古屋大学方面に向かい表通りからチョット入った処にあります。それほど広くない境内ですが、こんな大仏像があります。仏像が10m、台座が5m。名古屋大仏と言われるそうです。意外と地元の方も御存じの無いスポットかも。この色彩はインパクトがあります。台座の象さん、お坊さんも特色があるかと。この辺りは高低差が激しい場所なので、周辺の建物(マンション等)があまり気にならないアングルで写真を撮ることが出来ます。桃源寺は、織田信秀の菩提を弔うために信行が建てたお寺とか。信秀は信長のお父さんですから、今年の大河ドラマでそのうちにこのお寺が紹介されるかも知れません。隠れ家からのんびり歩きで25分弱の処です。2020年3月15日、撮影。

●2020年3月22日、追記。お寺の名前を間違えていました。正しくは、桃巌寺、です。それから、このお寺は大仏も有名なのですが、「眠り弁天」というお宝がもっと有名のようです。一見(一触?)の価値ありの様です。chaさんからご指摘を頂きました。


続いて、おちょぼ神社(名古屋支所)です。
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 有名な木曽三川の「おちょぼ稲荷」=千代保稲荷神社の名古屋支所です。先ほどの桃源寺から名古屋大学方面に向かい大通りを左折した辺りにあります。 支所ですが、立派な佇まい。初午の時には、会社の皆さんと一緒に参拝に来ました。隠れ家からのんびり歩きで35分程度のところ。2020年3月15日、撮影。

 

 

「大豆」のお話

エンドウ豆の苗木が成長して花を咲かせています。鯱城学園「文化祭」園芸4班で皆さんに配布した苗木、二鉢を手元に残して隠れ家のベランダで育てています。背丈は1mほどになりました。無事に実を付けてくれるかな?。2020年3月5日、撮影(「大豆」のお話なので「豆」つながりで)。

 

 

「大豆」の本を読みました。『大豆と人間の歴史』、クリスティン・デュボワさん著、和田佐規子さん訳、築地書館、2019年10月31日初版発行。376頁のハードカバーです。

 

 

「大豆の会」というのがあるのです。昔むかし仕事で「大豆」に関与していた方の集まりです。メンバーは、総合商社=丸の内の二社と青山にある商社。鎌倉河岸にある製粉・製油メーカー、日本橋穀物問屋、大阪の業界誌等々、各社OBの集まりです。最年長の長老さんは85-86歳くらいかと思います。1950年生まれの僕が最年少。古本屋街で有名な神田神保町の中華料理屋で四半期に一度ほど集まって旧交を温めています。皆さん、お元気でお酒大好きの人が多い。商社マンの平均寿命は各社とも低くて60歳プラスだと思います。若死する方が多いことが原因と言われていました。逆説的に言えば、それを乗り越えた方は通常の方よりも元気な方が多いかと、僕の持論です。まだまだ現役の活動をされている方が何人かいらっしゃいます。長老の方が海外出張も含めて活動範囲がいちばん広いように思います。いまだに世界を飛び回ってらっしゃる。

 

 

本年度初めての集まりを今月(3月)末に予定していたのですが、コロナ大騒動で中止・延期になりました。残念なことですが、お元気とはいえ皆さんの年齢を考えれば適切な判断だと思います。落ち着いたら、また、改めて日程のすり合わせをやらねばと思っています(僕が日程の連絡調整役をやっています、”若手”だから)。

 

 

前回の集まりは、昨年の11月でした。皆さん、大変なキャリアの方々ですから話題は豊富です。国際情勢、政治経済、スポーツ・芸能、健康・病気。話好きな方が多いので、あっという間に時間が過ぎてしまいます。この時、ちょうどこの大豆の本が出版された時で皆さんの話題になりました。「大豆」には特別な思い出を持っている方々の集まりですから、当然、関心は高いようでした。自分たちが経験した歴史的な出来事も記載されているのではないかと。

 

 

1972年から1973年にかけて、日本では「大豆パニック」と言われる大騒動があったのです。その遡る数年前から、世界の穀物・油糧種子の需給が逼迫、旧ソ連による穀物・油糧種子の大量買い付けが引き金となり、大豆・穀物相場が暴騰。”日本で必要な大豆を輸入することが出来なくなる、豆腐が食べられなくなってしまう”と、1973年の初めには「豆腐騒動」が起こりました。商社・問屋が原料の大豆を売り惜しみをしていると悪者扱いされて、国会で各社のトップが参考人質問に立たされてしまうほど。1973年6月には米国ニクソン大統領が大豆の輸出規制を行うなど、とんでもない混乱が広がった時代だったのです。僕が入社したのが1973年ですから、ちょうど入社前後の話ですが、周りが大騒ぎしているのは理解していましたが、その仕事をしている当事者としての実感は全くありませんでした。この「大豆の会」に出席されている先輩諸氏にとっては大変な毎日であったと思います。皆さん、当時、大変に苦労された方ばかりです。

 

 

この会の時点では、まだ、この本を読んだ方はいなかったようでした。僕も注文はしていましたが、その後、届いた後も本棚に積んだままにしておりました。この2月後半以降、コロナ大騒動で会食等の集まりの大半が中止・延期となっています。僕も不要不急の移動を止めるようにしています。我が家のヘッドクォーターであるカミさんから、新幹線乗車も避けるようにとの「要請」が出されました。すでに3週間ほど隠れ家での単身生活を続けることになっています。幸か不幸かまさに晴耕雨読の毎日です。料理を楽しみ、ピアノの練習も出来て、畑に行く回数も増えました。そして、読書の時間もたっぷり。本棚で寝ていたこの本を読みました。

 

 

著者は、ジョンズ・ホプキンズ大学の大豆プロジェクト前研究部長とのことです。年齢不詳です。目次を一覧すると本の内容を概括できると思いますので、以下に記載しておきます。 

 

序章  隠された宝

第一章 アジアのルーツ

第二章 ヨーロッパの探検家と実験

第三章 生まれたばかりの国と古代の豆

第四章 大豆と戦争

第五章 家畜を増やす飼料となって

第六章 大豆、南米を席巻する

第七章 大豆が作る世界の景色

第八章 毒か万能薬か

第九章 大豆ビジネス、大きなビジネス

第十章 試練の油---大豆バイオディーゼル

 

第九章辺りになると、元商社マン・大豆担当、実務を知っている人間として、邦訳に注文を付けたくなる(突っ込みたくなる)件がたくさん出てきます。表題の通り「大豆ビジネス」は本当に「大きなビジネス」で、カバーする範囲も多岐に亘っています。畑から消費地までの物流のダイナミックさ。伝統的な豆腐等の食用大豆としての消費需要があれば、片方では油と粕を採るための製油会社向けの需要があります。大豆油と大豆粕に分ける製油工場での工程の流れ、価格(相場)体系の指標となる商品先物市場の仕組み等々、この業界の専門知識・専門用語が沢山出てきます。翻訳の方も大変に苦労されたこととと思いますが、餅は餅屋ですから、「大豆」業界の方に業界専門用語を相談されればよかったのにと思うところが散見されました。

 

 

以下、知らなかったこと、面白かったことを中心に抜粋します。例によって僕の備忘録として記載しています。お付き合い頂ければ嬉しいです。

 

 

この本の副題には「満州帝国・マーガリン・熱帯雨林破壊から遺伝子組み換えまで」と記載されています。日本人にとっては、昔から、豆腐、納豆、味噌(それから枝豆も)に親しんでいるお陰で、作物のなかでは最も身近なものの一つと思いますが(これは我々世代の思い込みなのかも知れませんが・・)、世界の方々、特に欧米の方々にとっては新しい作物であったようです。戦争が切っ掛けで、大豆の価値=タンパク質リッチな食品であり、油と飼料となる粕を採れる重要作物であることが広く認識されたようです。

 

 

序章の一行目から、いきなり日露戦争「1904年、203高地の攻防」の話が出てきたのには驚きました。「(満州の)大豆は紛争の火種となった」と。そして、西洋世界が大豆の有用性に出会ったのが日露戦争だという見方です。

大豆の栽培が新大陸(アメリカのこと)で盛んになるのは20世紀に入ってからのことですが、第一次世界大戦(1914年~1918年)前後には既に栄養失調の子供たちに豆乳を与えようとの研究が進んでいたとも。

 

自動車王のヘンリー・フォード自動車産業だけでなく「農産化学」の分野でも革新的な事業を展開していたそうです。1934年のシカゴ万博では、大豆由来の発明を展示して100万人をこえる入場者を記録した由。当時は、牛乳が結核・その他のバクテリアの温床だと考えられており、フォードの研究チームは豆乳の生産向上を目指す研究を行っていたとのことです。また、大豆油を自社製自動車の塗料製造に利用するとか、大豆プラスチック製のギアノブ、アクセルペダルを作ったとか。1936年にはタイム誌はフォードを「大豆の親友」と呼んでいたそうです。フォード社の工場は、アメリカが戦争に入ると全て軍需製造に転向して、大豆を利用する仕事からは手を引いた。その研究、大豆加工の設備・製法は他社に売却され、フォードは大豆との関係を終わらせた訳ですが、国全体でみれば、これが(大豆産業の)大きな始まりにつながったとのことでした。全く、知らなかった話でした。

 

 

第六章の「大豆、南米を席巻する」には、大豆パニックが切っ掛けとなって、日本がアメリカに代わる供給国としてブラジルでの大豆栽培、調査研究に支援を行ったこと書かれています。1972年から1973年にかけてのペルーでのアンチョビ不漁、アメリカ政府の大豆輸出を中止したことが記載されていますが、旧ソ連穀物・油糧種子の大量買い付けの記載はありませんでした。やや片手落ちではないかと思っています。「大豆の会」の先輩諸氏が読まれれば、”いやいや、そうではない。ここは間違ごうとる。あれは、こうやった”と議論百出かと思われます。

 

とにかく、南米での大豆生産は急速に増加。日本の協力支援とブラジルの努力により、1970年には(たった)150万トンだったブラジルの大豆生産量は、2015年には(ナント)約1億トンにまで増加したとのことです。 

 

以前、マイケル・ポーランが「雑食動物のジレンマ」の中で大規模単作農業に警鐘を鳴らしていることを紹介しましたが、この本でも、南米での大豆の生産拡大によりアマゾン流域を中心とする熱帯雨林の破壊に繋がっていることに厳しい指摘がなされています。「人間の最も破壊的な活動、さまざまな生命体に最も有害な活動は『普通の農業』(大規模単作農業のことですが)なのだ」との記載もあります。

 

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さらに大豆については、遺伝子組み換え作物であることの懸念が多々指摘されていることについても詳細な記載があります。大豆は作物のなかでも遺伝子組み換え(以下、GE)種が作付けされている割合が最も大きく(2016年、世界の大豆の作付け面積の約80%はGE種)、また、大豆は世界中のGE作物の作付面積の最大の作物(2016年には50%)とのことです。著者は科学者の立場から、指摘されている懸念に真摯に向き合い、逆に科学的でない言いがかり的なモノには厳しく反論をしています。フェアな記述を心掛けていることが感じられます。

 

 

栄養価の高い大豆を救助物資として利用する、所謂、「支援プロジェクト」についても、「支援プロジェクトにより、極度の貧困による劣悪な栄養状態を大豆の栄養価により和らげることが出来る」としながらも、一方では、食料・大豆の継続的な援助は、その地域の農業そのものをダメにしてしまう恐れがあること。また、その土地で大規模単一作物が広がれば小規模農家は追い出され、自給自足の多種の作物の栽培を継続することが難しくなり、結果として貧困層の食料の安全が脅かされる懸念についても丁寧に説明をしています。

 

 

著者は大学で大豆プロジェクトの部長をしていた方ですから、決して、大豆に対して否定的な見方をしている訳では無く、科学者としてのフェアな見方に立って記述していると感じられます。熱帯雨林の破壊の問題点を、もっぱら北半球・先進諸国が指摘することに対して、「何故、南米にばかり環境保護を押し付けるのか」とか「アメリカ中西部を元のバイソンが動き回っていたような環境に戻そうという努力をしないのか」という視点からの記載もあります。大豆の生産の拡大(がもたらす問題)という観点からは、「食肉になる動物の飼料として使わない方法、すなわち、大豆という作物を人間が食料として消費すること」を考慮すべき、という考え方も紹介しています。

 

大豆に対する筆者の基本的な捉え方は「単一栽培、遺伝子組み換え、有害な化学肥料の使用、地表の浸食、淡水の枯渇、気候変動等々、現実的、潜在的な問題が提起される。--中略--しかし、これが大豆の宿命だとするのは検討違いである。農業が及ぼす破壊的な効果はていねいな研究と創意工夫により軽減されうる。--中略--問題は我々が自然界を保護するためにどれだけの努力を行うかにかかっている」ということのようです。

 

 

いやいや、昔むかしお世話になった「大豆」のお話でしたが(原書のタイトルは「The Story of Soy」でした)、懐かしく楽しく読めたところ以上に、重たい記述が随所にありイロイロと考えさせられる読み応えのある本でした。コロナ大騒動のなか時間が十二分に取れて、読書する体力・気力があったから一気に読むことが出来たのかも知れません。改めて表紙の帯を見ると「大豆が人間社会に投げかける光と影、グローバル・ビジネスと社会・環境被害の実態をあますところなく描き出す」と書かれていましたが、その通りの内容の本でした。 

 

 

そう言えば、1973年10月には「中東戦争」が勃発して、石油パニックも起こりました。改めて、大変な「大騒動」の年だったと思います。当時、スーパーの店頭からトイレットぺーパーが完全に無くなりました。供給は十分なはずなのに、消費者の買いだめが原因と解説されていました。

昨日も今日も、散歩がてら近くのスーパーに立ち寄った時、店員さんに”トイレットペーパーはどこに置いているのか”と尋ねたら、”売り切れ状態です、次の入荷はいつになるか分りません”との返事でした。一部では「買占め」の動きも出ているそうです。僕がノンビリし過ぎなのかもしれませんが、半世紀ほど経過すると、社会の学習効果は持続するのが難しくなってくるのかも知れません。

 

 

平和公園を散歩している時に。シラサギ君??が疎水を遡りながら一生懸命にエサをつついていました。僕が近づいても全く意に介していない。よほど腹が減っていたのか、それとも、この地は安全だと決めつけているのか。何となく”春が近いなあ”と感じます。2020年3月1日、撮影。

 

 

おまけです。お題は「味噌もやしラーメン」(=「大豆」繋がり)なのですが、春菊、ネギを大量に投入したら、もやしの存在感が薄くなりました。インスタントラーメンをベースにして好きな味噌を加え、野菜炒めをのっけて食べてます。ラー油と擦りゴマも加えて。春菊がラーメンに合うことを発見して大喜び。2020年3月7日、料理と撮影。盛り付けが下手(下品)で美味しそうに見えませんが・・・残念。

名古屋の景色・鯱城学園の講座、そしてコロナ

 名古屋市・栄にある「名古屋オアシス21」。公共・商業の複合施設です。「水の宇宙船」と言われているそうですが、今まで認識がありませんでした。お隣の愛知県美術館のある文化芸術センタービルの上階から展望して初めて理解出来ました。空中に浮かぶガラスの大屋根がシンボルとのことです(下の広場を通行しているだけでは余りピンときません)。右奥は改修中の名古屋テレビ塔です。2020年2月11日、撮影。

 

この日、2月11日(火)は「8クラブ展」の初日でした。この展示会は、鯱城学園の書道、水彩画、水墨画、写真、陶芸、絵手紙、パソコン、パソコンペイントの8クラブのクラブ員が作品を出展するもの。中区区役所の名古屋市民ギャラリーの7階展示場で五日間、開催されました。時間があったので、すぐ近くの愛知県美術館でやっている「日展」=第6回日展・東海展と「コートールド美術館展」を見てきました。仲間の友人が「日展」彫刻の部で特選を受賞したとのことで見に行こうと思っていたのですが、同じ場所でやっている「コートールド」が面白いとのアドバイスをもらったので両方見ることにしたものです。

 

日展」の作品レベルは素晴らしいものでした。残念なことに「彫刻」は展示スペースと作品の数・大きさがアンバランス、特選をはじめ多数の力作がトコロ狭しと並べられている状態、窮屈そうで可哀そうでした。「コートールド」は予想以上に良かったです。ゴッホ、モネ、ルノワール、マネ、モディリアーニ、ゴーガン等々。昔、見て印象に残っていた点描で色の彩を表現する画家の名前がスーラであることを思いだしたり、楽しく時間を過ごせました。

 

いつもの事ながら「コートールド美術館」というのがナニなのか知らずに出かけたのですが、コートールドさんはイギリスの実業家の由。化学繊維事業で財を成し、1920年代に、当時はまだ高い評価を受けていなかった画家たちの作品を自分の目で選んで収集したそうです。エライ人ですね。ロンドンにある美術館ですが、今や、この美術館は”イギリスが世界に誇る印象派、ポスト印象派の殿堂”と言われているとか。三月中旬までやっているはずですから、まだご覧になってない方にお薦めです(と言っても、今週に入ってからのコロナ大騒動が心配ですが)。

 

 

8クラブ展は、お陰様で盛況のうちに終了しました。5日間、パソコンクラブの展示室へのご来場者だけで1,200人以上(多分)。最終日の15日は、作品を撤去し会場を掃除してから、クラブの仲間と打ち上げをしました。土曜日の夜でしたので、お酒が好きで時間がある人は宴会モードに。僕も含む三人のおじさんは、夜の11時ごろまで熱心に反省を続けました(ワインを飲んで楽しく歓談しました)。今思うと、この時は、まだコロナ云々が無い平和な時で良かったなあと思っています。

 

 

前回以降の鯱城学園の講座内容を記載します。例によって僕の備忘録として書いてます。お付き合い頂ければ嬉しいです。

 

 

2月19日(水)、共通講座。お題は「ユニバーサルデザインとは」。

E&Cプロジェクト名古屋代表、名古屋芸術大学デザイン領域非常勤講師の小塚武志さんが講師です。講義を聴く前には、「ユニバーサルデザイン」というのは”トイレマーク等、万人が理解できる分かりやすいデザインのことかな”という程度に考えているだけでした。講義は奥が深い内容でした。僕は全く認識が不足しておりました。

 

講義を開始する前に、空のシャンプーボトル、牛乳パックが場内に回覧されました。そして小塚さんから「ユニバーサルデザインは、最近では小学校の教科書にも紹介されています。意外と大人、特に年配の方で知らない人が多い」との説明が。まるで僕に向かって話されているような口ぶりです。

 

E&Cプロジェクトでは、聴覚障害視覚障害の方や車いす生活の方の「日常生活の不便さ」を調査して「共用品」デザインを開発する活動をされています。健常者には気づきにくい、これらの方々の日常の不便さを見出す。「従来は、モノに合わせて暮らす時代であったが、今後は、障碍者、高齢者への配慮の時代に変えていこう。バリアフリーから更に進めて、共生・共創することが出来る時代、更には、身体的障害を個性として捉える時代にしていこう」というものです。 

 

回覧されているシャンプーボトルを手に取ると容器の側面にチョットした凸の列が付けられていました。リンスの容器には付いていないそうです。風呂場で視覚障害の方が触っただけでシャンプーとリンスの区別を瞬時に出来るようになっている。当然、ほぼ全てのメーカー製品にこの凸列が付けられている。このプロジェクトが貢献した一例だそうです。同じく、牛乳パックの注ぎ口のところには、凹の切込みが入ってました。これも牛乳とジュース等をパックの注ぎ口に手を当てるだけで区別が出来る仕掛けです。全く知りませんでした。自分の認識の無さに恥ずかしくなりました。

 

持ちやすい形の器、見やすいデザインの書体、指をケガする可能性の少ない俎板、等々の紹介がありました。健常者が考えもしないところに不便がある、それを見出して解決していこうという考え方、まさに目から鱗のお話です。

 

 

「IBOT」という4輪駆動の電動車イスを紹介されました。アメリカのベンチャーの製品ですが、プロモーションビデオを見ると、まるでSFの世界の乗り物と思うほどです。普段は4駆の普通の車イスなのですが、立っている健常者と話す時には、4駆が2駆に変わって車イスが立ち上がる!。まさに四つ足動物が二本足になるイメージで車イスが立ち上がり健常者と同じ目線で話が出来るようになる。そして、誰の助けも無しで車イスのままで階段を上り下り出来る。同じく、バスにも乗り降りが出来る。技術的には実用化にもう少しのところまで来ているそうです。一時はスポンサーが不在となり頓挫する懸念もあったそうですが、トヨタグループが協力することになった由。

 

勿論、大変に高価な車イス(数百万円はするそう)ですが、講師の方に言わせれば「車イス生活の方からすれば有り金をはたいても是非欲しい商品であろう」と。”そうだろうなあ、自分がもしそうならば何としても欲しいと思うだろうなあ”と感じました。

 

講師の方がこれを紹介した意図は別にあって「技術的な問題が全てクリアーされて商品化されることになっても、日本では道路交通法がネックになって実際に表の道路で使うことが出来ない。そして、法制上の改正をしていこうという機運・方向付け、準備が出来ていない、ということが問題だ」とのご指摘でした。不便を解決していくためには、ハード面だけではなくて、ソフト面のフォローが同時並行して必要であることを強調されていました。

 

 別な例として「補助犬法」のお話をされました。盲導犬聴導犬介助犬のことを補助犬というそうですが「障碍者の方からすれば、補助犬は自分の体の一部も同然だが、過去の長い間、レストラン等々に入る時には補助犬を一緒に連れて入ることが出来なかった。漸く平成14年(2002年)に「補助犬法」が成立して一緒に入ることが出来るようになった。しかし、今でも、まだ日本ではその理解・認識が十分では無いと懸念される」と。補助犬が居てくれても、現代社会では法令を含む環境整備が整わなければ役に立たなくなってしまう、ということなんですねえ。

 

 講義の最後には「街で見かけるヘルプマーク(マタニティマーク等々)は、その人が助けが必要な立場であること表現するマークですが、最近は、助けを必要とする人は声をかけてください!ということを表現するマークを付ける運動が進んでいる」ことを紹介されました。

東京大学の学生さんが立ち上げたプロジェクトだそうで「エンパワープロジェクト」と呼ばれているそうです。「協力が必要な時はお声を!」かけてください、ということを意味するシンボル・マーク「マゼンタ・スター」を身に着ける。協力する側が表に出ていく=「協力者がカミングアウト」する運動とのことです。この運動のことも全く知りませんでした。

 

レジメの最後に「やはりハード面だけでは解決できない問題はハートが解決」と記載されていました。やはり最後はハートが大切!、大変に印象に残る言葉でありました。今までの講義のなかで一番重たい内容であったと感じております。

 

 

久しぶりのお弁当。収穫した野菜をふんだんに入れました。ちゃんとロマネス”コ”も使っています。冷めてもサクサクして良い食感です。そして最近、私はますます玄米ご飯にハマっております。白米を加えず「やわらか玄米」100%で炊きました。2020年2月19日、撮影。

 

 

同日、午後の園芸講座です。

お題は『桜と花見の文化史』。今日の講師は日本樹木医会・愛知県支部樹木医・庭師の尾関宗弘さん。園芸科の専門講座も充実しています。三学期に入ってから「ガーデニングと椿」、「梅と椿」、そして今回は「桜と花見の文化史」=サクラに焦点をあてた講義となりました。

 

尾関さんから「私は花見大好き人間です」との自己紹介がありました。前々回の「梅」の講義の時には桜との対比をしながらの講義でしたが、今回もやはり「梅」との対比から。

まず「桜は、梅とは違って『日本原産』の植物」であると。サクラの種類は野生種と園芸品種とを合わせると300種類以上もあると言われているそうで、学者の間でも分類については意見が分かれるところも多いとか。野生種のなかで鑑賞の対象として重要なものは、ヤマザクラ群のヤマザクラ、オオヤマザクラオオシマザクラ、カスミザクラ。エドヒガン群のエドヒガンザクラ。カンヒザクラ群のカンヒザクラがあると。園芸品種としては総称として”サトザクラ”と尾関さんは呼んでいるそうです。ソメイヨシノもこの範疇に入ります。ややこしいですが、日本原産と言っても「種」は遥かネパールが起源となっており人類発生以前に日本に辿り着いていたという意味だそうです(難しい)。

 

文献上、サクラが登場するのは奈良時代のこと。記紀万葉に登場しています。詳しく万葉集に登場する植物の頻度ベストテンの説明がありました。①ハギ(138)、②ウメ(118)、③マツ(81)、中略、⑧サクラ(42)。ウメの登場回数が多いのは、この時代は中国の文化的影響が強く、中国から移入されたウメがサクラよりも詠まれた回数が多くなっていた、との説明でした。

 

花見のルーツについてです。これは面白い考察でした。

縄文時代、サクラはすでに「材」として利用されていたそうです。古代農耕が始まるとサクラの開花は田植え、種まきの「農事暦」して利用され、花見は娯楽ではなく農耕儀式であった。

●古代から中世にかけては、「観梅」から「観桜」に転化していく時代。812年、嵯峨天皇神泉苑で桜花の下で宴会をしたとか、仁明天皇(在位833-850年)の時代、京都御所の「右近の橘、左近の梅」の「梅」が「桜」に変えられたとか、そして、900年代になると、桜を詠む歌が梅を上回ったそうです。

この時代、歌に詠まれた桜とは「吉野の山桜」を対象としたもので、吉野山金峰山寺に参詣する人々がサクラの苗木を寄進する習慣ができ、それが伝承され名所化して「一目千本」の景観が生まれたとのことです。

---中略---

●現在のような花見が行われるようになったのは、江戸時代八代将軍徳川吉宗(在位1716-1745年)の時代。それまでは、いわゆる「一本桜」の花見で、寺院等に散在する名木を参詣がてら鑑賞するという形態であった。吉宗さんは1717年に100本の桜を墨田川東岸に植えさせたり、品川の御殿山、王子の飛鳥山にも大量の桜を植えさせたそうです。やがて桜の開花のころになると庶民が集まり飲食をともにするようになったと。

●この時代の桜は、ヤマザクラエドヒガンザクラが中心で、サトザクラも花見の対象となっていたとのことですが、イロイロな品種があることで、花見の期間は一か月ほど、ずっと花が絶えない状態が続いていたそうです。現在のソメイヨシノ一色の花見では高々10日ぐらいであるのとは極めて対照的であったと。

 

 

 ソメイヨシノという品種は雑種なので、その種子が取れても親と同じ性質にはならない。ソメイヨシノを増やすには挿し木か接ぎ木ということになる。すなわち、ソメイヨシノという種は”クローン”=日本国中のソメイヨシノは全て同じ樹であるとのことです。葉よりも先に花が豪華に咲き、散り際の良さも日本人好みである。園芸的にも活着しやすいので次第に広がっていった。現在のソメイヨシノのサクラの名所は戦後の高度経済成長の時代に爆発的に拡散したものであると。開花情報が出せるのも、均質なクローン植物ならではのことだそうです。

映画・TVで、「遠山の金さん」や浅野内匠頭切腹の場面の背景にソメイヨシノが映っているが、あれはオカシイ。ヤマザクラでなければダメである、とのことでした。

 

 

その筋の日本文化の研究では、今の花見の形態は上野から始まるとされており、花見の要件には三カ条があると。すなわち、①一本ではなく群のサクラを見ること、②詩歌ではなく飲食を伴うこと、③一部の階級では無く、多数の群衆で行われること。

花見大好きな尾関さんとしては、昨今、サクラの保護とは言え、飲食を禁止する花見の場所が増えてきていることを大変に危惧しているとのことでした。江戸、明治の時代、もっとゆったりと花見をしていたであろうことを羨ましく感じておられました。こういう楽しい講師さんとは、是非、花見の時節にゆっくりと講義を聴きながら一緒に飲みたいものだと思いました。

 

 

この次の講座は、翌週の2月26日(水)でしたが、すでにコロナで大騒ぎしておりましたので、大ホールでの共通講座のほうは「自主休講」としました。午後の園芸講座には出席しました。「洋ランの楽しみ方」、ご存じ吉田篤さんの講座で大変に面白かったです。

その後、昨日になり「来週以降、休校とする」旨の案内が通知されました。年度末の行事もほぼ全て取り止めです。日本国中、大騒ぎになっています。パニックにならず、冷静に対応するしかないと感じています。皆さま方もくれぐれもご自愛のほど。最後までお付き合い頂きありがとうございました。

そう言えば、今日は四年に一度のうるう年の日、でした。次のうるう年の日はどうしているでしょうか、楽しみです。

 

 おまけ;吉田さんの講義で。

右が洋ラン=カトレア。ポッドに入っていたものを、教室で吉田さんのご指導の下に各自で水苔を回りに捲いて素焼きの鉢に植え替えたもの。水は少なめに育てる。冬も10℃以上で管理すること。 

左はクリスマスローズ。水はけ良く植え込みをすること。春先は日当たり良く、夏は木陰かヨシズで遮光する。植え替えは秋に行う。鉢植えは1-2年に一度、株分け植え替えをする。アルカリ性の土壌を好むので、石灰、卵の殻を入れる。

写真のクリスマスローズは「ピコティ」という種類です。白に赤の縁取りが特徴とか。株分け出来るまで上手く育ってくれますように。2020年2月26日、撮影。

『21世紀の人類のための21の思考』

名古屋の隠れ家のお隣の沈丁花。今にも開花しそうです。2020年2月19日、撮影。

 

    冬曇り満を持したり沈丁花    孔瑠々 

 

2018年3月にこの沈丁花の満開の写真を掲載していました。隠れ家に移ってもう2年になるんですねえ。”早いもんや”。 

 

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ハラリさんの三作目の本を読みました。「21世紀の人類のための21の思考」、2019年11月、初版発行。友達から薦められ、やはり買ってしまいました。ハラリさんのことは何回も書いています。以前のブログをザッと読み直したら、最初の「サピエンス全史」を読んだのは2017年2月頃というのを再認識しました。もう3年ほどのお付き合いになっています。「ホモ・デウス」の時もそうでしたが、今回も同じく心配が先に立ちました。作品を重ねるに連れて、内容が面白くなくなる=二番煎じ、同じようなことをクドクド言っている等々、読んで失望することになると嫌だなあと。ハラリさんに対する高い評価を落とすことがないことを祈りたい。今回の本は、タイトルからして「21Lessons」、”なんか今までの繰り返しになっているのでは”てな気がして、買って読むのをかなり躊躇しておりました。

 

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読んでみての感想は?。はい、良い意味で完全に裏切られました。僕ゴトキが余計な心配をする必要は全くありませんでした。それどころか、いままでの二作は、この三作目を書くための下拵えであったかと思えるほどに内容の充実したものでありました。「はじめに」の章で著者が記載していますが、最初の「サピエンス全史」は人間の過去=人間が如何に地球を支配する動物に上り詰めたのかを描いたもの。二作目の「ホモ・デウス」は、生命の将来=神の領域に上り詰めるような存在になり得るのか?に警鐘を鳴らしたもの。そして、今回の三作目「21レッスン」は、現在に焦点をあてて書かれたものです。

 

 

現在に焦点をあてていると言っても、ハラリさんの視点は、歴史学者として長期的な観点にたっています。その軸にブレはありません。また、この作品は「歴史の物語ではなく、一連の考察として意図されていて、読者がさらなる思考を促し現代の主要な議論に参加するのを助けることにある」と位置付けています。そして、この点が僕は”なるほど!”と感心するところなのですが、グローバルな観点に立っての課題の認識、問題の指摘が素晴らしく良く出来ています。

 

 

現在がかつてない平和と繁栄を謳歌していることを高く評価しているのですが、その一方では、生態系の崩壊、大量破壊兵器の脅威、そして、技術的破壊に曝されようとしていることに大変な危機感を持っています。そして、今までオールマイティであった「自由主義、民主主義、はたまた、哲学も宗教も科学も解を見いだせない」ことを鋭い切り口で指摘しています。

技術的破壊とは、テクノロジーの発達により、職、伝統、制度、機関が喪失したり破壊したりする、混乱と無秩序を招く急速な変化のこと。ハラリさんが言うテクノロジーとは、情報テクノロジー(IT)とバイオテクノロジー(BT) 、その双子の革命のことを意味しています(訳者さんの註)。 

 

 

そして、これら21世紀の課題=生態系の危機、技術的な破壊は本質的には全てグローバルなもの。国を超え、宗教・文化を超えて、地球規模の問題になっている。そのようなグローバルな難題への対応には、グローバルな協力が必要なのに、今に至る国家ナショナリズム、それぞれの宗教・文化のせいで、かえって協力が難しくなっている。これらの問題に対して、国家、国の制度・仕組みは答えを見いだせていない。また、従来の哲学、宗教、科学は揃って時間切れになりつつある、との誠に的を得た指摘がされています。

 

 

 邦訳を読んだあとでですが、興味があったのでペーパーブックの原書をアマゾンで注文しました。届くのには10日ほどかかるとのことでしたが、実際には4-5日で隠れ家に送られてきました。配達料は別途負担でしたが、アマゾンってホントに便利ですねえ。

原書のタイトルは「21 Lessons for the 21st Century」、邦訳のタイトルは「21世紀の人類のための21の思考」となっていますが、改めて”上手い訳やなあ”と感心しました。

 

 

この本は目次を見るだけで内容のイメージが湧いてきます。邦訳と原書の目次それぞれを並べて見るのも面白いです。本の構成は以下の五部構成になっています。

第一部(Ⅰ)テクノロジー面の難題(the technological challenge);ℒ1からℒ4まで

第二部(Ⅱ)政治面の難題(the political challenge);ℒ5からℒ9まで

第三部(Ⅲ)絶望と希望(despair and hope);ℒ10からℒ14まで

第四部(Ⅳ)真実(trush);ℒ15からℒ18まで

第五部(Ⅴ)レジリエンス(resilience);ℒ19からℒ21まで

原書の本文は318頁、邦訳では392頁でした。丁寧な翻訳になっていると思います。

 

 

面白い記述、印象に残る言葉を抜き出しておきます。

●ℒ11;戦争(war)。「人間の愚かさを決して過少評価してはならない(never underestimate human stupidity)」・・・最近、肝に銘じたいと思っている言葉です。

●Ⅲ;絶望と希望。「人類は恐れに己を見失わず、もう少し、謙虚な見方が出来れば(if we---be a bit more humble about our views)うまく対処できるだろう」

●ℒ12;謙虚さ(humility)。「あなたは世界の中心ではない(you are not the centre of the world)」・・・この本を通じて西洋文明、一神教ユダヤ教イスラエル人に対する批判的な記載が多く出てきます。このℒ12でもユダヤ教を例にとって説得力のある厳しい指摘をしています。原理的な方々の反発を誘ってハラルさんが不慮の事故に遭遇することが無いことを祈りたいと思います。

●ℒ19;教育(education)。「変化だけが唯一不変(change is the only constant)」

 

 

冒頭の「はじめに」で「個人のレベルをないがしろにするつもりはない」と記載されていますが、それどころか、第三部以降は、個人のモノの考え方・・・意識、心、人生の意味、謙虚さ、そして、瞑想まで、個人の一人ひとりが考えておくべきことが書かれています。この本は、読者の個々人レベルのこと=それぞれがどう生きるか、に重点を置いたものと言えると思います。

あえて突っ込めば、”グローバルな問題を解決するためにはグローバルな協力が必要であるのに、現在の国家、宗教・哲学等はその答えを示すことが出来ていない”と指摘しておきながら、あたかも”個人一人ひとりがその思考を高めていくことが大切だ”ということで終わっているような感じがします。

”これでは答えになってまへんでえ、ハラリさん。”

ハラリさんにも「解」になるようなグローバルな世界の仕組みが、まだ見えていないからなのか、はたまた、次作以降のお楽しみ、ということなのか、楽しみであり気掛かりなところですかね。

 

 

耳慣れない、直ぐに理解出来ない難しい言葉もありました。 

●ℒ14:「世俗主義」(Secularism)。国家の政権・政策・機関が特定の宗教権威・権力に支配されない。宗教権威・権力から独立した世俗権力(俗権)とその原則により支配されるべき、という考え方(ウィキペデイアの受け売りです)。ハラルさんの認識として、世俗主義が理想とする重要な価値観は①真実、②思いやり、③平等、④自由、⑤勇気、そして、⑥責任であると。 

 

●Ⅴ:「レジリエンス」(Resilience)。元々は物理学の用語だそうです。ストレス=外圧による歪み、に対して、「外圧による歪みを跳ね返す力」のことをレジリエンスと。精神医学では「極度の不利な状況に直面しても正常な平衡状態を維持することが出来る能力」と捉えられていると(同じく、ウィキペデイアの受け売りです)。

第五部「レジリエンス」の見出しには「昔ながらの物語が崩れ去り、その代わりとなる新しい物語がまだ現れていない当惑の時代をどう生きればいいのか?」と記載されているのですが、そこにℒ19「教育」、ℒ20「意味(人生の意味)」、ℒ21「瞑想」の章が設けられているのが何やら暗示的ですかね。

 

 

ハラリさんの個人的なことも開示されています。巻頭の言葉「我が配偶者イツイク(と母、祖母)に愛をこめて」。最終の謝辞「配偶者でマネージャーのイツイク、本を書くこと以外の全ては「彼」がやってくれる」。原書では、my husbannd、my spouse、と表現されていました。

アメリカ大統領選挙でも、民主党の若手の注目候補、ピート・ブティジュッジさん(38歳)が、spouseの「彼」と仲良く登壇している姿が映し出されています。民主党の候補者は、ほとんどが70歳超の高齢者、現職のトランプさんも高齢者。年齢だけで選ぶものでは無いでしょうが、もう少し世代交代は進む方が良いかと思ってしまいます。この最年少の候補者さん、健闘して欲しいですね。

 

 

ハラリさんが瞑想の効用を重視しているのは知りませんでした。最終ℒ21;「瞑想」(Meditation)で詳細に記述されています。今でも毎日2時間瞑想し、毎年一か月か二か月、瞑想旅行に行くそうです。「瞑想は現実からの逃避ではない。現実と接触する行為だ。瞑想の実践が提供してくれる集中力と明晰さが無ければ(過去の2作は)書けなかっただろう」と。「心」と「脳」は全く別なモノであり、今までのところ「心」がどのように表れるのか全く説明できていない、との記述があります。また、この前の章ではブッダの教え=万物は絶えず変化している、との記述も。何やら「心」の持ち様が東洋的?、日本人的?なところが多くありそうな。訳者の柴田裕之さんがあとがきで書いていますが「著者はもともと、日本人にとって親しみやすい存在かもしれない」ですね。

 

 

ハラリさんは1976年生まれ、今年で44歳(のはず)。まだまだ著作は続くものと期待されます。次作はどんな「心」を表してくれるものやら、今から楽しみにしたいものです(出版されても、暫くは、買わないかも知れませんが)。

 

 

鯱城学園、三学期の講座

名古屋市千種区平和公園。雨上がり、久しぶりに散歩しました。まだ、冷っとしていますが、間違いなく春は直ぐそこまで来ているように感じます。2020年2月16日、撮影。

 

 

鯱城学園の三学期、 1月29日(水)から2月12日(水)の三回分の共通講座と専門講座の要約を試みます。他の記事を書いていると(他の記事も書きたいので)、時間が無くなりそうになってます。かなり駆け足で端折った要約になるかもしれませんが、僕の備忘録として記録を残しておきたいと思っています。ご了承のうえ、お付き合い頂ければ嬉しいです。

 

 

鯱城学園、2020年1月28日(水)、共通講座です。

お題は『名古屋城本丸御殿 障壁画の復元』。講師は、日本画家の加藤純子先生。日本画のジャンルのなかには「古典模写」というのがあるそうです。加藤先生は、既に30年近く名古屋城本丸御殿の障壁画の復元模写に携わり指導を続けておられる方。今年で72歳になられるそうですが、いつもの事ながら鯱城学園の講師の方がお若く感じられること(姿勢も声も)には驚いてしまいます。

 

名古屋城はご存じの方も多いと思いますが、日本の国宝第一号(第二号が姫路城)でした。その国宝が昭和20年(1940年)5月14日に米軍の爆撃により焼失。漸く、平成4年(1992年)に障壁画の復元事業がスタートとしたそうです。本丸御殿そのものの復元も実現し、現在では「復元された本丸御殿の調度として建物のなかのあるべき姿で、一般見学者の鑑賞に供せられている」と説明されました。

 

復元模写とは「原本資料に忠実に原本に肉迫すること。本丸御殿は極めて水準の高い狩野派の名手が手掛けたもので、その精髄に肉迫するのは大変に高いハードルがある」と強調されていました。これはレプリカでは無いと。「模写作品は400年経過すれば現在の原本のようになる」という説明が面白かったです。使用画材も可能な限り400年前と同じものを使うそうです。絵具は比較的入手が簡単だそうですが、素材の中で復元が難しいののは”料紙”であると。手漉き和紙の「簀桁(すけた)」を作る人がいなくなっている、そして和紙を漉く人がいなくなっていると。科学調査をして可能な限り和紙を復元して漉いているとのことでした。

 

舞台上の大きなスクリーンに本丸御殿に飾られている復元作品を映し出して見どころポイントを説明されました。「ここを見なければダメですよ!」と気持ちが入りすぎてついつい強要するような口ぶりになっていましたが、それだけ真剣に向き合って作業をされているからと感じました。

  

現在もまだ復元の作業は継続されており、全てが完成するにはあと更に10年はかかるであろうとのことです。その時に先生は82歳になっていると仰っていましたが、この先生であれば最後の完成の時まで元気にご指導を続けられるであろう、それを祈念したいと思いました。

 

昨年、仲間と本丸御殿の見学に行ったのですが、いま思えば”ざあっ”と見ただけでした。是非、もう一度じっくりと拝見してみたいと思います。前回、見学に行った時の記事と、その背景の記事を参考までに埋め込んでおきます。

 

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その日の午後、園芸科の講座です。お題は「椿と梅」。講師は園芸家の塚本周作さん。この前の園芸講座で「一子侘助」を吉田先生から分けて頂いたところだったので興味深く聴講しました。

まずは「ウメ」から。塚本先生はかなり垢抜けた方なのか、ウメにまつわる面白い言葉・表現からお話をされました。

 

●「梅に鶯。ここから思い浮かぶ情景は何ですか?。花と鳥、はい「花札」ですね」とか。

●「梅ヶ枝の手水鉢。茶庭の袖ヶ香。」・・・この辺りの言葉使いになると粋な日本文化に接してないと俄かには理解出来ない、説明してもらわないと分かりませんでした。茶庭では梅が 手水鉢に覆い被さるように植えられていることが多いそうですが、昔の人は経験的にウメの葉(花)の殺菌効果を知っていた、との見方もあるそうです。

●天神様は「梅紋」、加賀藩家紋は「梅鉢」だそうです。全く知りませんでした。

●塩梅=梅の身が不可欠であったが故の料理言葉、味加減のことですね。これは僕も百も承知!でした。

 

お話が続きます。ウメは、長崎出島に来たドイツ人シーボルトにより西欧に紹介されたことで海外では日本的な植物として知られているそうですが、奈良時代以前に薬用で遣唐使によりもたらされたという説が有力とのこと。また、万葉集に詠まれている花の中では、サクラよりもウメのほうが詠まれている数が圧倒的に多いと。当時は花と言えばウメのことだったとか(ちなみに一番多く詠まれているのはハギだそうですが)。さらには、昭和の初期、サクラとウメのどちらを日本の国花にするかで論争があったと。ウメ派は”ウメこそ寒風に立ち向かう忍耐と覇気がある、高潔な美しさである”と主張した由。先生はウメ派の主張も共感できる、とのことでした。サクラについては薄墨サクラ、江戸彼岸サクラは寿命が長いものの、ソメイヨシノは60-70年程度の寿命であり、かつ、サクラは同じ場所で続けては育たないことを心配されていました。

その後、ウメの植え付け、管理等々のお話を頂きましたが、ここでは割愛。ウメの特性としては、①排水が良く、日当たりが良いところを好む、②強剪定に耐え、樹齢は長い、③移植は老樹でも比較的容易、とのことでした。

 

ようやく「椿」がテーマに。ツバキって、英語でCamellia(カメリア)なんですねえ。知ってるようで知りませんでした。”カメリア”って何か別な花と思っていたような。恥ずかしい限りです。僕が関心の高い栽培についての話を記載しておきます。

 

●ツバキの特性、①水はけの良い土壌が好ましい。粘土質より軽い赤土、黒土が適している。②庭植えも鉢植えも苗のうちは強い光を嫌うので、半日陰で管理する。③植え付けの時期は春と秋。④増殖は実生、挿し木、取りき、接ぎ木のいずれも可能。

●花付きを良くするコツ、①花芽は、春に伸びた新梢の先端と葉脈に、6月ごろに作られる(夏に再伸長する枝には花芽は付けない)。この一か月だけ、根が水不足になるように管理すると花芽が多く形成される。②鉢植えでは、この一か月、水遣りをうんと控えめにする。③庭木は(2-3月ごろに)スコップで根切りすると効果が顕著。

●剪定、①基本的には花後すぐか、9-10月に軽く剪定する。②かならず、すかし剪定を併用する=空間を作ることが大切(これも、花が終わったらスグに)。③花芽は6月ごろに作られるので、5月に剪定しても萌芽しない、もしくは、萌芽しても花芽を持つ枝をつけない。

●おまけ:チャドクガ(=病虫)に刺されたら、固形石鹸を細かく粉状にしたものを塗ると効果あり。

 

 

続いて、2月5日(水)の共通講座です。『みんなで歌おう!!歌声広場』。ラウム・ソングリーダーの内田公仁子さんに指導いただきました。伴奏のピアノは鈴木弓さん。ソングリーダーの方は、声楽でソプラノをされている方。豪華なドレス姿で颯爽と登場され会場からは大変な拍手。ラウムというのは名古屋市にある歌声サロン=むかし懐かしい歌声喫茶のようなもの(と思います)。誰もが知っている、ピアノ伴奏で楽しく歌える歌集を配布して頂き(これは残念ながら講座終了後には回収されてしまいました、止む無しですね)、みんなで大きな声を出して歌をうたいました。歌と歌の間には、内田さんの楽しいお喋りあり、講座の真ん中では我々の休憩を兼ねて、内田さんのオペラ独唱もありましたが、テンポのよい進行に乗せられて、つぎから次に歌いっ放しの状態でした。もともと学園の皆さんは、参加型のイベントが大好きな方が多く、また、大きな声を出してみんなで一緒に歌うことは体に良いことだと理解されてますから、皆さんノリノリの大盛況のうちに、あっという間に終了時間になってしまいました。一時間半みんなで一緒に歌っただけですが、会場全体の一体感が高まったように感じました。

 

 

声を張り上げて歌を歌ったおかげで腹ペコ状態に。この日の前夜、久しぶりに飲み過ぎたためこの日はお弁当の準備が出来ておりませんでした。園芸科の仲間は弁当持参が多いので、パソコンクラブの仲間に合流して近くのお店でゆっくりとお値打ちの食事を楽しみました。午後は、園芸科の講座『タネを播こう』です。

 

 

『タネを播こう』、講師は園芸研究家の横田直樹さん。「最近では、苗を購入して育てることが普通になってきており、種子を播いて育てるのは専門の園芸農家さんに限られるようになってきている」との話からスタートされました。種が大手種苗会社の独占になりつつあり一代交配の改良品種が増えていること、また、苗の生産者が増加してホームセンター等で苗を安価に購入することが出来るようになったためと。確かに、そう言われればそうだと思います。神奈川の家の庭では、球根を植えただけでした(そういえば、永良部のユリは元気に今年も育ってくれています)。あとは、苗木を買ってきて植えたのがほとんどです。園芸科に入ったおかげで、学園の畑でタネを播くことを経験させてもらっていますが、確かに苗もたくさん利用しました。素人からすると苗を植える方が(その後の生育に対して)安心感が高いように感じます。

 

横田さんは種子の面白さに注目されています。「種子にはイロイロな遺伝情報が詰まっている。かなりの確率で親とは異なったものが生まれることがある。園芸の最大の楽しみは、既定のルールに乗らないものをみつけることにある!と言っても過言ではない」と。「”種を播く”ということが、我々の想像を絶する様々な秘密やトリックがあることを、是非、学んでください!」という趣旨のお話でした。聞いている限りでは面白そうに思いますが、果たして僕に出来るかどうかはかなり疑問に思います。

 

サクラソウ、モモ、エビネからクロマツ、ネギ・タマネギ、ナデシコまで駆け足でしたが、合計20種類の種子のお話をして頂きました。大変に申し訳ないことに、前夜の夜更かしとお昼の美味しい食事により、この日の僕は珍しく幽玄を彷徨う世界に入っていたようで、メモを取っているつもりが後で見ても良く分からない状態になっていました。

 

 唯一、記憶に残っているのが「ヤマコウバシ」のお話。庭園樹として人気が高い樹種ながら発芽率が極めて低いのが特徴だそうです。「平和公園には一本だけ、育っていますよ」ということでした。平和公園は、冒頭の写真がそうですが僕の大好きな散歩コースの一つなので、この件の時だけは脳が活性化したのでしょう。あんなに広大な公園のなかで一本の木を見つけ出すのは(多分、僕には)至難の業だと思いますが、次回以降、探しながら歩いてみたいと思っています。ネットで調べてみたら、広島の植物園のおじさん(館長さん?)は、冬に枯れても葉が”落ちない”ことを受験と結び付けて、ヤマコウバシの葉を入れたお守りを作られたと。受験生の間で大評判となっている由。ヤマコウバシ=山で香ばしい、からの名前だそうです。受験生の皆さんは、とにかく、頑張ってください。

 

 

あと一日分です。最後の力を振り絞って(簡単に)。

2月12日(水)、共通講座。お題は『アンチエイジングから長寿へ』。講師は愛知みずほ大学の土田満教授。この先生は69歳、僕の席から見る限りではホントにお若い。小顔・痩身、声もやや高めながらよく通る声。このタイトルの講義をするのには最適な風貌かと思ったところ、ご本人も自覚されているようで「遠目には若く見えますが、近くで見てもらえれば、”ああっ、そんなもんか”と言われますよ」と謙虚におっしゃっていました。大変に面白い先生でしたが、このテーマは鯱城学園の鉄板ですので、重複するところは端折って(かなり疲れてきましたので)、新鮮に面白かったところを中心に要約しておきます。

 

何故、人間は「老化」するのか、科学的にはまだハッキリと分かっていないそうです。消耗説、神経内分泌説、遺伝子支配説、フリーラジカル説、カロリー制限説等々。分からない中でアンチエイジング=老化を進めない(抗老化)と若さを保つ(抗加齢)の方法は結構見えてきていると。今までの講座でも説明がありましたが、改めて、食事、運動、睡眠、ストレスを抱えない生活、が有効であることを説明して頂きました。最近、園芸科の畑ではホウレンソウ、小松菜、ブロッコリーが収穫のピークを向かえていますが、これらは全て「葉酸」リッチなので大変に良し!とのことでした。収穫物を完食したいと思っています。

 

また、笑いは、作り笑いであっても笑い顔をして声を出せば効果があると。気になる体形は「小太りで良いんですよ」と慰めてもらえましたが、一方では「20歳代の時の±5㎏が良いんです」とか。20歳代でも前半か後半かで(結婚前か、結婚後かな)下手すると10㎏近くは違っていますから、アドバイスは明確にしてもらえると安心できますね。

 

それから「新しい刺激!を感じることが大切です」との話がありました。日野原さんが「(新しいことを)創める」ことを大切にされていたことを久しぶりに思い出しました。通勤、通学等で毎日歩く道を別なルートに変えるだけでも効果があるそうです。

 

最後に、1921年スタンフォード大学の教授が行った有名な調査の話。夫婦の寿命の調査結果についてですが、「男性にはかなり影響が見られたが、女性は、夫と離婚しても、夫に先立たれても、寿命にはほとんど影響はなかった」とのことでした。会場からはヤンヤの拍手、学園の皆さん=男性も女性も全ての方が納得して頷いておられたように思いました。

 

 

この日の午後は、仲間と一緒にバスで農園に行きました。畑に行くときには弁当は準備しないようにしています。収穫物を持ち帰るのに出来るだけ荷物を少なくしておきたいから。お昼は仲間と一緒によく利用する近くのお店で牛丼を食べました。これで二週間続けて、お弁当作らず、でしたから次回はまた是非作ってみたいと思ってます。

 

      

 

左がこの日の収穫物。緑の野菜がいっぱい。ビニールに入っているのは、近くの農家さんの格安トマト(を買ったもの)、そして優しい班長さんがご自分の農園で収穫されたお裾分けを頂きました、レモンとミカンです。

右は帰ってから料理したもの。授業を聞いた後だったので「葉酸」を食べようと疲れた体に鞭打って捌きました。ブロッコリーの蒸したん。右の色の濃いのが一度収穫したあとの株に育った小さなブロッコリー。ブツブツのある色が鮮やかなのが、小ぶりの品種。名前が出てこない。いずれもホクホクして旨い(何も付けないでも)!。2020年2月12日、撮影。

 

  

おまけです。 

 2020年2月15日(土)、撮影。久しぶりに宗次ホールに演奏を聴きに行きました。「冬の日のおとぎ話」と題して、四人組のマリンバ演奏です。皆さん、愛知芸大の卒業生。お昼の一時間、1000円でクラシックの世界を楽しむことが出来ます。

宗次ホールの近くの歩道には黄色の花が並べられています。オーナーの宗次さんが長年ずっと自らの手で育てています。黄色は宗次さんのシンボルカラー。よく見てもらうと中央分離帯に沿って鉢植え・地植えの花が続いているのが見えます。大変な数の花。エライ人です。

この日は、鯱城学園の「8クラブ展」の最終日。午後は僕の当番だったので、お昼に宗次ホールに顔を出してからすぐ近くの会場に足を運びました。8クラブ展のことは、また、改めて記載したいと思っています。

最後まで、お付き合い頂きありがとうございました。

 

ピアノのお話

豊田市美術館漆芸家の高橋節郎館。作品「漆塗のピアノ」です。年に何回かは実際にこのピアノが演奏に使用されるそうです。是非、聴いてみたいものだと思っています。モッタさんのお気に入りのスポット。2019年11月24日、撮影。ちょっと古い写真ですが、今回はピアノのお話なので・・・。以前の記事を埋め込んでおきます。

 

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 YouTubeのその映像を見た時には、正直、ビックリ仰天しました。漁師のオッサンがフジコ・ヘミングを前にして「ラ・カンパネラ」を演奏している。フジコさんも最初は心配そうな顔つきでしたが、オッサンが演奏を始めると驚いた様子、彼女の表情が目に見えて変わりました。

 

佐賀県のノリ漁師、徳永義昭さん、59歳。全くピアノを弾いたことが無かった徳永さん。ある日、偶然にフジコ・ヘミングの演奏を聞いて大感動!、”この曲を自分で弾いてみたい”と思い込んだそうです。音大を出ている奥さんに話したところ、頭からバカにされたと。「あんな難しい曲、音大出の私でも満足に弾けないよ。あんた、楽譜も読めないでしょ。頭がおかしくなったんじゃないの!」と。ところが、このオッサンの思い込みは大したもので、この奥さんのコメントにもめげること無く、却って奮起。

それ以降、一日7~8時間、 YouTubeのピアノ鍵盤の動画を見て、一音一音、画面に鍵盤が表示されるのをなぞって、目と指と体とに覚えこませたそうです。それを続けること丸7年。丸7年、全てをカンパネラ一曲に注ぎこんで、この難しい曲を弾きこなすことが出来るようになってしまったとのです。

 

明石家さんまの「あんたの夢をかなえたろ!」という番組で紹介された話です。一月、僕が受けているピアンレッスンの時に先生から教えてもらいました。先生も興奮した面持ちで「こんなことが起こり得るんですねえ!」っと。

 

昔むかーし、大江健三郎安部公房の小説で、主人公の男性だった(その友達かな?)と思いますが、クラッシクの名曲を一曲だけ、その一曲だけはプロも顔負けの腕前で演奏することが出来る男の話が挿入されていました。小説の内容は全く覚えていないのですが、この寓話?だけは妙に頭に残っていて、僕がピアノを習い始めた時に、”そういえば、そんな小説があったなあ”と思い出したことを思い出しました。現実のレッスンは、そんなに単純、簡単なものでは無く、ある程度の年齢になってから初めて鍵盤に触れるというのは大変な͡コトです。指も固まっている、脱力なんて簡単には出来そうにない。体力も無くなっている、今日はトコトン時間をかけて練習するぞ!と意気込んでみても、悲しいかな、座っているだけでも疲れてくる。集中力も途切れがち、一時間が限界かも。記憶力も低下している、前日に覚えて、出来たと思ったことが、翌日になってみると頭に残っていない。”あの小説は、あたりまえやけど、やっぱ小説の世界なんやっ”と寂しく納得しておりました。

 

そこに、このオッサンの登場です。改めて、YouTubeを見ると、さんま(関西人は関西の芸能人に対しては何故か”さん”付けをしない。さんまさん、スンマセン)の番組の前にも、ご自分(orご家族)がYouTubeに投稿された画像もあり、地元の新聞でも大きく報道されているようでした。ご本人の表情がすごーく自然体なのが気持ちが良い。「練習量、やる気、この二つだけは誰にも負けないつもりです。マル7年かけてここまで来ました」と晴れ晴れとした顔で佐賀弁(多分)丸出しでお話されていました。ご本人は「フジコ先生を前にして演奏を聞いてもらえるなど奇跡の遥か先の奇跡です」と謙虚にかつ喜びを満面に表して話していましたが、僕からすると、そして僕のピアノの先生からも、多数の一般視聴者の方からも、”このオッサンの7年、このオッサンの存在そのものが奇跡やろ!!”と称賛したくなります。フジコ・ヘミングさんも「良い指をしてますねえ。ピアニストの指ですよ。あなたの人間性が音に伝わっています!」と最大級の賛辞を送っていました。

 

ラ・カンパネラはリストの最難解な曲と言われています。リストはご存じの通りラフマニノフと並び称される名ピアニストにして名作曲家。ラフマニノフさんのことは以前のブログに書いた通りですが、大変に大きなそして柔らかい手を持っていたそうですが、リストさんもピアノの魔術師と称賛され、どんな曲でも初見で弾きこなしたそうです。あまりにスピード感のある演奏に「指が6本ある!」と言われたとか。リストが先達で1811年~1886年ラフマニノフ1873年~1943年です。ちなみに、調べてみたらラフマニノフ作曲にも「鐘」というタイトルの曲がありました。

 

この放送のあと、日本国中のあちこちでリストの「鐘」が鳴り響いているような気分になっています。このオッサン物語の感動は多くの人と共有したいものだと感じました。

 

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2月に入っても予想通り(期待通り)食事会が続いています。2月3日には、ドラゴン先生、モッタさん、ウナル役員と新年初めての反省会。名古屋テレビ塔の近くにある老舗の鶏鍋屋さんに。ドラゴン先生が珍しく遅刻されたので、最初は三人で歓談。モッタさんは引き続き僕のブログを読んでくれていて嬉しい限りでした。映画の話、そして、俳句の話。モッタさんは20年以上も俳句を続けていて、名古屋で句会にも参加している由。「俳句は季語と切れ字が命である」との一家言の持ち主です。俳句は僕も興味を持っているので、そのうち句会に空きが出れば誘って頂きたくお願いをしました。モッタさんの厳しい入門審査があるのかなあ?。

 

ようやくドラゴン先生も参戦。会話が一気に盛り上がりました。僕はカンパネラのオッサンの話を紹介しようと温めていたのですが、すっかり放念したまま。途中、お手洗いに席を外した時にようやく思い出しました。”そうや、忘れてた。今日は、これを話しに来たんや!”。席に戻るなり、三人が別な会話で盛り上がっているところに乱入、「実はですねえ、今日は、是非に聞いて頂きたいお話が・・・」。一瞬、改まって話を始めたので、皆さん何事かと。

 

このオッサンのカンパネラの話をすると、モッタさんはなにやら知っているような気配。ドラゴン先生は、聞きながらも既に手が動いてスマートフォンを操作している。瞬時に映像と音声が流れ出しました。僕が見た映像とは別なものらしく、これは5-6分のぶっ通しの演奏です。僕も含め四人とも一瞬、わが目と耳を疑うような、皆さん、言葉を失いました。ビールを持ってきてくれた仲居さんが「あっ、これはさんまさんの番組、漁師さんのピアノ演奏!」と放送を見ていたようで、会話に引き込まれてしまいました。いやあ、やはりこのオッサンの演奏は凄い!、凄いインパクトです。

 

興奮冷めやらない状態が続きましたが、漸く一段落。この方々に紹介した甲斐があったと嬉しく思ったのですが、驚きはこのオッサンの演奏に留まりませんでした。モッタさんがちょっと恥ずかしそうに「実は、むかし私もカンパネラに挑戦したことがあるのです!」「だから余計に感動しましたが、この年齢でピアノを始めた方が、ここまで弾けるとは信じられません」。なにーっ!、モッタさん、こんなにお上手にピアノを弾く方だったの!!。

 

前回の会食の時のことをブログの記事の一番最後に記載しましたが、 

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この時に、お二人が音楽にも大変に造詣が深いことを知らされて驚いたことを書きました。この時の話をもう少し詳しくお伝えしますと(そう言えば、この時も鶏鍋でした。別なお店ですが。名古屋はトリが美味いのです)、 ドラゴン先生の話では、モッタさんはバイオリンを嗜まれる方、とお聞きしていました。ご本人は、余りバイオリンのことは話題にせず「最近は、ピアノでジャズ系を弾きたい、弾いて楽しみむことが出来ればいいなあ、と思っている」とのことでした。僕が年を取ってからピアノのレッスンを受けていることに対しての温かい励ましの言葉だと理解していました。一方、これもビックリ(こちらの方がビックリ)なのですが、ドラゴン先生がチェロを弾くと。更に、学生時代にはホルンをやっていたと。先輩である朝比奈隆が大学で指揮をしてくれた時には、オケでホルンを担当して吹いたことがあると。いやはや、僕がヨチヨチ歩きでピアノを練習しているというのに、”あんたらホンマに何でもできる人たちなのねえ!”と驚いて、空いた口が塞がりませんでした。

 

そして今回は、モッタさんのピアノの技量が僕からすれば雲の上のレベルであることが判明してしまいました。俳句といいピアノといい、大変な方と接しているのだという事をヒシヒシと感じて、身が引き締まる思いでありました。

 

 

今回の反省会がここまで盛り上がったのも漁師のオッサンのお陰。改めて、徳永義昭さんに拍手喝采です。何といっても、まる7年間、一日7-8時間も、よくぞ練習を続けられたものです。全国でこの放送を見た中年~高年のピアノ初心者の方々(僕の周りだけでも、60を超えてから初めてピアノに挑戦している方が結構たくさんいらっしゃいますから、全国ではたいへんな数になるものと思っています)にどれだけ励みになることか。「練習量とやる気だけは、誰にも負けん!」というのは素晴しい一言であったと思います(真似するのは至難かと思いますが)。徳永さんにエールを送りたいと思います。

 

 

オマケです。弁当の写真。2020年1月29日、撮影。 

いつもの”のり弁”にパラパラ玉子と自家製鶏ハム炒めのっけ。おかずは野菜尽くし。ブロッコリー、カリフラワー、ニンジンの蒸したもの(茹でないで蒸してます)、得意のキャベツのザワ―クラウト風、ホウレンソウの茹でたん。上は、初めて挑戦した豚バラと大根煮、トマト。ためしてガッテンで、ご飯を「おひつ」に入れると冷えても美味しいことを紹介していましたので、騙されたつもりで小さな寿司桶を買ってきて冷やしてみました。確かに旨いと思いました。自己満足で”脳”がそう思っているのかも知れません。

 

 

オマケのオマケ(=蛇足)です。

一月に読んだ句の中から自選。孔瑠々の俳句です。続くかな?。

●古希ならば今年限りと年賀状

●ハイビスカス冬の緑の力強さよ

●四十年雑煮は我が家の味となり

●晴れ着なし通勤電車の年初日

●着ぶくれて落ち葉踏みしむカラス舞う

●新春にカンパネーラを漁師弾き

 

 

最後までお付き合い頂きありがとうございました。